感動・ヒューマンドラマ

『52ヘルツのクジラたち』あらすじネタバレ解説と感想【本屋大賞2021】

町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』を読みました!

本屋大賞で第1位!(2021)

本屋大賞には絶対の信頼を寄せていて毎年読んでいるのですが、今年も名作でした。

めちゃくちゃ辛かったり悲しかったりする場面もあるのですが、それを補って余りあるくらい温かくて優しい物語です。

今回はそんな小説『52ヘルツのクジラたち』のあらすじがよくわかるネタバレ解説(と感想)をお届けします!

ぱんだ
ぱんだ
いってみよう!

あらすじ

52ヘルツのクジラとは―他の鯨が聞き取れない高い周波数で鳴く、世界で一頭だけのクジラ。

たくさんの仲間がいるはずなのに何も届かない、何も届けられない。

そのため、世界で一番孤独だと言われている。

自分の人生を家族に搾取されてきた女性・貴瑚と、母に虐待され「ムシ」と呼ばれていた少年。

孤独ゆえ愛を欲し、裏切られてきた彼らが出会い、新たな魂の物語が生まれる――。

物語の導入

物語は主人公・三島貴瑚(きこ)が海辺の田舎町に引っ越してきた場面から始まります。

東京から逃げてきたらしい貴瑚は、なにやら「訳アリ」の様子。

生活態度はのんびりしていますが、お腹には痛々しい刃物の傷跡があります。

いったい貴瑚の過去になにがあったのでしょうか?

<すぐ下のネタバレにつづく>

ネタバレ

ちょっと先回りしてネタバレすると、貴瑚は「ある男」に刺された事件をきっかけに東京を去りました。

ぱんだ
ぱんだ
刺された!?

はい。ただ、もともとは貴瑚の方が包丁で男を刺そうとしていて、結果的に逆に刺されてしまったという次第です。

ぱんだ
ぱんだ
え……どういうこと?

状況が謎ですよね。

貴瑚の過去を紐解くため、まずは彼女の生い立ちから話を始めましょう。

不幸のどん底

貴瑚は両親から愛されず、それどころか邪魔者扱いされて育ちました。

なぜなら貴瑚は母親の連れ子であり、両親は二人の間に生まれた子ども(貴瑚の弟)だけを可愛がったからです。

貴瑚が小学4年生の時、貴瑚の服にアイロンがかけられていないと担任教師から母親が注意されたことがありました。

母親は家に帰るやいなや、貴瑚を殴りました。

※以下、小説より一部抜粋

…………

母は玄関でわたしを何度も殴ったが、その怒りはそれだけでは収まらなかった。

冬休みに入ってから、食事を満足にくれなくなった。

一日に一食、夕飯にふりかけをかけた白飯を茶碗一杯渡され、それも来客用のトイレで一人で食べなくてはならなかった。

母に恥をかかせた罰だということだった。

火の気のない冷え切った狭い空間で、温かそうな肉や魚の匂い、楽しそうな家族の笑い声を遠くに感じながら食べるご飯は、味がしなかった。

…………

家庭の内にも外にも、貴瑚を助けてくれる人はいませんでした。

「助けて」という貴瑚の心の叫びは、誰にも届きません。

52ヘルツのクジラの声が、他のどのクジラにも届かないように。

ぱんだ
ぱんだ
しんどい……

そうですね。しかし、貴瑚の不幸はまだまだこんなもんじゃありません。

義父が難病(ALS)に罹患し、その介護が貴瑚一人に押しつけられたのです。

貴瑚は内定していた就職を諦めさせられ、来る日も来る日も義父の介護に明け暮れました。

義父は感謝するどころか、ことあるごとに貴瑚を罵り、杖で叩きました。

やがて義父の病状が進行していくにつれて介護は重作業になり、ついに貴瑚は満足に寝ることさえできなくなってしまいます。

そんな貴瑚に前にして、母親は言いました。

「あの人じゃなく、こいつが病気になればよかった。こいつが死ねばいいのに……!

ぷつん、と貴瑚のなかでなにかが切れる音がしました。

運命の出会い

もしその出会いがなければ、貴瑚はきっと死んでいたに違いありません。

岡田安吾との出会いは、貴瑚にとってまさしく奇跡でした。

ぱんだ
ぱんだ
えっと誰?

貴瑚には牧岡美晴という親友がいます。

美晴が今にも死にそうな顔をしている貴瑚を道ばたで偶然見つけたとき、一緒にいたのが同じ職場の先輩である安吾でした。

美晴は強引に貴瑚を飲みに連れていき、事情を聴き出します。

ただごとではないと察した安吾も同席していました。

※以下、小説より一部抜粋

…………

「キナコ(貴瑚)は一生懸命に頑張ってたんだね。でも、誰も代わりのきかないことをひとりでやるのは、辛かったろうね」

アンさん(安吾)は、笑うと目が糸みたいに細くなる。

夜空に横たわる三日月のような目を、不思議な思いで眺めた。

初めて会ったひとなのに、どうしてわたしのことを昔から知っているように、欲しい言葉をくれるのだろう。

「頑張るのは、えらいことだよ。でも、そろそろ限界だと思う」

「でも、わたしがやらないとならないんです。血の繋がらない、母の連れ子のわたしを高校まで出してくれた恩があるので」

だから、わたしがやらないとならない。何度となく母が言い、わたし自身も自分に言い聞かせた言葉を口にすると、アンさんが「恩で死ぬの?」と訊いてきた。

「キナコ、さっきまで死ぬつもりだったよね? てことは、、限界を越してるんだよ。死ぬくらい追い詰めてくるものはもう『恩』とは呼べないんだよ。それは『呪い』というんだ」

(中略)

「キナコ、新しい人生に行こう」

アンさんが言う。わたしは耳の奥で、とくとくと音がするのを感じていた。何の音だろう。

ああ、これはわたしの心臓が高鳴る音だ。わたしは、ここから進むことができるのだろうか。

ふたりの笑顔を見つめた。

…………

「アンさん」こと安吾は瞬く間にもろもろの準備を整えると、貴瑚を家から連れ出してしまいました。

もちろん母親はギャーギャーと喚き散らしましたが、安吾は一歩も引きませんでした。

「こいつが病気になって死ねばよかったのに。そう言った口で、彼女を娘と呼ばないでくださいませんか」

ぱんだ
ぱんだ
しびれる!

「何で、ここまでしてくれるんですか?」と貴瑚が問うと、安吾は少し照れたように言いました。

※以下、小説より一部抜粋

…………

「そりゃあ、キナコが可愛いから、邪(よこしま)な気持ちで動いてるんだよ」

「え、は? あの、わたし冗談を聞きたいわけじゃ」

「やだな、本心だよ。可愛い女の子のためじゃなきゃ、こんなことしないよ」

アンさんが、ぷう、と頬を膨らませて言う。

これは、からかわれているのだろうか。

「でもね、きみの不幸につけこもうってつもりはないんだよ。ぼくは、そんな下衆野郎ではない。うーんと、できれば仲良くしたいなあって、それくらいの下心かな」

ふふふとアンさんが笑う。それはパンのヒーローの姿と重なった。

あのヒーローは、私欲のない神様みたいな存在だ。

ひとのしあわせだけを願い、そのためにいつだって迷いなく動けるヒーロー。

ああ、そうか。このひとは本当に、そういうひとなのだ。

パズルのピースが収まるように納得して、だからわたしはカバの子どもになったみたいに素直に「ありがとう」と言った。

パンのヒーロー……アンさんパンマン……

新名主税

地獄のような家庭から脱出できたのはよかったのですが、だからといって一朝一夕で元気になれるはずもありません。

長年にわたる虐待により貴瑚の精神はボロボロで、しばらくは不安定な日々が続きました。

しかし、ご安心ください。

やがて貴瑚は順調に回復し、本来の明るい性格を取り戻していきます。

恋人と過ごす日々が、貴瑚をどんどん元気にしていったのです。

ぱんだ
ぱんだ
恋人って?

はい。もちろん貴瑚の恋人というのは彼女にとってのヒーローである安吾のこと……ではありません。

ぱんだ
ぱんだ
えっ

貴瑚の恋人の名前は「新名主税」(にいなちから)

貴瑚が働きだした会社の跡取り息子で専務。8歳年上の頼れる男性です。

※ざっくり貴瑚が20代前半で、主税がアラサーっていう年齢ですね

ひょんなことから主税に見初められてつき合い始めて……それはまるでシンデレラストーリーのような展開でした。

初めての恋人。初めての男性経験。

不幸のどん底から一転、貴瑚は幸せへの階段を一足飛びで上っていきました。

あまりの幸福感に頭がくらくらし、もう死んでもいいと思った。

ただ、何もかも良いことずくめというわけにはいきません。

まさかの出来事でしたが、あの温厚で優しい安吾が主税に敵意を向けたのです。

初対面のときから、安吾は厳しく主税を睨みつけていました。

もちろん大人同士ですから、取っ組み合いのケンカになったりはしません。

しかし、主税から「あの男とは会わないでほしい」と言われ、貴瑚は安吾と疎遠になってしまいます。

 

今思えば、きっと安吾は貴瑚のことが好きだったのでしょう。

そうとしか考えられません。

安吾は貴瑚のことが好きで、しかし自分から言い寄ろうとはせず、ひたすら貴瑚から告白されるのを待っていたのです。

それなのにぽっと出の男に貴瑚を横取りされて、それで安吾は主税を睨みつけたのでしょう。

貴瑚は思います。

あの出会いなくして、今のわたしはない。でもわたしがアンさんに抱く感情は、男女のそれではない。

貴瑚にとって安吾はヒーローです。

安吾への感情は尊敬とか崇拝とかで、恋愛感情ではありません。

もし弱っていたあの頃に「好きだ」と言われていれば、貴瑚は喜んで安吾の恋人になったでしょう。

しかし、今では状況が違います。

貴瑚は優しく見守ってくれる安吾ではなく、力強く世界を広げてくれる主税を選びました。

妾の血

単刀直入にいうと、新名主税には5年間も同棲している婚約者がいました。

つまり、貴瑚は浮気相手だったということです。

安吾が会社宛てに送った密告文はやがて社内でも噂になり、貴瑚の耳にも入りました。

  • 決して貴瑚の部屋に泊まらなかったこと
  • 会社に関係を隠していたこと

今なら、それらの理由がよくわかります。

安吾は対面する前から何度も貴瑚から主税の話を聞かされていました。

安吾は独自に主税を調べ、他に婚約者がいると気づきました。

安吾が初対面の主税をいきなり睨みつけたのは、そうした理由からだったのです。

 

主税は貴瑚に言いました。

「このままの関係を、続けたい」

ふつうなら「すまない。別れよう」と言う場面で、しかし主税は「愛人になれ」と貴瑚に言い放ちました。

女二人くらい幸せにできるという自信が、主税にはありました。

貴瑚はもちろん「別れるべきだ」と瞬時に思います。

貴瑚を虐待した母親も、愛人でした。

このまま主税に流されれば父親のいない子供が生まれ、自分が味わった悲劇が繰り返されてしまうかもしれません。

妾の子として生まれたからこそ、わたしは母に愛されなかったのに

貴瑚は悩みに悩んだ末、主税に言いました。

 

「わたし、やっぱり主税がいないとダメなの」

頭では理解できていても、貴瑚はどうしても主税から離れられませんでした。

安吾の秘密

会社に告発しても無駄と悟ると、安吾は次に主税の婚約者にも密告文を送りました。

これが効果てきめんで、主税は婚約者に逃げられ、父親である社長から叱責され、社内での評価もすべり落ちるように下がっていきました。

一方、貴瑚はというと主税から与えられた部屋に軟禁されていて、会社も辞めさせられています。

この頃の主税は安吾への恨みですっかり豹変してしまっていて、貴瑚を手放さないのも愛しているからというより、安吾にやられたと認めたくない意地のためでした。

そんなある日のことです。

主税は鬼の首を取ったように笑いながら帰ってきました。

手には興信所に調べさせた安吾の調査票が握られていました。

主税が言います。

「おい貴瑚。あいつがお前に指一つ触れなかった理由が分かったぞ」

 

安吾はトランスジェンダーでした。

本名は岡田杏子(あんず)

「安吾」というのは地元長崎の大学を卒業し、上京してから名乗り始めた名前です。

戸籍上は女性のままで、身体もホルモン注射を打って男性化を図っていた途中でした。

 

主税は安吾の故郷の母親に電話すると「娘さん」に迷惑していると伝えました。

「あなたの娘さんが俺の恋人にストーカーをしているんです。俺も、私生活を勝手に嗅ぎまわられて迷惑しているんですよ。恋人は、恐ろしくて外に出られないと泣き暮らしている。お母さんの方から娘さんを諫めてもらえませんかね」

女手ひとつで安吾を育てた母親は、我が子の性のことを知りませんでした。

可哀そうに激しく動揺し、何度も何度も謝っている声が貴瑚にも聞こえてきます。

貴瑚は思いました。

※以下、小説より一部抜粋

…………

主税と、もう別れなくてはいけない。

優しかった主税はひとが変わってしまった。

彼をこんな風にしたのは他でもないわたしだ。

わたしが、誰にも祝福されない恋を掴もうとしたからだ。

主税に出会わなければ、せめてもっと早くに別れていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。

 

『あの新名という男は、キナコを泣かせるかもしれない』

ふと、アンさんの言葉を思い出した。

そうだ。あれはアンさんとの最後の会話だった。

『ねえ、アンさん。あのね……あの、わたしのこと、好き?』

『大事だよ。キナコのしあわせをずっと祈るくらいにはね』

すっかり忘れていた会話がふいにくっきりと蘇って、息を呑む。そして唐突に理解した。

ああ、そうだ。彼はそう言った。

となれば、彼のこの一連の(ストーカーのような)行動は、彼なりの、わたしのしあわせへの祈りではないのか。

わたしの罪を咎めているのではない。

わたしをしあわせにするために、彼はなりふり構わずこんなことをしているのだ。

シンクの前にへたり込む。足元から起きた震えが止まらない。

わたしは、大変なことをしてしまったのではないのか。

幸せへの祈り

貴瑚はいてもたってもいられず、安吾に会いに行きます。

外出したと主税にバレたら殴られるに決まっていますが、そんなことを気にしてはいられません。

アンさんに会って、これまでの謝罪をしたかった。あとは、主税と別れるつもりだとも言いたかった。

その日はちょうど安吾の母親が娘を故郷に連れ戻そうと上京してきていて、貴瑚は母親と一緒に安吾の部屋に入りました。

部屋の中に安吾の姿はありません。

シャワーの音がするので風呂に入っているのでしょう。

母親が確かめに行って、そして……

 

安吾は湯船の中で死んでいました。

事故ではありません。部屋のデスクの上には遺書が残されています。

二つの遺書のうち一通は母親に宛てたもの。

そしてもう一通は、主税に宛てられたものでした。

※以下、小説より一部抜粋

…………

新名主税様

どうして自分宛なのかと驚いていることでしょうね。申し訳ないですが、死んでいく者の声に少しだけ付き合ってください。

貴瑚と、別れてあげてください。

それができないのなら、貴瑚だけを見て貴瑚だけを守ってあげてください。

あなたも知っているかと思いますが、彼女はとても辛い過去を背負っています。

愛された記憶がなさすぎます。

彼女には、誰かに心身ともに包まれ満たされたというかけがえのない記憶がいるのです。

(中略)

あなたの言う通り、わたしは不完全な人間です。

あなたのように貴瑚を抱きしめる逞しい体は持っていないし、貴瑚を包み込むような強さもない。広い世界を見せてあげる度量もないかもしれません。

わたしは彼女の心身の両方を満たせる自信はなく、そんなわたしが彼女を望めばいつか彼女を苦しめるでしょう。

貴瑚の傍には欠陥のない人間がいるべきというあなたの意見には大いに賛成です。

未だ不安定なあの子を支えるのは、心身ともに充実した人間であるべきだ。

 

わたしは以前に貴瑚を救えたことで、満足しています。

そろそろ、彼女の新しい人生の過去の登場人物にならなければならないのだと思います。

ですから、貴瑚には黙って逝きます。

もし貴瑚がわたしの死を知ることがあれば、愚かなわたしは弱さゆえに死んだと言ってください。

 

貴瑚をしあわせにしてください。

これまでの非礼のお詫びも含め、この命をかけてお願い致します。

遺書に書かれた内容は本当に安吾の本心だったのでしょうか。

安吾は本当は貴瑚に自分のすべてを見てもらいたかったのではないでしょうか。

安吾もまた届かない声を叫ぶ52ヘルツのクジラの一頭だったのです。

そして東京を去る

安吾の遺書には、貴瑚への愛情があふれるほどに込められていました。

筆跡に乱れはなく、死を前にした安吾が穏やかに貴瑚の幸せだけを祈っていたことが伝わってきます。

安吾が命をかけたその手紙を、しかし、新名主税は受け取るなり読まずに燃やしました。

「すっきりした、と主税は笑ったの。これで全部終わりだ、って。その笑顔が恐ろしくて、わたしはもう殺さなきゃと思って、だから包丁を抜いた

自分に向けられた切っ先に、さすがの主税も青ざめました。

貴瑚と主税はもみ合いになり、そして包丁は貴瑚のお腹に深々と突き刺さります。

 

幸いにも、貴瑚の命に別状はありませんでした。

主税の父親から示談金を積まれ「息子ともう会わないでほしい。遠くに移り住んでほしい」という勝手な言い分を受け入れ、そうして貴瑚は東京を去りました。

貴瑚は当時を振り返って言います。

「あそこでああしていないと、結局どこかで自殺していたと思うんだ。罪悪感に潰れて、生きていけなかった。でも、一度死にかけたことで、『死ななくてはならない』っていう強迫観念みたいなものが嘘みたいに消えたの」

貴瑚は何もかも失って、祖母がかつて住んでいた大分県の田舎町に越してきました。

ふとした瞬間に「アンさん」とつぶやいてみても、誰もこたえてはくれません。

死への欲求が消えたのと同時に、感情のどこかが死んだ感覚がありました。

そんなときです。

貴瑚は「ムシ」と呼ばれる少年と出会いました。

小説では貴瑚の過去は「現在」の物語と並行して交互に回想されているのですが、この解説ではまとめてお伝えしました。

ここからは少し駆け足で「現在」の物語をお届けします。

ムシと呼ばれた少年

その少年の肌は青痣だらけで、身なりは小汚く、がりがりにやせ細っていました。

少年は母親から虐待されていました。

舌にタバコの火を押し当てられたこともあり、それ以降、少年は言葉を発することができません。

ぱんだ
ぱんだ
エグ……

貴瑚は少年をかくまい、琴美という彼の母親に直接抗議しました。

※以下、小説より一部抜粋

…………

「あの子はわたしのところに逃げ込んできました。ケチャップ塗れで、怯えてた。あなた一体何をしたんですか?」

語気を強くして訊くわたしに、琴美がひょいと肩をすくめる。

「わたしの食べようとしてたピザを勝手に食べたの。だから躾けてやっただけよ。ケチャップじゃなくてタバスコにしてやればよかったって思ってる」

つまらなそうに言う顔が、怖い。

彼女は自分のしたことに少しの罪悪感も感じていない。

「あなたの実の子どもですよね? どうしてそんなことができるんですか」

自分の声が荒くなるのがわかる。

琴美はすっと目を細めた。それから「逆に訊きたいけど、どうしてしちゃいけないの?」と言った。

「私が産んで私が面倒見てやってる。私の子じゃん。どうしようと、私の勝手でしょ。それに、私はあいつを産んだせいで人生が狂ったの。あんたは私のこと加害者のように言ってるけど、私は私こそが被害者だと思ってる」

「は? 被害者って、それ本気で言ってるんですか?」

「うん、本気。しなくていい苦労はたくさんしたし、我慢しなくていいことも我慢してきた。私が辛い目に遭ってんのに、あいつはムシみたいにぼんやり生きてるだけ。そんなのをどう大事にしろっての。無理でしょ」

唇を歪めて、琴美が笑う。

ちっとも役に立たない、足手まといになるばかりの子どもなんて、いらない。あんな虫けらみたいなもの産むんじゃなかったって毎日思ってる。

てか、虫けらだったらパンって潰してそれで終わりにできるのにね。だから虫けらより性質が悪い。

耳を塞ぎたくなるような琴美の言葉に、泣き出しそうになる。

あの子はこんな呪詛みたいなものをずっときかされていたのだろうか。

「もう……もういいです!」

最後まで聞けないわたしは、弱いのかもしれない。でも、これ以上聞いていたら心がおかしくなってしまいそうだった。

 

あの子はわたしが面倒を見ることにします。でも、本当にあなたはそれでいいんですね?」

念を押すように言うと、琴美は「しつこいなあっ」と声を荒げた。

「好きにしたら? 私は本気でいらないんで、どうにでもしてって感じ。てか、助かるだけだから。あ、やっぱ返しますとかやめてね。マジで迷惑」

52

貴瑚は少年に「52ヘルツのクジラの声」を聞かせました。

それは貴瑚が眠れない夜によく聞く声です。

「クジラの声を聴くと気持ちが穏やかになって、ぐっすり眠れるようになったんだ」

少年もクジラの声を気に入ったようなので、貴瑚は彼のことを「52」と呼ぶことにしました。

「52」が安心して暮らせるようにするには、誰を頼ればいいのだろう?

父親は行方知れずで、母親は論外。

琴美の父親である品城老人も虐待を見て見ぬふりしていたので、やっぱり論外です。

貴瑚は「52」の父方の親戚を訪ねましたが、祖母の真紀子も、叔母の千穂も、すでに亡くなっていました。

 

事情に詳しい町の住人に訊ねてみると、品城老人と離婚した元妻、つまり「52」の母方の祖母にあたる生島昌子という女性になら安心して彼を任せられるようでした。

別府で子ども食堂を営んでいるという彼女に会いに行ってみよう。

話がまとまった、その夜のことです。

夜中に貴瑚がふと目を覚ますと、「52」の姿がありません。

この日は母親の琴美が男と一緒に町から去ったり、孫の名前も覚えていない品城老人が怒鳴り込んできたり、いろんなことがありました。

思い返すと「52」はどこか諦めきったような、暗い表情を浮かべていました。

きっと52は死のうとしている。

貴瑚は「海だ」と直感します。

今にも海に落ちそうになりながら堤防の上を走る「52」を止めたい一心で、貴瑚は叫びました。

※以下、小説より一部抜粋

…………

「ねえ、わたしと一緒に暮らそう!」

叫ぶと、52の足が止まった。驚いたように振り返る顔に月明かりが差す。

信じられないものを見たように目を見開いたその顔に、大きな声で言った。

「誰かにあんたを預けてそれで終わりというのは違う気がしてたんだ。それに、わたしがあんたの傍にいたい。ねえ、ふたりで生きていこうよ。わたしは素晴らしい大人じゃないけど、あんたを呆れさせることもあるだろうけど、でもあんたと一緒に成長していけるように、頑張るからさ」

必死になってしゃべる。

52は、わたしの真意を探るように見つめてくる。

人を信じられなくなりかけているその顔に「本当だよ」と言う。

(中略)

「わたしが守るから、帰ろう」

手を差し出し、愛をこめてその名を呼んだ。

「わたしと帰ろう、愛(いとし)

月明かりの下、彼が大きく震えるのがわかった。それから、夜空を仰ぐ。

波の音だけが広がっていた世界にああ、と声が響いた。

ああ、ああ、と愛は体を折って声を上げる。

その姿は何かと闘っているようで、わたしは手を出したまま見守る。

溢れる涙を拭った愛は、わたしを見て叫んだ。

 

「キナコ!」

はっきりと、呼ばれた。その声はアンさんに似ていて、でも、愛の声だった。

「愛」

「キナコ! キナコ!」

愛が駆け寄ってくる。

勢いよく抱きついてくる体を、全身で受け止めた。

確かな強さと温もりが腕の中にある。

強く抱きしめ返して、わたしも声を上げて泣いた。

 

わたしはまた、運命の出会いをした。

一度目は声を聴いてもらい、二度目は声を聴くのだ。

このふたつの出会いを、出会いから受けた喜びを、今度こそ忘れてはならない。

52こと愛が発した初めての言葉が「キナコ!」でした。

数日間ずっと一緒にいて心を通わせた貴瑚と愛の旅路の果てのこの場面は、読んでいて思わず目が潤むほど感動的なシーンでした。

結末

現実問題として、貴瑚が今すぐに愛と暮らし始めるのは難しいことです。

琴美から親権を取り上げないといけませんし、後見人としての貴瑚は親族でもなければ働いてすらいないのですから。

昌子と話し合った結果、ひとまずは祖母である昌子が愛を引き取り、法的な手続きも引き受けてくれるということになりました。

貴瑚と愛が一緒に暮らし始められるのは、2年後。

愛が15歳になれば後見人を自分の意思で指名することができるようになります。

とはいえ、それだって簡単な手続きではありません。

貴瑚も愛も、2年間うんと頑張らなければならないでしょう。

だけど、きっと大丈夫。

貴瑚はこの町で愛をはじめとした温かい人々と出会いました。

親友の美晴はわざわざ大分まで来てくれて、貴瑚のわがままに付き合ってくれました。

※実は美晴はかなり早い段階から合流していて、愛の親族探しにも同行してくれていました

貴瑚は思います。

わたしはしわせだ。本当に、しあわせだと思う。

何もかも失ったと思っていたのに、気付けばこんなにも、たくさんのものを持っている。

物語のラストシーン。

月明かりの下、貴瑚は海を眺めながら隣に座る愛に話しかけました。

52ヘルツのクジラたち

※以下、小説より一部抜粋

「あのね、愛が向こうに行ってしまう前に、ちゃんと話しておこうと思って」

少しだけ言葉を探した後、わたしは「わたし、あんたに会うまで死んでたんだ」と話し始めた。

「ここに来る前に、大好きなひとを死なせてしまって、そしてもうひとりの大好きなひとを恐ろしいひとに変えてしまった。それが辛くて、自分も死にたいと思ったのに死ねなくて、だから心だけ死んでたと思うんだ」

愛は黙って耳を傾けてくれる。

「前に、わたしはわたしの声を聴いてくれた人の声を聴けなかったと言ったでしょ。そのせいで、死なせてしまったの。そのことがずっと辛くて、自分を許せなかった。わたしがあんたにしようとしたことは、そのひとに対する、できもしない贖罪だった」

波の音が優しい。小さな雲が月明かりによって形を現している。

 

「その贖罪がいつしか、わたしを生かすようになってた。あんたのことを考えて、あんたのことで怒って、泣いて、そしたら死んだと思っていた何かが、ゆっくり息を吹き返してたんだ。わたしはあんたを救おうとしてたんじゃない。あんたと関わることで、救われてたんだ」

愛の目を見て、「ありがとう」と言う。

「わたしを見つけてくれてありがとう、愛」

(中略)

「キナコに会えて、よかった」

嬉しくて、言葉が出ない。あの晩、全身で感じた声は夢じゃなかった。

わたしはちゃんと全身で彼の言葉を受け止めていたのだ。受けとめることが、できたのだ。

「これから頑張ろうね、愛」

手をぎゅっと握って、何度も繰り返す。

これからわたしたちは、どんなことがあったって頑張れるよ。

だって、離れていても声を聴いて、声を聴かせてくれるひとがいると知ったもの。

それに、わたしたちはたったひとりで群に飛び込んで生きていくんじゃない。

ふたりで、この手の熱を感じて、存在を感じて、わたしたちの声を聞いてくれる群で生きていくんだ。

それはとてもしあわせなことなんだよ。

わたしたちにはもう、孤独に歌う夜は来ない。

遠くに、クジラの鳴き声を聞いた気がした。

優しい歌声は、わたしたちを喜んでくれているのか、それともささやきかけているのか、分からない。

顔を上げて海を見ると、愛にも聞こえたのか同じ方向を見た。

 

「52ヘルツ」

愛がつぶやいて、耳を澄ませるように目を閉じる。

その横顔は祈っているようにも見えた。

わたしも目を閉じて祈った。

今この時、世界中にいる52ヘルツのクジラたちに向かって。

 

どうか、その声が誰かに届きますように。

優しく受け止めてもらえますように。

<おわり>

感想

あなたは「52ヘルツのクジラ」とは誰を指す言葉だと思いますか?

  • 貴瑚
  • 安吾

模範的な解答はたぶん上記の3人ですよね。

彼らは誰にもSOSの声が届かない孤独に傷つき、絶望していました。

一方で、わたしは琴美も、主税も、品城も、みんなやはり「52ヘルツのクジラ」だったのではないかと思います。

※いや、決して好きにはなれない人たちだけれども

どういうことかというと、ひとつの極論として人間はみんな孤独だということです。

どんなに仲のいい友達でも、恋人でも、家族でも、自分ではない人間の考えていることはわかりませんし、逆に自分の気持ちが100%そのまま相手に伝わることもありません。

貴瑚や愛のように切実な事情があるわけではなくても、わたしたちは大小さまざまな「52ヘルツのクジラ」を心の海に棲まわせているのではないでしょうか。

そしてそれなりに長く生きている人なら、人生で一度や二度は「誰か助けて」と心の中のクジラを鳴かせた経験があるものではないでしょうか。

きっと、だからこそ、なのでしょう。

わたしが小説『52ヘルツのクジラたち』を読んでこんなにも共感し、感動したのは、(おこがましくも)わたし(読者)の分身のようでもある貴瑚と愛が救われていたからなのだと思います。

もっと簡単にいえば、貴瑚や愛が救われたことで、物語を外から読んでいるわたしもまた救われた気持ちになっていたのだと思います。

この物語はまるで町田そのこさんからの

「あなたの声は誰かに届くよ」

「あなたは誰かの声を聴けるよ」

という優しすぎるメッセージのようでもありました。

 

なんとなく「一度失敗したら終わり」みたいな風潮がある昨今。

人生に失敗しても、間違えても、たとえ死にたくなったって、それでも何度だってやり直せる。

誰にも届かない声は、けれどいつかきっと誰かに届く。

そんなメッセージをわたしは『52ヘルツのクジラたち』から受け取ったように思います。

まるで生きる希望を与えてくれるような、温かくて素敵な物語でした。

ぱんだ
ぱんだ
いいねしてね!

 

まとめ

今回は町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』のあらすじネタバレ解説(と感想)をお届けしました!

最後まで読んでいただきありがとうございます。

今回は特別に長い記事になってしまいましたが、実はこれでも泣く泣く省略したエピソードやシーンがてんこ盛りです。

『52ヘルツのクジラたち』がどうして本屋大賞に輝いたのか、その本当の魅力は読んでみてはじめて伝わるものだと思います。

「絶対に損はさせない!」と自信をもっておすすめできる作品です。

未読の方はどうぞご自身の手でページをめくって、上質な読書時間をお楽しみください。

 

ぱんだ
ぱんだ
またね!


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雑誌でいえば『りぼん』『マーガレット』とかですね。



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↓配信中タイトル
  • 『ハニーレモンソーダ』
  • 『君に届け』
  • 『NANA-ナナ-』
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POSTED COMMENT

  1. 鯨さん より:

    主税に向けて包丁は向けていませんよ

    >p205をご参照ください(わかたけより)

  2. のぶゆき より:

    見させてくれて、ありがとうございました。
    私は、弟を自死でなくしていますので、安さんが自死した時点で、この本は、読めないとわかり、参考になりました。

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