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朝井リョウ『正欲』あらすじネタバレ解説|結末と感想【映画原作小説】

朝井リョウ『正欲』を読みました。

読書の感想で「〇〇について考えさせられました」という言い回しがありますが、本作はその極致というべき一冊です。

読者は決してこの本が訴える《叫び》と無関係ではいられません。

わたしがその叫びをどう受け取ったのか……は後半(感想)にまとめるとして、まずは「そもそもどんな物語なのか?」からですね。

2021年に最も話題にあがった本のひとつ。今年(2022年)の本屋大賞では4位。

今回は小説『正欲』のあらすじ解説と感想をお届けします。

ぱんだ
ぱんだ
いってみよう!

あらすじ

物語はおぞましい犯罪を報じるネットニュースから始まります。

《自然豊かな公園で開催されていた小児性愛者たちのパーティ》

男児のわいせつ画像を撮影したなどの容疑で男性3人が逮捕された事件。

彼らは非常に巧妙な手口で子どもたちに近づいていました。

「手口としては、まずは夏の公園で、無償で水鉄砲などの遊び道具を与える。そうすれば子どもたちは汗や水で濡れた服を自然に脱ぎますし、大人として濡れた子どもたちの身体を拭いてあげたりする作業が生まれます。

他にも、怪我をした子どもに傷薬や虫刺され薬を塗るふりをして接触し、その様子を撮影していたものも見つかりました。もちろん、その動画や画像は、メンバー内で共有されていました」

彼らグループの名前は《パーティ》

動画や画像を共有する小規模な集まりで、データは厳格なルールのもと外部に流出しないよう徹底されていました。今回その存在が明るみに出たのは、メンバーのひとりが16歳の少年と性的な関係を結んだことから摘発されたためです。

「コミュニケーションアプリの履歴を洗い出したところ、公園に集まり、そこにいた子どもたちと交流するという《パーティ》の存在が明らかになりました」

卑怯なやり口で子どもを性的に搾取していたパーティ。

彼らの肩書きはそれぞれ、

  • 小学校の非常勤講師
  • 大企業の社員
  • 大学で有名な準ミスターイケメン

というものでした。

※以下、小説より一部抜粋

…………

驚くべきは《パーティ》のリーダーを務めていた佐々木が容疑を否認しているという事実だ。

「矢田部は容疑を概ね認めていますが、諸橋は黙秘を貫き、佐々木に関しては否認しているようです。わけのわからない主張を繰り返しているらしく、精神鑑定に持ち込むつもりなのかもしれません。不起訴になったとて、勤めていた大手食品会社はクビでしょうし、離婚は免れないでしょう。それ以前に、あれだけ大量の写真や動画が出てきた限り、不起訴になることはあり得ないと思います」

本誌は佐々木の自宅周辺にて、帰宅途中の妻に声を掛けた。夫の話をしようとすると、妻は目を伏せ足早に自宅に入り、すぐに鍵を掛けてしまった。

そこは、何ということもない、閑静な住宅街。善人面をした悪魔は、あなたのすぐ隣にいるのかもしれない――。


真相

上記記事で報じられた内容は、ある意味、この物語の結末です。

冒頭の後、物語は事件の一年以上前からスタートします。事件当日までのカウントダウンが進んでいくように、物語は展開されていきます。

この構成に気づいたとき、きっと多くの読者は予感したはずです。

「さては記事の内容は真実じゃないな?」と。

ぱんだ
ぱんだ
むむ?

冤罪。そうでなくとも警察や記者が誤解している何かがある。いかにも「これから記事の内容をひっくり返していくぞ」という雰囲気が漂っていました。

結論から言いましょう。

食品会社に勤める佐々木佳道、イケメン大学生の諸橋大也、この2人は子どもを対象にした性的嗜好の持ち主ではありません。

彼らが公園で男児と遊んだのは事実です。矢田部から共有された動画や画像も所持していました。

けれど、そもそもパーティが夏の公園に集まったのは子どもと交流するためではありません。水鉄砲だって自分たちで使うはずだったのです。

では、彼らの本当の目的は何だったのか?

なぜ諸橋大也は黙秘し、佐々木佳道の主張は「わけがわからない」と切り捨てられているのか?

これから始まるのは「多様性」を巡る物語です。

<すぐ下のネタバレに続く>


ネタバレ

「多様性」は時代のアップデートを象徴するテーマとして近年よく耳にする言葉です。

差別のない社会の実現を。

LGBTQの恋愛を描いたドラマや映画が人気を博していたりと、性的指向の多様さは社会に受け入れられつつあるように感じられます。

けれど、本当にそうなのでしょうか?

幸せの形は人それぞれ。多様性の時代。自分に正直に生きよう。そう言えるのは、本当の自分を明かしたところで排除されない人たちだけだ。

「あなたが人と違っていても理解してあげる」と手を差し伸べる人間はだいたい多数派(マジョリティー)の内側にいます。

金持ちが「お金は大事じゃないよ」と言っても響かないように。

容姿の整っている人間が「外見は大事じゃないよ」と言っても説得力に欠けるように。

異性愛者が「私は差別しません」なんて簡単に言えるのは、差別される側ではないからです。

「お前らが大好きな《多様性》って、使えばそれっぽくなる魔法の言葉じゃねえんだよ」

さて、ここまで言っておいてなんですが『正欲』はLGBTQを扱った物語ではありません。

性的指向ではなく、性的嗜好。

それこそ多様性の時代になっても社会からつまはじきにされるような特殊性癖の持ち主たちの物語です。


社会の外側

世の中にはわたしたちの想像も及ばないような性癖がごろごろ転がっています。

窒息フェチ。丸吞みフェチ。全身をぐるぐる巻きにされることを好むマミフィケーションフェチ。風船が膨らむことに興奮する風船フェチ。

多様性そのものでありながら、多様性の時代からも「理解できない。気持ち悪い」と切り捨てられる日陰の性癖たち。

本作の中心人物である佐々木佳道、諸橋大也、桐生夏月もまたとある共通の特殊性癖を持っていました。

水に興奮する、という性的嗜好です。

水に濡れた人間が好き、という意味ではありません。水が流れたり、噴射したり、弾けたり、彼らはそれらの様子に性的な興奮を覚えます。

それらは異性が好き、同性が好き、と並列に語ることのできる生まれ持った性質です。

異性愛者が同性の裸体に興味を抱かないように、彼らは異性の(そして同性の)裸体にほんの少しの興味すら抱きません。

LGBTQをも内包した「人間が性的対象である」という圧倒的な多数派から生まれながらにしてこぼれ落ちていた彼らの人生は、教会から迫害されぬよう隠れて暮らす異端者のそれを彷彿とさせます。

異性に性的な興味がないと知られたら。水に性的な興奮を覚えるなんてバレたら。

待っているのはそれこそ迫害です。彼らは多様性の社会が受け入れると定めたラインの外側に立っています。

夏月は言います。

「地球に留学してるみたいな感覚なんだよね、私」

夕暮れの川辺。ぽつりぽつりとつぶやく夏月の言葉を、中学の同級生であり人生で出会った唯一の同士でもある佐々木佳道が静かに聞いていました。

※以下、小説より一部抜粋

…………

「どこにいても、その場所にいなきゃいけない期間を無事に乗り切ることだけ考えてる。誰にも怪しまれないままここを通過しないとって、いつでもどこでも思ってる

そうすると、誰とも仲良くなんてなれないんだよね。

人生の中のたった一点を隠してるだけなのに、週末にこういう(仲間とのBBQに使われるような)場所に来る生活とか人間関係とか、全部が遠ざかっていくの」

「俺も一緒」

(中略)

性的対象は、ただそれだけの話ではない。根だ。思考の根、哲学の根、人間関係の根、世界の見つめ方の根。遡れば、生涯の全ての源にある。

そのことに多数派の人間は気づかない。気づかないでいられる幸福にも気づかない。

他者が登場しない人生は、自分が生きていくためだけに生きていく時間は、本当に虚しい。その漆黒の虚しさを、誰かにわかってもらおうなんて思わない。だけど目に映る全員に説いて回りたい。

私はあんたが想像もできないような人生を歩んでいるんだって叫び散らして、安易に手を差し伸べてきた人間から順に殺してやりたい。

(中略)

夏月は思う。

多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。

時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ。

ざっと調べただけですが「水に興奮する」という性的嗜好は(現実には)見つかりませんでした。あらゆる特殊性癖のメタファーとして作者が創作した性癖なのではないかと思っています。


共生

物語の中で、夏月と佐々木はそれぞれ命をあきらめる選択に手を伸ばします。

きっかけは何も知らない他人からの心無い言葉だったり、両親の死だったり。

結果として二人とも生き延びることになるのですが、それは本当にたまたまそうなっただけにすぎません。

視界の端にちらりと彼の姿が映らなければ夏月はアクセルを踏み抜いていたでしょうし、彼女から呼び止められなければ佐々木はホテルの一室にガスを充満させていたでしょう。

この部屋に入った瞬間、わかった。死のうとしている人間の空間だと。

辛いばかりの人生。それでも夏月と佐々木にとって幸いだったのは、同じ苦しみに耐えながら生きている相手と出会えたことです。

2019年。その夏に佐々木が逮捕されることになる年のはじめに、ふたりは結婚しました。

共同生活にあたって設定したルールは次の通り。

食事や家事はそれぞれ自分で担当すること。身体的接触はなし。そして自殺禁止。

※以下、小説より一部抜粋

…………

――この世界で生きていくために、手を組みませんか?

2019年を迎えて数分後、佳道は、名前と性癖以外何も知らないような相手にそう言っていた。

夏月は、佳道の携帯電話を握りしめたまま(佐々木が書いた文章を読んでいた)、「え、いいねそれ」と、まるで今日の夕飯は出前にしようとでも提案されたかのような返事をした。

それからの行動は早かった。

(中略)

両親は、あまりに突然の話に驚いてはいたものの、ひどく安心した表情を見せたという。

佳道も一度挨拶に行ったが、「もらってくれてありがとうございます」と言われたとき、夏月がどんな空気の中で生活していたのか、なんとなく察することができた。

もとは、中学の同級生。昨年の同窓会で再会して、そのまま交際することになった――二人で話し合って決めた設定を丸ごと信じ込み、一人娘が結婚するという事実に心から安堵している老夫婦を前にしたときは、さすがに、騙していることに対する罪悪感が湧いた。

だけど夏月の言う通り、これまで30年間嘘をつき続けたことによる実績は、そんなことでは揺らがなかった。

(中略)

自分が死なないでいることがいいことなのかは、正直、わからない。自殺禁止と約束してまで生き延びていることに何の意味があるのかもわからない。

だけど、自殺の後処理に関わるだろう人に迷惑をかけないでいられるというだけでも、今は、生きるほうを選んでみていることに意味がある気がしている。

どんなふうに生まれたって生きていける、生きていいと思える。

そんな社会なら一番いいけれど、そうではないので、そんな空間を自分で作るしかないのだと感じる。

(中略)

自分と夏月は、他人だ。恋愛関係にあるはずもなく、そのうえ友人ですらない。

夏月のことはほとんど何も知らない。夏月も自分のことをほとんど知らない。

ただお互いに、絶対に他の誰にも知られたくないことだけを、だけど確実に自分の思考や哲学の根にあるものだけを、握り締め合っている。

心臓を掴み合っている、地球上でたった一人の相手。

この関係は一体何と呼ばれるのだろうか。他人でも友人でも恋人でも同居人でもしっくりこない。共犯者? 近いけれど、何だかカッコつけすぎているような気もする。

味噌汁を飲み干す。食事が終わる。

別に、呼び名なんてなくていいか。そう思いながら、佳道は自分の分の食器を洗う。


正欲

佐々木は思います。自分たちの結婚生活はいつ崩壊してもおかしくないと。

もしどちらかが重大な病気を患ったら? 仕事を失ったら?

彼らの夫婦関係はお互いの自立という大前提のもとに成り立っています。

愛情で結ばれた夫婦ならそれこそ病めるときも共に生きるのでしょうけれど、彼らはただ生き抜くために手を組んでいるだけにすぎません。

その合理的な協力関係においてパートナーが窮地に陥ったとき、その重荷を引き受けてまで共同生活を続けていくのかどうか……その答えは佐々木自身にもわかりませんでした。

ぱんだ
ぱんだ
うーん……

とはいえ、結婚という選択は佐々木と夏月にとって基本的にはプラスに働きました。

既婚者というだけで職場での信用度が上がったり、他人の恋愛事情を暴こうとする煩わしい視線や会話から解放されたり。

それだけではありません。

これまでひた隠しにするしかなかった欲望について話せる相手が近くにいてくれるというだけで、呼吸が楽になる感覚がありました。

「なんかおいしいもの見つけたときに二人分買って帰ろうかなとか思えるだけで、なんだろう、あー死なない前提で生きてるなって感じられるし、将来のこと考えて上下左右わかんなくなるくらい不安になる瞬間があっても、その不安を共有できる人がいるって思えるだけでちょっと楽になるし……ほんとに、色んなところで(手を組むって)こういうことかーって思う」

それに、社会から受け入れらない二人がつながったからこそのメリットもありました。

「お互いに観たい動画を、二人で撮ってみよう」

平日の午前、夏の清水ヶ丘公園。佐々木と夏月はまわりに誰もいなくなったタイミングを見計らって、録画ボタンに指をかけました。

※以下、小説より一部抜粋

…………

羞恥心が消えてからは、スムーズだった。お互いに、今の自分が最も興奮する種類の水の動画を求めて、両手を忙しく動かし続けた。

後半、夏月が「この動きに特化した動画、ずっと欲しかったの」と明かした、中身の見えるプラスチックカップに水を移し替えていくという映像は、今思い返してみてもとても耽美だ。

水が満杯に入ったカップを高いところでひっくり返すことで、その下に待機させていたカップに水が移る。水は、どれだけ激しい動きで下のカップへ飛び込んだとしても、少し暴れたあとにすぐ水平線を保つ。

それは、水の持つ流動性を余すところなく味わえる新感覚の動画だった。

(中略)

「ああいう、地元にある大きな公園みたいなところにわざわざ出かけたの、私、初めてだったかもしれない。前々から予定合わせて、前日までにいろいろ買っておいたり準備したりして、外出に合わせた服装用意して、日焼け止め貸し合ったりして、実際に出かけて、で、性欲を満たすようなことを二人でして、帰ってきて」

夏月の語り口に、もう恥じらいはない。

「世に言うデートってこういうことなんだなって」

いや、と、夏月はすぐに付け足す。

「一緒に出かけてる相手に恋愛感情がないって時点でそもそも違うのかもしれないけど、なんていうのかな、今日はちゃんと季節があったし、社会の中にいる感じがしたし、しかもそれでいて性欲もあったの」

夏月の言わんとしていることが佳道にはよくわかった。

自分の抱えている欲望が、日々や社会の流れの中に存在している。その事実が示す巨大な生への肯定に、生まれながらに該当している人たちは気づかない。

生きていくために備わった欲求が世界のほうから肯定される。

性欲を抱く対象との恋愛が街じゅうから推奨され、性欲を抱く対象との結婚、そして生殖が宇宙から祝福される。

そんな景色の中を生きていたら、自分はどんな人格で、どんな人生だったのだろうか。

(中略)

――まともじゃない人にいてもらってもね、困っちゃうから。わかるでしょ?

まとも。普通。一般的。常識的。自分がそちら側にいると思っている人はどうして、対岸にいると判断した人の生きる道を狭めようとするのだろうか。

多数の人間がいる岸にいるということ自体が、その人にとって最大の、そして唯一のアイデンティティだからだろうか。

だけど誰もが、昨日から見た対岸で目覚める可能性がある。まとも側にいた昨日の自分が禁じた項目に、今日の自分が苦しめられる可能性がある。

自分とは違う人が生きやすくなる世界とはつまり、明日の自分が生きやすくなる世界でもあるのに。


生欲

人間の根源的な欲求とは、もしかしたら「誰かとつながりたい」ということなのかもしれません。

だとすれば性欲は問答無用で人と人を結びつける画期的なシステムだと捉えることができます。

それは単に男女という社会の最小単位をつくる働きだけを担っているわけではありません。

誰もが異性に性的な欲求を抱くという共通認識が社会の根底にあるからこそ、そこに属する人々の間には連帯感が生みだされます。

わかりやすい例でいえば、下ネタで盛り上がったりとかですね。

そんな「正しい性欲」を前提に構築された社会において、佐々木たちのような存在は異物でしかありません。

多様性がどうの、というお題目なんかじゃどうにもならないほど、決定的に「人とつながれない」イレギュラーです。

夏月は言います。

「私、危なかったと思う。こうして誰かと繋がれてなかったら、どうなってたんだろうって思う」

もしほんのちょっとだけタイミングがズレていたら。2018年の大晦日に二人が出会っていなかったら。今この瞬間、もう世界には佐々木佳道も桐生夏月も生きていなかったかもしれません。

佐々木は言います。

「提案なんだけど、手を組む人、増やしてみるっていうのはどうかな」

※以下、小説より一部抜粋

…………

「それって」

「次は、同じような人たちに呼びかけてみたうえで撮影をしてみるってこと」

佳道の発言に、夏月の瞳が揺れたのがわかる。

「もちろん、秘密厳守は徹底する。この関係性を誰にも伝えないっていう約束は守る」

この結婚の仕組みを、決して他言しないこと。

つまり、お互いの特殊性癖を勝手に公開することに繋がる行動は、絶対にしないこと――婚姻関係を結んだときに決めた約束が、静電気のように二人の間をぴりりと流れる。

「俺たちはこうやって偶然繋がれたけど」

夏月の瞳は、もう揺れていない。

「そうじゃないギリギリの人、いっぱいいると思うから」

来られればいいのに。佳道は思う。

暴発しかねない欲望をどうにか飼いならしている誰かが、自分自身の生き場をなくしてどうようようもなくなった誰かが、手を組みに来られればいいのに。

「なんか、びっくり」

夏月は一度ゆっくり瞬きをすると、口元を緩めた。

「半年前死のうとしてた人とは思えない発言」

夏月以上に、佳道自身が驚いていた。自分がこんなことを言い出すなんて、数分前までは思ってもみなかったからだ。

だけど。

「もう、卑屈になるのも飽きたから」

飽きた。

もう、卑屈にすっかり飽きたのだ。

生きていきたいのだ。

この世界で生きていくしかないのだから。

楽しみたいものを罪悪感を抱かずに楽しみ続けるための方法を、今のうちに見つけ出しておきたいのだ。

きっとこの世界は、自分はまとも側の岸にいる、これからもずっとそこにいられると信じている人による規制が強まる方向に進むのだから。

それならば、今からでも、生き抜くために手を組む仲間をひとりでも増やしておきたい。

自分のために。

そう、これはもう、いま孤独に苦しむ誰かのためになんていう奉仕の気持ちからくる誓いではない。明日再びたった独りになっているかもしれない自分を、今から救い始めておきたいのだ。

何より、生きていく方法を考えることは、これまで味がなくなるほどに噛み締めてきた絶望に打ち勝つと、そう思いたいのだ。

「良いと思う」

よいしょ、と、夏月が椅子から立ち上がる。

「賛成!」

夏月が両手を挙げると、同時にゲップが出た。それに「きたなっ」と眉を顰めることができているこの時間に、佳道は間違いなく、生かされているのだった。


前夜

佐々木はSNSで同じ特殊性癖の持ち主を募り、いわゆるオフ会を開催します。

呼びかけに応えたのは大学生の諸橋大也、そして小学校に勤める矢田部陽平。

佐々木はアプリ上で彼らとやりとりするグループに「パーティ」という名前をつけました。

その意味は《お祭り騒ぎ》ではなく《仲間》

お互いに助け合うつながりを願っての命名でした。

しかし、その切実な祈りは彼らの苦しみを想像できない【普通の人】には届きません。

彼らが逮捕された後、世間は「パーティ」の意味を曲解し、でたらめな(小児性愛者という)レッテルを貼って軽蔑しました。

水の動画を撮るための集会だったはずが、どうしてそんなことになってしまったのか?

その真相を語る前に、オフ会前夜の一幕を紹介させてください。

率直に言って、クライマックスにあたる場面です。

その夜、夏月は職場の飲み会に参加していました。正しい性欲を持つ人々に囲まれる飲み会の場では本性を見抜かれないよう気を遣うばかりで、家に帰ってきたときにはすっかり消耗しきっていました。

※以下、小説より一部抜粋

…………

「珍しいね、飲み会参加するの」

「転職してからずっとお世話になってた人の送別会だったの」

夏月が一口、お茶を飲む。そしてグラスを置き、そのまま口を閉じる。

「ねえ、すっごい変なこと頼んでいい?」

「何を今さら」佳道は笑う。「この生活以上に変なことないでしょ」

穴でも開いたみたいに、夏月の口から「確かに」と声が漏れる。

佳道はなんとなく、今のうちにふざけておかないといけないような気がした。

「じゃあ、お願いしちゃおうかな」

夏月の表情が、真剣そのものだったから。

「一回、経験してみたくて」

夏月がグラスを置く。

「セックス」

ぱんだ
ぱんだ
えっ!?

…………

びっくりするような夏月の発言ですが、すぐに説明が付け足されます。

「本当にしたいってわけじゃなくて、その状況を体感してみたいってだけ。服とかは着たままで」

電気は消すのか。体勢はどうするのか。多数派が話題にしてやまない行為とはどのようなものなのか。

「えーっと多分、夏月は仰向けで思いっきり脚開くんじゃないかな」

「何これ」天井を見上げたまま、夏月が呟く。「私いま、死んだカエルみたいじゃない?」

不格好に体を寄せてみても【普通の人】が興奮する感覚にはピンときません。ヘンだな、と思うばかりです。

けれども、ほんの少しだけ、わかることもありました。

「どんって、私の上に落ちてきてほしいの。今日の飲み会でね、退職する人が言ってたの。終わったあと、くたくたになった相手が覆い被さってくるのが好きって」

※以下、小説より一部抜粋

…………

「重すぎ。一瞬、息止まった」

「ごめんって」

佳道はもう一度、腕を柱代わりに自分を持ち上げようとする。だけど、身体は起き上がらない。

夏月の腕が、背中に回っている。

「なるほどね」

耳元で、夏月の声がする。

「こういうことね」

夏月の腕に力がこもる。

「人間の重さって、安心するんだね」

夏月の腕と反比例するように、佳道は全身から力を抜く。そうすると、自分がまるで掛布団にでもなったかのような気持ちになる。

「人間の身体に触れること自体、全然ないもんな」

安心することが、とても不思議だった。骨がぶつかり合っているところは痛いのに、今にもどこかで不具合が起きそうなほど不安定なのに、誰かの身体の表面と触れ合っていることに自分の身体が安心していることが、佳道にはわかった。

「私、自分は絶対、こんなの重いし暑苦しいって思うタイプだと思ってたのね。確かにめっちゃくちゃ重いし暑苦しいんだけど:

人ひとりの上に、人ひとり。「なんか」夏月が喋るたび、ベッドシーツに押し付けられている佳道の顔も、少し振動する。

「その分、重石か何かで、自分をこの世界に留めてもらってるみたい」

呼吸をするたび、冷たかったシーツが温かくなっていく。

「ここにいていいって、言ってもらえてるみたい」

シーツの冷たさが、顔の温度と混ざっていく。

「どうしよう」

重なった二つの身体の境目が、どんどんなくなっていく。

「私もう、ひとりで生きてた時間に戻れないかも」

これまで過ごしてきた時間も、飼い慣らすしかなかった寂しさも、恨みも僻みも何もかもが、一瞬、ひとつに混ざったような気がした。

(中略)

「いなくならないで」

夏月の声が降ってくる。耳元で囁かれたのに、遥か天の彼方から声だけが落ちてきたようだった。

「いなくならないで」

佳道も声に出してみる。小さな小さな声なのに、夏月の耳はすぐそばにあるのに、両手を口に添えて、思いきり背中を反らして、声を嗄らして叫んでいるみたいだった。

いま抱いている安心感は、この同居のように、ひどく不安定で一時的なものかもしれない。

だけど、そうだとしても、そういう瞬間を繋いでいくことでしか乗り越えられない時間だらけの人生だった。

佳道は目を閉じる。すると、握り締めていたシーツに温もりが宿った。

明日初めて会うはずの二人と、もうすでに手を取り合っているみたいに。


逮捕

佐々木が募ったパーティの理念は、あくまで相互扶助でした。

無関係の誰かを性的搾取することなく、他人に迷惑をかけることなく、あくまで水の動画を撮り合う……というより同じ特殊性癖を持つ仲間とつながるための集会でした。

けれど、彼らパーティは見当違いな容疑により逮捕されることになります。

なぜか?

第一の原因は、不幸にも佐々木の上司と鉢合わせてしまったことです。

休日の清水ヶ丘公園。佐々木と相性の悪い田吉幸嗣も家族連れで訪れていました。

田吉の息子は小学生で、佐々木たちの持つ水鉄砲に興味津々。

矢田部が「子どもたちと遊ぶボランティアをしている」と苦し紛れの言い訳をしたため、佐々木たちは子どもたちと水遊びするしかありませんでした。

ぱんだ
ぱんだ
あっ……

第二の原因は、矢田部陽平の存在です。

ひとえに水に興奮する特殊性癖といっても、個々人によって容態はさまざまです。飛び散る水が好みだったり、反対に穏やかな水の状態が好みだったり。

矢田部陽平の場合、その趣向は水そのものだけではなく「水に濡れた人間」にまで及んでいました。また、彼に関しては冤罪でもなんでもなく男の子に興奮する性癖を持っていました。

その結果、矢田部は水遊びをする田吉の息子を撮影していて、しかもパーティにも共有していて……。

ぱんだ
ぱんだ
あー……

パーティは集まったその日に現行犯逮捕されたわけではありません。

彼らが逮捕されるに至った経緯は次の通りです。

1.矢田部が少年と性的関係を結び摘発された

2.矢田部の家からは大量の画像や動画が見つかった

3.矢田部のスマホ履歴からパーティの存在が発覚

4.小児性愛者の仲間として佐々木・諸橋が逮捕される

画像の単純所持だけで罪になる世の中です。佐々木と諸橋がいくら否定しようと無駄でした。

ここであらためて冒頭のネットニュースをふりかえってみましょう。

「矢田部は容疑を概ね認めていますが、諸橋は黙秘を貫き、佐々木に関しては否認しているようです。わけのわからない主張を繰り返しているらしく、精神鑑定に持ち込むつもりなのかもしれません。不起訴になったとて、勤めていた大手食品会社はクビでしょうし、離婚は免れないでしょう。それ以前に、あれだけ大量の写真や動画が出てきた限り、不起訴になることはあり得ないと思います」

前情報なしで読んだときとは、受け取る意味も沸き起こる感情も真逆になっているのではないでしょうか。

結論として、佐々木佳道と諸橋大也についてはかけられた容疑について潔白です。

けれど、彼らの冤罪が認められることはないでしょう。

社会には「水に興奮する性癖」など存在しない(と認識されている)のですから。

パーティが集まった日、夏月は仕事のため不参加でした。

女性である夏月がその場にいれば結果が変わったでしょうか? それとも夏月まで逮捕されなかったことは不幸中の幸いと考えるべきでしょうか。


結末

本当にいまさらですが、小説『正欲』は群像劇的なつくりになっています。

佐々木佳道と桐生夏月が本編中に占める割合は4割ほどでしかありません。残りの部分では諸橋大也の物語が描かれているほか、寺井啓喜という40代男性の物語も深堀りされています。

ぱんだ
ぱんだ
誰ー?

寺井は佐々木たちとは相容れない【普通の人】を代表するような人物です。

検事という職業のためか頭が固く、不登校になった息子には一方的に説教するばかりで聞く耳を持とうともしません。当然ながら、やがて息子からも妻からも白い目で見られるようになってしまいました。

寺井は(佐々木たちと比較するところの)多数派に属しているにも関わらず、最も親密なはずの家族とすらうまくつながれなくなっていたのです。

ぱんだ
ぱんだ
ふむふむ

物語のラスト。寺井は検事として容疑者の妻である夏月と対面します。事情聴取です。

寺井は佐々木を罪状どおりの犯罪者と決めつけています。

だからこそ、彼には理解できませんでした。

夏月がどうして落ち着き払っているのか。佐々木が妻に伝言してほしいと《あんなこと》を言ったのか――。

ぱんだ
ぱんだ
むむ?

案の定というべきか、事情聴取は平行線をたどりました。机を挟んで対峙していながら、寺井と夏月はあまりにも遠い場所に立っていました。

「これ以上話すことはありません。どうせ説明したところでわかってもらえないことなので。結局起訴されるなら、誰も話そうとしなくて当然だと思います」

何を話しても無駄。あきらめきった夏月の表情が、寺井の脳内で妻のそれと重なります。

――あなたはいくら話してもわかってくれようとしないでしょう。早く学校に戻さないと何もかも手遅れになるって、そんなことばっかり言う人と話してたら泰希(息子)と一緒にいる私も責められてる気持ちになる。そういうこともあなたは全然わからないんだよ。

――いま泰希が何を見て笑って何を楽しんでるのか、何を生きる希望にしてるのか、あなたは少しでも考えたことがある? それがあなたに全然理解できないようなことでも、想像してみようとしたことがある?

家庭崩壊寸前。けれど、寺井はいつだって正しい意見を主張してきたつもりです。自分の何が悪かったのか、寺井にはわかりません。

ふと、目の前の夏月が口を開きました。

 

「いなくならないからって伝えてください」

※以下、小説より一部抜粋

…………

「夫が何も話さない以上、私から話せることもありません。その代わり夫には、いなくならないからって、伝えておいてください」

一体、何で繋がっていると言うのだろうか。

――いなくならないから、って、伝えてください。

逮捕された夫と同じ言葉を唱えた妻を、啓喜は見つめる。

子どももいない、家も建てていない、経済的にお互い自立している共働きの夫婦。

その状態で、夫が性犯罪で捕まった。しかも、世間的に最も嫌悪される種類の容疑で。

それなのに、どうして一緒にいたいと思えるのだろうか。

どうしてお互いに、いなくならないことを誓い合えるのだろうか。

一体何で繋がれば、そんなふうに想い合えるのだろうか。

「検察のほうで伝言を承ることはできません。弁護人に頼んでください」

越川(寺井の部下)の言葉に、夏月が「そうでしたね」と立ち上がる。

このまま取調べを終えてもいいのかどうか、自分で判断しなければならないとわかっていても、啓喜はその場から動くことができなかった。

<おわり>

強い結びつきを見せた《排斥される側》の佐々木・夏月に対して、多数派の屋根の下で暮らしている(排斥する側の)寺井は家族とのつながりを失いかけている……。一枚の風刺画のような結末でした。

ぱんだ
ぱんだ
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感想

きっとこの小説を読んだ感想は、人によって幅広く違っているのだと思います。

スローガンばかりが立派で中身のない「多様性」への怒りが湧いたり、人知れず絶望に支配されている少数派の苦しみを思って胸を痛めたり。

わたしはといえば、これは他人事ではないな、と思いました。

もっと言えば、この物語は特殊性癖や性的マイノリティーについて議論するための叩き台ではないな、と思いました。

ぱんだ
ぱんだ
どゆこと?

つまるところ『正欲』は人と人とのつながりを描いた作品だったようにわたしには思われました。

誰かとつながれない孤独は生きる気力さえ失くしてしまうほどの絶望で、それゆえに佐々木と夏月は命を投げ捨てかけます。やがて彼らが強く結びついたことを思えば、問題は特殊性癖そのものというより、特殊性癖のために誰かとつながれなかったことだったのではないでしょうか。

ひるがえって、特殊性癖ならぬ(とここでは前提しますが)わたしたちはどうでしょう?

彼らと違って、わたしたちは知られれば社会生活を送れなくなるほどの秘密なんて(基本的には)抱えていません。作中で描かれている多数派の人間そのものです。

けれど、じゃあそれだけで人生なにごともなくずっとハッピーなのかといえば、そうではありませんよね。

突然ですが、作中で印象に残っている一節を紹介します。

三分の二を二回続けて選ぶ確率は九分の四であるように、多数派にずっと立ち続けることは立派な少数派である

人ひとりにはいくつもの側面があって、佐々木たちほどじゃないにせよ、誰もが必ず少数派の要素を持ちあわせています。

そして困ったことに、そのことを忘れがちです。

親子であれ夫婦であれ他人のことはわからないという当たり前のことを、悪気なく忘れてしまいます。

自分と違う考えを持っているはずの誰かをわかった気でいるのは、傲慢です。

多数派であるところのわたしたちが時に人とのつながりを失ってしまうのは、こういうところに原因があるのではないでしょうか。

寺井を反面教師にした教訓だといえば、『正欲』を読んだあなたには伝わりやすいかもしれませんね。

人とのつながりが「生きていくこと」の根っこだとするならば、愚かな思考停止で大切なつながりを失わないよう、想像力をはたらかせて周囲の人たちと接していきたいものです。

心に残った場面

お題目について頭をひねるのはこれくらいにして、最後に印象的だったシーンについて少しだけ語らせてください。

読んだ方にはややこしい説明は不要でしょう。

「いなくならないで」

このセリフには心底しびれました。

長々とそれらしい感想を書いた後でこういってはなんですが、佐々木と夏月の関係が尊くて、羨ましくて、たまりませんでした。

だって、そうでしょう。性欲でつながっていないからこそ、佐々木と夏月の関係はどこまでも純粋です。

生きていくために、お互いがお互いを必要としている関係。

肉体ではなく精神でつながっている二人の結びつきは、ある意味、対人関係の理想形だとすら言えるのではないでしょうか。

「好き」「愛してる」とは全然違う、けれどもしかしたらそれ以上の言葉として「いなくならないで」という台詞はわたしの胸を打ち抜きました。

ぱんだ
ぱんだ
わかる

パーティ前夜、ベッドでのやりとりも名状しがたい切なさにあふれていて最高だったのですが、結末での繰り返し(リフレイン)にはなおグッときましたね。

佐々木はずっと夏月との関係を不安定で一時的なものだと考えていました。けれど、いざ逮捕というかたちで分断されてみればどうでしょう。

佐々木と夏月は離れた場所で同じメッセージを相手に届けようとしました。

「いなくならないから」

心動かされるとはこのことか、と実感しました。

「感動した」なんて規格通りの表現じゃ不適当な、うまく言葉にできない、ただわけもわからず涙がこみ上げてくるような、そんな気持ちでいっぱいになりました。

物語の先の世界で、佐々木と夏月ができるだけ長く手を取り合って生きていけたのならいいな、と思います。


まとめ

今回は朝井リョウ『正欲』のあらすじネタバレ解説(と感想)をお届けしました。

昨年(2021年)はとにかく書店で目立っていてずっと気になっていたのですが、読んでみて話題になる理由がよくわかりました。

これだけ人間の、あるいは人間社会の本質に真正面から切り込んでいる文芸もそうそうありません。

もしあなたが本作を未読で、少しでも気になっているのなら、ぜひ読んでみてください。

この記事は軽く一万字を越えているのですが、佐々木・夏月と両輪をなす諸橋大也の物語を割愛していますし、なにより「読んでみて自分がどう思うか」が大事な作品です。

もしかしたらあなたの人生観を変える一冊になるかもしれません。

 

映画情報

キャスト

  • 稲垣吾郎(寺井)
  • 新垣結衣(夏月)

公開日

2023年公開

ぱんだ
ぱんだ
またね!


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