湊かなえ『母性』を読みました。
とんでもない小説です。
心がえぐられるとはこのことです。
読んでいて苦しい、けれど読まずにはいられない小説でした。
今回はそんな小説『母性』のあらすじがよくわかるネタバレ解説(と感想)をお届けします。
あらすじ
女子高生が自宅の庭で倒れているのが発見された。
母親は言葉を詰まらせる。
「愛能う限り、大切に育ててきた娘がこんなことになるなんて」
世間は騒ぐ。これは事故か、自殺か。
……遡ること十一年前の台風の日、彼女たちを包んだ幸福は、突如奪い去られていた。
母の手記と娘の回想が入り混じり、浮かび上がる真相。
これは事故か、それとも――。
圧倒的に新しい、「母と娘」を巡る物語(ミステリー)
(文庫裏表紙のあらすじより)
新聞記事
物語は痛ましい新聞記事から始まります。
(前略)〇〇署は女子生徒が4階にある自宅から転落したとして、事故と自殺の両方で原因を詳しく調べている。母親は「愛能(あた)う限り、大切に育ててきた娘がこんなことになるなんて信じられません」と言葉を詰まらせた。
女子生徒は飛び降りたのか、それとも足を滑らせたのか?
もし自殺だったのなら、何が原因なのか?
新聞記事を読んだ「とある教師」は、母親のコメントに違和感を覚えました。
逆説的な話ですが、子を愛している親はみだりに「愛」という言葉など使わないのではないか? と教師は思ったのです。
愛という言葉を使いたがるのは、むしろ本心では愛していないからではないか?
もちろん極端な話ではあります。
ただ、教師は《母性》について懐疑的です。
はたして子どもを産んだすべての女性が母性を持ちあわせているものでしょうか?
母性に目覚める母親がいる一方で、母性を持ちあわせない母親も存在しているはずだと教師は考えます。
そうでなければ虐待をはじめ、我が子を苦しめる母親たちがいることに説明がつきません。
教師は職業柄、そんな最低な母親たちと日常的に接しています。
「母性ある母親は、愛という言葉をみだりに使わない」という持論は、教師の経験則から導き出された持論でした。
話を新聞記事に戻しましょう。
教師の持論に照らし合わせれば、転落した娘の母親は「母性なき母親」である可能性があります。
娘はそんな母親に追いつめられて自殺したのではないか?
教師は嫌な想像を働かせますが、とはいえ、しょせん教師は部外者です。
事故だったのか、自殺だったのか、はたまた事件だったのか。
真相を知るすべはありません。
……これからはじまる物語の読者とは違って。
じつはこの時点ですでに、かなり重大な伏線が敷かれています。
母の手記
じつは小説では肝心の母娘の名前が終盤まで伏せられている(※)のですが、不便なのであっさりお伝えしちゃいますね。
※母・娘という存在として抽象化されていた
母の名前は「ルミ子」
娘の名前は「清佳(さやか)」
物語の表側である『母の手記』では、ルミ子の視点から過去が回想されます。
まだ清佳が生まれる前、ルミ子はとにかく母親が大好きな娘でした。
家に帰っては一日の出来事を母親に話して聞かせ、休日ともなると母親と一緒に出かける日々。
ルミ子は母親の喜ぶ顔が大好きです。
母親から頭を撫でられ、「よくがんばったね」と褒められるためなら、なんだってできました。
そうですね。小さい子が母親にじゃれついている光景を想像すると、思わず口元が緩みます。
しかし、そうではありません。
母親の手のひらの温もりを一心に求めるルミ子は、このときすでに20代前半。
短大を卒業し、事務員として働いています。
いつまでたっても母親にべったりと甘えるルミ子は、良く言えば親孝行な娘、悪く言えばマザコンといったところでしょうか。
……その本質に気づかない者の目から見れば。
読者は『母の手記』を通して、ルミ子がどんな思いで日々を過ごしていたのかを知ります。
母のため。
母に喜んでもらうため。
母に褒められるため。
ルミ子にとって人生とは「母を愛し、母から愛される」こと、本当にそれだけでした。
他にはなにもありません。
母が褒めれば、一回きりのデートだと思っていた男と二回目のデートに行きました。
母がいっそう気に入ったようだったので、ルミ子はその男と結婚することにしました。
ルミ子の《歪み》が少しずつ見えてきたでしょうか?
ルミ子は言動こそ普通の女性ですが、その内面は世界に母親と自分しかいないと信じる幼子のようです。
その性質は、結婚しても、娘が生まれても変わりませんでした。
ここでルミ子が出産したときの一幕をご紹介しましょう。
※以下、小説より一部抜粋
…………
からだが分裂してしまいそうな痛みに耐えたあと、かん高い声でギャーギャーと泣く赤紫色のかたまりを顔の横に近付けられ、「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」と言われても、それがどうしたのだ、としか感じられませんでした。
上質な作品とは言い難い、しわくちゃで鼻の低いぶさいくな顔で、これでは母ががっかりしてしまうのではないかと、涙が出そうになったくらいです。
(中略)
子どもにどう呼ばせるかと、(夫と)二人で相談したこともありませんでした。
自分と同じように、「お父さん、お母さん」と呼ばせるのだろうと漠然と考えていたのですが、ふと、それはイヤだ、と思いました。
お母さん、などと呼ばれたくない。
私にとって「お母さん」という言葉は、愛する母ただ一人のためにあるのだから。
ルミ子ははじめ妊娠を気味悪がっていましたが、母親に喜んでもらうために出産を決意しました。
11年前の事件
清佳の誕生から数年、ルミ子は人生でいちばん幸せで平和な時期を過ごします。
というのも、結婚・出産を経てますます大好きな母親と一緒にいる時間が増えたからです。
- 実家に料理を習いに行く
- 夫が夜勤の日は母に泊まりに来てもらう
ルミ子はあれこれと口実をもうけては、母親に会い続けました。
もちろん、悪いことではないのでしょう。
母親も孫娘をたいへん可愛がっていて、会うたびにとても嬉しそうにしてくれます。
ルミ子は母親の愛情が清佳に奪われているようで少し不満に思うこともありましたが、それ以上に母を喜ばせられているという充実感があり、また、母は変わらずルミ子のことも褒めてくれていたので満足でした。
母が望むような母親であるために、ルミ子は清佳を大切に育てていました。
ところが、夢のようだったルミ子の日々は、一夜のうちに崩れ去ってしまいます。
台風の影響で裏山が土砂崩れを起こし、そのうえ停電のため灯していたろうそくの火が移り、家がすっかり燃えてしまったのです。
幸いにして夫は夜勤に出ていましたし、ルミ子も清佳も無事でした。
助からなかったのはただ一人、泊まりにきていたルミ子の母親だけです。
その夜、清佳は別室で寝ている祖母の布団にもぐりこみ、一緒に寝ていました。
そして祖母ともども土砂崩れによって家が歪み、倒れてきた箪笥(たんす)の下敷きになりました。
ルミ子は選択を迫られます。
下敷きになっている母親と娘、どちらを助けるのか?
ルミ子は迷いませんでした。
※以下、小説より一部抜粋
…………
私は洋箪笥の下に両手を伸ばし、母の両腕をつかみました。
「あなたが助けなきゃならないのは、わたしじゃないでしょ」
「お母さんは私の一番大切な人なのよ。私を産んで育ててくれた人なのよ」
一瞬のうちに、私の頭の中に、母と過ごした日々が溢れかえっていきました。
「バカなことを言わないで。あなたはもう子どもじゃない。母親なの」
「イヤよ、私はお母さんの娘よ」
母を失いたくない、ただそれだけでした。
「やめて。やめなさい。どうしてお母さんの言うことがわからないの。親なら子どもを助けなさい」
子ども……。火を見て冷静さを失っていた私は、母の目を見てようやく我に返り、そこで改めて、娘の存在を思い出したのです。
そうだ、この下に娘もいるのだ。
それでも、私は母から手を離すことはできませんでした。
「イヤよ、イヤ。私はお母さんを助けたいの。子どもなんてまた産めるじゃない」
(中略)
「あなたを産んで、お母さんは本当に幸せだった。ありがとう、ね。あなたの愛を今度はあの子に、愛能う限り、大切に育ててあげて」
母の最期の言葉でした。
無我夢中だったため、その後の記憶は曖昧なのですが、熱と煙が充満する中、箪笥の下から娘を助け出し、抱きかかえて炎の中を突き進み、外に出たのではないかと思います。
母のからだを置き去りにして。棺に入れ、花を飾ってあげることもできませんでした。
母なき世界
火事のあと、ルミ子たち家族は夫・田所哲史(さとし)の実家に身を寄せることになります。
そこは、ルミ子にとって地獄そのものでした。
さあさあ湊かなえの本領発揮だとばかりに、田所家の人々は底意地の悪い、ひねくれ曲がった性格の持ち主ばかりだったのです。
- プライドだけは高く
- けれど自分ではなにもせず
- 悪い結果はぜんぶルミ子のせい
一事が万事、そんな調子です。
ルミ子は使用人か、さもなくば奴隷のようにこき使われ、けれど労われることはなく、むしろどれだけ家のために尽くしても文句を言われる有様でした。
お嬢様育ちのルミ子が農作業に駆り出され、あらゆる家事を押しつけられている一方で、田所の娘(哲史の妹)は一日中ごろごろしているだけで、ろくに家事もせず、そのくせ母親(ルミ子の義母)からお小遣いをもらっていました。
田所家は片田舎の地主です。
時代は昭和。封建的な家父長制がありありと見てとれる田所家では、嫁であるルミ子の立場はヒエラルキーの底辺に位置します。
義母(哲史の母)は徹底してルミ子に辛辣でした。
詳細は省きますが、田所の屋敷でルミ子が受けた仕打ちの数々は思い出しだけでも胸がむかむかするような、本当に不愉快なものばかりでした。
田所家のせいでルミ子が2人目の赤ん坊を流産したときでさえ、彼らは「自分たちのせいじゃない」と言い張り、責任転嫁し、決して非を認めようとしませんでした。
いつ逃げ出してもおかしくない劣悪な環境の中で、しかし、ルミ子は耐え続けました。
田所家に、義母に、奉仕していればいつかは家族の一員として認めてくれるはずだと自分に言い聞かせ、亡き母に恥ずかしくない生き方に努めていました。
子育てについても同様です。
あなたの愛を今度はあの子に、愛能う限り、大切に育ててあげて
愛する母の最期の願いを、どうして裏切ることができるでしょう。
『母の手記』には次のように記されています。
私が娘を大切に育てたのは、それが母の最後の願いだったからです。
その私が、娘の命など、この手で奪えるはずがないではありませんか。
揺らぐ過去
ここでひとつ重大な事実を明かしましょう。
事件の真相ですが、あれは自殺です。
事故ではありません。
では、いったいどうして清佳は自ら命を絶たなくてはならなかったのでしょうか?
その理由を探るためにわたしたちはここまで『母の手記』を手がかりにして、母娘の半生を追ってきたわけですが……ちょっと待ってください。
『母の手記』はルミ子が自分の手で書いている文章です。
もし、ルミ子が清佳を自殺させるまでに追いつめた元凶なのだとしたら、はたして馬鹿正直に「私のせいです」だなんて書くでしょうか?
いいえ、そんなはずはありません。
現にルミ子が清佳を殴っていたという記述は『母の手記』にはまったくなく、『娘の回想』のなかでのみ語られています。
ルミ子が語る過去を、そのまま信じてはいけません。
物語の裏側である『娘の回想』と照らし合わせることで、はじめて《真実》は浮き彫りになります。
<すぐ下のネタバレにつづく>
ネタバレ
『娘の回想』
小学校にあがる前から、清佳は母に愛されていないと気づいていました。
母(ルミ子)があれこれ世話してくれるのは体裁を整えるためです。
「あなたがそこにいるだけでいい」という無償の愛とはまったく異なる、カタチだけの母性。
愛されていない子どもの典型的な例として、清佳は「利口な子」に育ちます。
愛されるためには正しいことをしなければならない、という強迫観念が清佳から年相応の無邪気な子どもらしさを奪っていました。
それでも、祖母(ルミ子の母)が生きていた頃はまだ幸せでした。
祖母はいつも温かい無償の愛で清佳を包んでくれます。
それに清佳が祖母を喜ばせると、母も心からうれしそうにしてくれます。
母がそうであったように、清佳にとってもこの頃がいちばん幸せでした。
その後、台風の夜に母娘の幸福は音を立てて壊れてしまいます。
事件当時の記憶はあいまいで、清佳は母と祖母がどのようなやりとりを交わしていたのかも、どのようにして助けられたのかも覚えていません。
清佳はあの夜の事件について次のように振り返ります。
※以下、小説より一部抜粋
…………
あのとき、わたしが死んでいればよかったのではないか。
死因が土砂災害や火事である方が、私の人生は救われる。
母から殺したいほど憎まれる、というよりは。
『娘の回想』は、自殺を図った清佳が死の間際で回想している記憶です。
母と娘
田所の家においては、清佳ただひとりだけがルミ子の味方でした。
じっと祖母(姑)の罵倒に耐えている母の代わりに声を上げて怒り、成長してからは母の負担を減らそうと積極的に家事を手伝いたいと申し出ました。
おばあちゃんの代わりに、わたしが母の味方になろう。母を守ってあげよう。
清佳の不幸は、そんな健気な気持ちがまったくといっていいほど母に通じなかったことに他なりません。
祖母に食ってかかる清佳の姿に、ルミ子は感謝するどころか、失望のまなざしを向けます。
「祖母を敬う気持ちがない」
「大切に育てたのに、どうしてもっと思いやりを持てないのか」
娘がかばってくれているというのに、この調子です。
ただ、実際問題として清佳が祖母を糾弾するほど、そのぶんルミ子へのいびりが増していたのも事実です。
ルミ子は「娘が義母に口ごたえするするせいで、私が義母に叱られるではないか」と落胆し、ますます娘を疎(うと)むようになっていきました。
私に起きた不幸は、すべて娘に起因しているのです。
清佳は母からのあんまりな仕打ちにもめげませんでした。
拳を振り下ろされようと、「触るな」と拒絶されようと、母の味方であり続けました。
「触らないで。あんたの手は生温かくて、べたべたして、気持ち悪いのよ」
こんなひどい扱いまで受けて、どうして清佳はまだ母の側に立とうとするのか? と思う方もいらっしゃるでしょう。
その理由は『娘の回想』の一節に見出すことができます。
※以下、小説より一部抜粋
…………
わたしのたった一つの望みは、母に優しく触れてもらうことだった。
よくがんばったわね、と頭を撫でてもらいたかった。
そういう愛がほしかった。
(中略)
母に死んでしまえと思ったことは一度もない。
嫌いだと思ったことも一度もない。
母に嫌われる自分が嫌いだった。
自分の存在をどうすれば受け入れられるのだろう、と考えた。
母に認めてもらえないのなら、自分だけでも、自分を認めてあげなければならない。
自分で自分を好きになる。好きな人のようになる。母のようになれば、自分を好きになれるだろうか。
いずれ、母も私のことを好きになってくれるだろうか。
母に愛されたい。
何を考えていても、たどり着く先はいつも同じだった。
清佳が渇望しているのは、ルミ子が母から与えられていた「無償の愛」です。
誰よりも無償の愛の温かさを知っているはずのルミ子が、我が子に愛情を持てないというのは、なんだか皮肉ですね。
真相(母の手記)
お待たせしました。ここからはいよいよ物語の核心に迫っていきます。
神父様、ついに、娘が自らの命を断とうとした日のことを書きます。
その日、清佳は目を真っ赤に腫らして帰ってくると、涙をぬぐいながら、込み上げてくる嗚咽を押し殺すようにして言いました。
「おばあちゃんが、わたしを助けるために、自殺したって、本当なの?」
その言葉を聞いた瞬間、ルミ子の頭は真っ白になりました。
十年以上の前の、あの夜の光景が鮮明によみがえってきます。
母は自らの舌を噛み、命を絶ったのです。
あの夜、ルミ子は娘の命よりも母の命を優先しようとしていました。
いくら愛する母の言葉でも、母を見捨てるなんてとてもルミ子にはできません。
そうこうしている間に火はどんどん勢いを増していきます。
押し問答を続けている時間はありません。
そうして、母は自決しました。
私に娘を助けさせるために。私を真の母親にするために。
清佳はどこからか、その事実を知ってしまったのでしょう。
目の前では清佳が「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も何度も、顔を歪ませながら許しを乞う言葉を口にしていました。
そんな娘を前にして、ルミ子は……
※以下、小説より一部抜粋
…………
私はこの子を愛さなければならないのだ。
今こそ、この子に愛していると伝えなければならないのだ。
しかし、声はなかなか出てきません。呼吸の仕方がわからず、のどをあえがせ、えずきながらわずかな空気を吸い込み、娘を強く抱きしめるため、両手をまっすぐ伸ばしました。
そして、からだの中に残った空気と一緒に絞り出すようにして言ったのです。
「愛してる」
しかし、その思いは娘には伝わらなかったのです。
いいえ、伝わったからこそ、自分がわたしから奪ったものの大きさに気づき、死を以って償おうとしたのかもしれません。
神父様はすでにご存じのはずですが、娘は首を吊ろうとしました。
選んだのは、庭のしだれ桜の木です。
(中略)
救急車で運ばれた娘は一命を取りとめましたが、意識はまだ戻っていません。
私の愛する娘の意識が一日でも早く戻りますように、と願います。
大切な母が命をかけて守ったその命が、輝きを取り戻し、美しく咲き誇りますように、と。
真相(娘の回想)
その日、清佳は父親の不倫を目の当たりにしていました。
もとより母を守ってくれない頼りない父だと期待もしていませんでしたが、そのうえ残業と偽って女の家に入り浸っていたとは!
絶対に許せない母への裏切り行為です。
そのくせ離婚するつもりはないというのですから、清佳は怒り心頭に発しました。
「田んぼとおばあちゃんの世話をさせるためでしょう。都合よくただ働きさせて、自分はよその女といちゃいちゃするなんて、人間のクズだ。
それなら、離婚して、ママをあの家から解放してあげてよ」
清佳の糾弾は、しかし、反撃とばかりに浮気相手の口から出た予想外の一撃によってくじかれてしまいます。
祖母が清佳を助けるために舌を噛んで命を絶ったという《真実》を、突きつけられたのです。
「お母さんは大切な母親が死んでしまったことよりも、母親があなたを守ったことが許せなかったんじゃないかしら。
だって、愛する人が最期に選んだのは、自分ではないということを目の前で突き付けられたんだから……」
もはや父親の不倫どころではありません。
清佳は不倫相手の頭にワインボトルを振り下ろすと、母のもとへ駆け出しました。
「おばあちゃんが、わたしを助けるために、自殺したって、本当なの?」
母は否定しませんでした。
そして……
※以下、小説より一部抜粋
…………
(母が)悲しそうにわたしに向かい両手を伸ばすのが、スローモーションのように見えた。
わたしは一瞬、抱きしめられるのかもしれないと思った。
母が一人で抱えてきた悲しみを、これからは二人で共有していくことになるのだ、と喜びに似た感情が湧き上がったと同時に、首に強い圧力を感じた。
母の節くれだった指はわたしの首にからみつき、指紋の型さえ感じてしまう厚くざらざらとした指先が、わたしの喉に少しずつ食い込んでいった。
母になら殺されてもいい。だけど、それじゃあダメだ……。
わたしは渾身の力を振り絞って、母を突き飛ばした。
自室に駆け込み、ドアを押さえたけれど、母が追いかけてくる気配はなかった。
(中略)
できることなら自室でそっと手首を切って死にたかったけれど、わたしの首には指のあとが赤く残っている。
幸い、倉庫の中にはロープも踏み台にちょうどいコンテナもあった。
農家でよかった、と死の間際に初めて思えたことがおかしくて、少し笑った。
清佳が自殺したのは、母を殺人者にしないためだったんですね。
首吊りを選んだのは、首に残る指のあとを隠すためでした。
結末
ところで、もうお気づきでしょうか?
最初にご紹介した新聞記事には次のように書かれていました。
女子生徒が4階にある自宅から転落したとして、
はい。屋敷の庭で首を吊った清佳とは、明らかに異なる状況です。
「愛能う限り」というコメントこそルミ子を彷彿とさせますが、新聞記事の事件は田所母娘とは別件でした。
あなたは教師の存在を覚えているでしょうか。
新聞記事を読んで「母親は娘を愛していなかったのではないか?」と違和感を覚えていた人物です。
教師は特別にこの事件にこだわっていました。
「愛能う限り、大切に育ててきた娘が」という母親のコメントを目にした瞬間から、とても他人事とは思えませんでした。
教師の正体は、大人になった清佳です。
清佳は生きていました。
今は結婚して、お腹の中には新しい命が宿っています。
そう、清佳はもうすぐ母親になるのです。
※以下、小説より一部抜粋
…………
子どもができたことを母に伝えると、おばあちゃんが喜んでくれるわ、と母は涙を流しながら庭のしだれ桜を見上げた。
ママはどう思ってるの? とは訊かない。
わたしは子どもに、わたしが母に望んでいたことをしてやりたい。
愛して、愛して、愛して、わたしのすべてを捧げるつもりだ。
だけど、「愛能う限り」とは決して口にしない。
そんなわたしを子どもはもしかすると、鬱陶(うっとう)しがるかもしれない。
それも愛に満たされた証の一つだ。
時は流れる。流れるからこそ、母への思いも変化する。
それでも愛を求めようとするのが娘であり、自分が求めたものを我が子に捧げたいと思う気持ちが、母性なのではないだろうか。
(中略)
古い屋敷の離れに灯りがともっている。
ドアの向こうにわたしを待つ母がいる。
こんなに幸せなことはない。
<おわり>
解説
小説『母性』は読んでいるこっちがとまどってしまうほど、生ぬるいハッピーエンド(?)で幕を閉じます。
不倫相手と逃げた父はしれっと帰ってきていて、ルミ子は認知症の進んだ義母に頼られていて、あれほど色濃く差していた不穏の影はすっかり消えてしまっているようです。
きっと少なくない読者がモヤモヤした気持ちで読み終わったのではないかと想像します。
この物語を考察するうえで念頭に置いておかなければならないのは、ルミ子も清佳も「信用できない語り手」であるということです。
「母の手記」「娘の回想」の内容はどちらも客観的な事実として書かれているわけでなく、母娘の主観のフィルターを通して現実をとらえたものです。
案外、ルミ子はそこまでサイコパスじみた人間ではなく、田所の家の人間も言うほど性悪ではなく、自殺未遂もそんなに大げさな事件ではなかった……という可能性も大いにありえます。
- ルミ子は娘を憎んでいたのか?
- ルミ子は本当に清佳の首を絞めたのか?
- 大人になった清佳は母をどう思っているのか?
全編が信用ならない母娘の一人称で描かれている以上、母娘の本当の気持ちは読者それぞれが推しはかるほかありません。
その得体の知れなさ、読者それぞれにまったく違う解釈ができる余地を残している部分も含めて小説『母性』は奥の深い傑作なのだと思います。
書くタイミングを逃していたのですが『母の手記』は事件後、キリスト教の活動に参加するようになったルミ子が神父に言われて書いているものです。
神父に過去を語る様子は、なにも知らなければ「ルミ子は娘を殺した罪で獄中にいるのではないか?」と想像させる仕掛けになっていて、すっかりミスリードされました。
感想と考察
「湊かなえさんといえばイヤミスだよね」という認識はそろそろ改めたほうがいいのかもしれません。
もちろん『母性』においても田所家の人々の胸くその悪さといったら読んでいるだけで頭の血管が切れそうなほどでした(※)が、わたしはそれ以上に母と娘の絶妙な関係性に惹きつけられました。
※絶賛しています
いつまでも「娘」でありたいルミ子と、そんな母親から愛されたいと切望する清佳。
母親の愛情を求めている、という点で二人はとてもよく似ています。
なのに、どうしてこうももどかしくすれ違ってしまうのでしょう。
一見すると母親としての愛情(母性)を持ちあわせていないルミ子が異常者であるように思われます。
でも、ちょっと待ってください。
ルミ子は(「母の手記」を信じるのなら)母親として娘を愛さなければならないと思っていましたし、母の教えを守るために娘を大切に育てようとしていました。
はたして娘を心から愛することができない、というのは罪なのでしょうか?
すべての女性は母性を持ちあわせていなければならない、なんて言われるとなんだか反発したくなります。
「ルミ子が加害者で、清佳が被害者」という構図はちょっと違うんじゃないか、とわたしは思いました。
そこでひとつ考えてみたいのは、はたして「母の手記」は嘘だったのか? という問題です。
物語を素直に解釈すると、
- 母の手記は嘘まみれ
- 娘の回想こそが真実
であるように思われます。
「母の手記」に書かれていた出来事の嘘が、「娘の回想」で暴かれるという格好です。
特にクライマックスの、
- 清佳を抱きしめた(母の手記)
- 清佳の首を絞めた(娘の回想)
という食い違いを読むと「ははあ、やっぱりルミ子は信用ならないな」と納得できます。
けれど、やっぱりちょっと待ってください。
ルミ子よりも清佳のほうが信じられるとする根拠は、じつはどこにもありません。
親の愛情を受けられなかった清佳は、精神的に不安定な子どもだったはずです。
その清佳の一人称の語りを全面的に信じていいものでしょうか?
一貫して「母親が好きだった」と訴え、母親を嫌いになったことなど一度もないという清佳は、(「娘の回想」によれば)自分を殺そうとした母に絶望するでもなく、結末では次のように独白しています。
ドアの向こうにわたしを待つ母がいる。こんなに幸せなことはない。
わたしはこのラストの一文を読んだ瞬間、わけもわからずゾッとしました。
物語をまるっと読んできて、はじめて清佳に違和感を覚えました。
「あ、違うな」と直感したのです。
個人的な見解としては「母の手記」と「娘の回想」、どちらか一方が真実でもう片方が嘘というわけではないのだと思います。
どちらも「自分の見たいように見ている」といいましょうか。
もし夫にして父である田所哲史の視点が加われば、物語はもう一度ひっくり返るのではないか……そんな気がしてなりません。
- ルミ子は清佳の首を絞めたのか?
- 清佳は信用できる語り手か?
- 本当のところ母娘はどんな関係性だったのか?
《本当の真相》は読者それぞれの想像にゆだねられています。
もし、あなたがまだ『母性』を読んでいないのなら、ぜひ母と娘を等しく疑いながら読んでみてください。
あなただけが見つけられる《真実》がきっとそこにはあるはずです。
湊かなえ『母性』を読みました❗️
母と娘それぞれの視点からふりかえられる過去。母は娘を大切に育てたと記し、娘は母から愛されなかったと回想します。事件の真相についても母娘の記憶は矛盾していて……。
とんでもない小説でした。
⬇️あらすじと感想https://t.co/Wf5nRB7uQl
— わかたけ@読んでネタバレ (@wakatake_panda) December 3, 2021
まとめ
今回は湊かなえ『母性』のあらすじネタバレ解説(と感想)をお届けしました。
湊かなえさんは「この作品が書けたら作家を辞めてもいい」とコメントしたそうですが、それもなるほどと頷けるすごい小説でした。
- ルミ子の母の死の真相
- 清佳の自殺の真相
- 教師の正体
畳みかけるような終盤の展開にもしびれましたが、なんといっても『母性』の真骨頂は母娘それぞれの心理描写です。
「これはぜんぶ実話なのではないか?」と疑いたくなるほどの圧倒的な現実感(リアリティ)
はたして人間はここまで人間の心を描けるのか、と驚きを通り越して呆然とさせられました。
間違いなく傑作です。ますます湊かなえさんが好きになりました。
映画情報
キャスト
未発表(記事公開時)
公開日
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