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『合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』あらすじネタバレ解説|柚月裕子【ドラマ原作小説】

柚月裕子『合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』を読みました。

美女探偵と切れ者助手がバッタバッタと悪を成敗していく連作短編集。

謎を推理するミステリというよりは、奇抜な作戦で(敵と読者の)裏をかくエンタメ作品といった印象です。

柚月裕子さん曰く、

この作品は自分が書いた小説のなかで、一番、楽しさを意識して書いたものです。

とのこと。

彼らは数々の《ありえない》をどのように打ち破っていくのか?

今回は小説『合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』に収録された5つの短編すべてのあらすじのネタバレ解説をお届けします!

ぱんだ
ぱんだ
いってみよう!

あらすじ

不祥事で弁護士資格を剥奪された上水流涼子は、IQ140 の貴山をアシスタントに、探偵エージェントを運営。

「未来が見える」という人物に経営判断を委ねる二代目社長、賭け将棋で必勝を期すヤクザ……。

明晰な頭脳と美貌を武器に、怪人物がらみの「あり得ない」依頼を解決に導くのだが――。

(単行本帯のあらすじより)

上水流エージェンシー

涼子が経営する「上水流エージェンシー」は公にはできない揉め事を解決する何でも屋です。

事務所の名前や電話番号は非公開。そのため依頼人は友人や知人から紹介を受けた者たちに限られます。

依頼料は規格外に高額。殺しと傷害は引き受けない。

唯一の助手である貴山が淹れた専門店顔負けの紅茶を飲みながら、涼子は事務所で依頼の訪れを待っています。

涼子が弁護士資格を失った過去の事件については4つ目の短編(『心情的にあり得ない』)をご参照ください。


確率的にあり得ない

社長秘書である新井大輔は困り果てていました。

というのも、今まさに藤請建設の二代目社長・藤本が、怪しげな経営コンサルタントと五千万円の契約を結ぼうとしていたからです。

コンサルタントの名前は高円寺裕也。未来予知の能力があると自称しています。

もちろん藤本だって最初からそんな胡散臭い能力を信じていたわけではありません。

一例として、高円寺はボートレースの着順をピタリと当ててみせました。

1着から5着まで完全に当てられる確率は720分の1。それを6レース分ですから、たまたま当たったなんて確率的にあり得ません。

そんな能力があるなら宝くじでも買えばいい、と言いたくなるところですが、高円寺は「自分のために能力は使えない」のだといいます。

実際、これまで高円寺の経営アドバイスは実に的確でした。彼の助言がなければ取引先の倒産に巻き込まれていたかもしれません。今や藤本は選択に迷うたびに高円寺に判断を仰ぐようになっています。

すっかり《予知》を信じ込んでいる藤本とは違って、新井は高円寺が詐欺師ではないかと疑っています。

とはいえ、彼が社長に意見することは許されず、ただただ五千万円の小切手が高円寺の手に渡るのを不安そうに眺めていることしかできないのでした。

謎の二人組

高層ホテルのロビーラウンジ。高円寺が小切手を受け取ったその場で、予想外の出来事が起こります。

「すみません。ちょっとよろしいですか」

声をかけてきたのはストレートの黒髪が腰まである神秘的な女性。渡された名刺には「神華コーポレーション 秘書課 国分美紗」とあります。

彼女が言うことには、たまたま話を聞いていた社長の楊(ヨウ)が、高円寺の未来予知に興味を持ったとのことでした。

「ほんの少しお時間を頂戴して、同席させていただいてもよろしいでしょうか」

楊はロト6の当せん番号を予知するよう、高円寺に依頼しました。

「もちろん、ただで、とは申しません。ロトの一等賞金は、最低でも約一億円です。その半分の五千万円を、この場で高円寺さんにお支払いします」

即金で五千万円! しかも楊は賞金が一億円以上だった(キャリーオーバーの)場合、自分が受け取る額は五千万円だけでいいといいます。つまり、余剰分は高円寺のものになるというわけです。

高円寺は嬉々として当せん番号をメモした紙を裏向きにして楊に渡しました。

さて、話は五千万円の支払いへと移ります。

※以下、小説より一部抜粋

…………

「いま、ここに現金はありません。支払いは小切手になります。ここで小切手を切ってもいいけれど、楊の会社は日本ではなく中国にあります。支払地が違う場合、現金化するときに手数料がかかる。こんな素晴らしい奇跡を見せていただいたうえに、手数料をお支払いさせるのは申し訳ない」

それに、と美紗は続ける。

「楊は今夜、中国へ戻らなければなりません。差額がいくらになるのか、わかりません。だから楊は、高円寺さんに手数料を負担させず、しかも、この場で確実に差額をお支払いする方法を取りたい、と言っています」

「確実に差額を支払う方法……」

本藤が美紗の言葉を繰り返す。美紗は肯き、高円寺をひたと見据えた。

「何度もお聞きしますが、そのメモにある数字は、本当に当せん番号なんですね」

いつもは青白い高円寺の顔が、紅潮している。昂ぶる気持ちを抑えるような声で、高円寺は言った。

「もちろんです」

美紗が念を押す。

「本当に、間違いありませんね」

高円寺が苛立たしげに目を吊り上げる。

「何度、同じことを言わせるんです。ここに書いてあるのは、間違いなく次のロト6の当せん番号です」

高円寺に鋭い視線を投げかけていた美紗は、目元を緩めるとにこりと笑った。

「わかりました。では、当せん番号のメモを、あなたに差し上げます。その代わり、あなたが先ほど本藤社長からもらった五千万円の小切手を、こちらにいただきます

大輔(新井)は、あっ、と短く声をあげた。ここにきてやっと、楊が何をしようとしているのか理解した。

高円寺の顔が凍りつく。

美紗はさらに柔和な表情を作って言った。

「一億円、いえ、何億円もの価値があるメモをあなたが受け取り、楊はあなたから五千万円の小切手をいただく。これで、楊はあなたに差額を支払うことになります」


結末

高円寺は詐欺師でした。もちろん、メモに書いた当せん番号はでたらめです。

楊に小切手を渡せば五千万円を失うことになりますし、提案を断った場合も詐欺師であることが露見してやはり五千万円は手に入りません。

すっかりに罠にはめられた高円寺にできることは、その場から逃げ出すことだけでした。

もちろん、小切手はしっかり回収されています。

「逃げ出す前に、本藤社長から受け取った五千万円の小切手を置いていきなさい」

すでにお察しのことかと思いますが、美紗の正体はわれらが上水流涼子です。

今回の依頼人は本藤の母親である朝子でした。

経営における決断は、社長の責任。それを他人に委ねるなんて言語道断。母親は息子の目を覚まさせるべく、涼子に依頼したという次第です。

「あの男が詐欺師だったなんて、いまでも信じられない」

がっくりと肩を落とす本藤社長に、涼子は《未来予知》のカラクリを説明しました。

といっても、なんということもありません。

どの取引先を選ぶべきか見極められた理由は、

「企業の行く末など、ある程度、資料を読みこめば予測できます」

予測が外れたときは黙って姿をくらませればいいだけ。それだけの話です。

では、ボートレースの予言は?

こちらはもっと単純です。

高円寺は本藤の自宅で、衛星放送で生放送されている競艇の着順を言い当てました。

だからこそ本藤はすっかり騙されたわけですが、実は高円寺は事前に衛星放送アンテナに仕掛けを施していたのです。

「つまりあれは、録画だった、というのか」

拍子抜けの真相ですね。とはいえ、競艇は高円寺が指定した種目ではありませんでした。

つまり高円寺は衛星放送されるあらゆる公営ギャンブルに対応できるよう準備していたのです。当日の天候にあわせた録画データを用意していましたし、本藤がレースに詳しくないという情報も事前に確認していました。

高円寺は詐欺師としては一流だったといえるでしょう。

ぱんだ
ぱんだ
なるほどね

意気消沈した本藤は「経営に自信がなかった」とつぶやきます。

美紗……もとい涼子は厳しくも誠実な言葉を残して、その場から立ち去ったのでした。

「誰だって、自信などありません。勝つか負けるか、成功するか失敗するか、その狭間でいつだって人間は悩んでます。ただ、負けたときの覚悟があるのとないのでは、その後の人生がまったく違います。あなたのお父様が、なぜ、成功されたのか。それは、自信があったからではない。失敗したときの覚悟が出来ていたからです。負けたときの覚悟が持てない限り、あなたはお父様を越えることはできません」


合理的にあり得ない

神崎恭一郎は近ごろ、妻である朱美の様子がおかしいと感じていました。

決定的だったのは妻が黙って口座から二千万円を引き出していたことです。

資産家である神崎にとって二千万円はたいした金額ではありません。とはいえ、相談もなしに気軽に引き出すような金額でもありません。

問い詰めてみると、あろうことか朱美は霊能力者にのめり込んでいました。

二千万円は、幸運が訪れるという皿やら石やらの代金として支払ったのだといいます。

神崎は激怒し、すぐに霊能力者の情報を集めさせました。

名前は綾小路緋美子(ひみこ)

妻は緋美子の幸運の効果を主張していました。たとえば、ずっと探し求めていた希少な本を見つけられたり、亡き愛猫にそっくりなプリントが施されたマグカップと運命的な出会いを果たしたり。

しかし、調べてみればさもありなん。それらは事前に仕込まれていたものでした。

妻が騙し取られた二千万円を奪還すべく、神崎はさっそく行動に移ります。

……それはそれとして、神崎は首をひねります。妻は行く先々で仕組まれた《幸運》と出会っていました。

しかし《幸運》は緋美子に指定された場所ではなく、ふだんの生活のなかで自由に訪れた場所に転がっていたのです。

まさか緋美子には朱美の行動が予知できていたとでも? 合理的にあり得ません。

しかし、ではいったい霊能力者はどうやって妻の行動を先読みしたのでしょうか?

綾小路緋美子

神崎の目の前には、呼び出した綾小路緋美子が座っていました。

すっかりインチキの種は割れているというのに、女は落ち着き払っています。

神崎は騙し取った金を返すよう要求しますが……

「品物の代金はお返しいたしません」

自称・霊能力者はきっぱりと要求をはねつけました。

これには神崎も怒り心頭です。

悪事の証拠となる書類をテーブルの上に投げつけて正面の女を睨みつけます。

「興信所をつかってすべて調べはすんでいる。どうだ、これでもまだ白を切るつもりか。綾小路緋美子――いや、上水流涼子」

ぱんだ
ぱんだ
んんっ!?


結末

綾小路緋美子の正体は上水流涼子でした。

「松下昭二、という名前に覚えはありませんか」

この一言を皮切りに、話は涼子のペースで進んでいきます。

かいつまんでお伝えすると、松下昭二というのはかつて土地売買の詐欺で神崎に騙された被害者の名前です。

損害額は二千万円。松下はその後、自殺しています。

今回、涼子に「騙し取られた金を取り返してほしい」と依頼したのは松下の妻でした。彼女は最近になってようやく真実を知り、しかし法で神崎を裁くのは難しく、上水流エージェンシーの門を叩いたという次第です。

そして、涼子はすでに朱美から二千万円を受け取っています。

神崎にもようやく事の全貌が見えてきました。

「結局、私が騙し取った二千万円を朱美から騙し取り、相殺したというわけか。が、そうはいかない」

神崎は正当な手続きを踏んで土地の売買契約を交わしていました。一方、涼子のやったことは法に照らせば詐欺にあたるはず。なるほど、神崎の主張ももっともです。

しかし、法というのならば涼子は元弁護士です。

「あなたは私を訴えることはできません。なぜなら、あなたの奥さん、朱美さんは、私が売った品物が、なんの価値もないものだと知っていたからです。知っていながら、こちらの言い値で購入したのです。詐欺罪の構成要件たる欺罔行為には当たりません」

神崎は愕然としました。二千万円でなんの価値もないものを買った? まるで理解できません。

混乱する神崎に涼子は朱美から預かった手紙を手渡します。

手紙には、家庭を顧みず、人を欺いて資産を築いてきた恭一郎(神崎)に対する批難と、夫のあくどい商売を見て見ぬふりをして暮らしてきた自分への悔悟の気持ち、さらには、ひとり息子の克哉が心を閉ざしてしまった責任は、人を不幸にして生きてきた自分たちへの人間性の問題にある、とまで言い連ねてあった。

悠々自適に暮らしていた神崎は、これまで妻や息子の悩みに目を向けようとしませんでした。

幸せな家庭だと思っていたのは神崎ばかりで、朱美は精神をすり減らし続けていたのです。

価値のない品物に大金を払ったのは「幸運が訪れると信じて手にしていればそのとおりになるかもしれない」という涼子の言葉にすがったためでした。それほど朱美は苦悩していたのです。

とはいえ、涼子が朱美に目をつけたのは、なにも二千万円を騙し取るためではありません。

手紙には次のように書かれていました。

『緋美子先生とお会いするうちに、私のなかでずっとくすぶっていた思いが明確になりました。私はあなたと一緒にいても、安らぎは得られないということです。それは、克哉も同じです』

手紙には離婚届が同封されていました。神崎と別れることで、朱美はよりよい未来へと歩んでいけることでしょう。

※以下、小説より一部抜粋

…………

「金を騙し取るだけでなく、私の家庭を崩壊させる――それが、依頼された復讐の中身だったのか」

涼子は憐れむような目で、恭一郎を見つめた。

「今回の奥様の手紙と離婚届、あなたにとっては突然の出来事のようですが、私から見れば、なるべくしてなった必然の結果のように思います。私が受けた依頼は、きっかけに過ぎません。そのことに気づかない限り、あなたが離婚届を破っても、奥さまは離婚届を送り続けるでしょう」

涼子が席を立つ。貴山も立ち上がった。

「奥さまからいただいた二千万円は、経費と依頼料を差し引いて、たしかに依頼人にお渡しします。私が受けた依頼は完了しました。もうあなたにも、奥さまにもお会いすることはございません。それでは」

涼子は恭一郎に背を向けた。

「待ってくれ」

恭一郎は絞り出すように言葉を口にした。

「ひとつだけわからないことがある」

立ち止まった涼子は、振り向くと片眉をあげた、

「どうやって、朱美を目的の場所へ行かせたんだ」

意味がわからない、というように眉根を寄せる。

「神田の古本屋街や(旅行先の)湯布院で、お前たちがネタを仕掛けていたのはわかっている。だが、どうやってそこに朱美の足を運ばせた」

なんだそんなことか、というように涼子は口元を緩めた。

「あれはたまたま上手くいった例です。蓋然性を高めるために腐心しましたが、百パーセント確実ではない。ネタはほかにも、いろいろ仕込んでいたのです


戦術的にあり得ない

極道の大親分・日野照治からの依頼は、やや意外なものでした。

「次の一局、わしに勝たせろ。どんな手を使ってもかまわねえ」

一局、というのは将棋の勝負のことです。ただし、ただの将棋ではありません。

一億円のかかった賭け将棋。まさに大一番です。

日野はもともとアマ四段の実力者であり、掛け金が掛け金とはいえ、こうして裏工作を頼むような人物ではありません。

そんな日野がなりふり構わず勝とうとしているのは、そもそも対局相手……横山一家の総長・財前満の不正を疑っているからでした。

ずっと五分五分の勝負が続いていたのはこの夏まで。その時期を境に財前の腕前は一変しました。直近の日野の戦績は三連敗。これまでは一局あたり三千万円の賭け将棋だったので、損失は九千万円。

次の大一番に勝てば、涼子たちへの報酬一千万円を差し引いて、損失を取り戻せるという寸法です。

報酬一千万! 涼子は日野の依頼を引き受けました。

不正の正体

涼子は将棋については門外漢です。そのため、今回の依頼はアマ五段の実力者にして東大将棋部の元主将でもある貴山伸彦に一任されました。

貴山は棋譜を手に不眠不休で作業をつづけ、そうしてようやく財前の不正の正体を突き止めます。

結論からいえば「将棋ソフト」です。

対局会場では不正防止のためボディチェックまで実施されていましたが、その警戒をくぐり抜け、財前は不正を働いていました。

やり口は古典的な「通し」

「ある人間が、身体の一部を触る動作で、財前にブロックサインを送っていたんです」

日野も馬鹿ではありません。対局の録画を見直しては、財前の部下に不審な動作がないかチェックしていました。

それでも不正を見抜けなかったのは……

「まさか、米澤の野郎が裏切者だったとはな」

米澤は関東幸甚一家、つまり日野の組の若頭です。

対局中、米澤は日野の左隣に控えていました。財前とは向かい合っている位置関係です。

髪で覆われている米澤の耳には無線イヤホンが装着されていました。そうして将棋ソフトの指示を逐一財前に伝えていたというのが不正の全貌です。

日野もまさか自分の部下が裏切っているとは思いもよらず、不正を見抜けなかったというわけですね。

「米澤さんの身辺を調べた結果、財前と裏で繋がっている事実がわかりました。あなたを引退に追い込み、自分が総長の座に着く条件で、財前の話に乗ったようです。これは確かな筋からの情報です」

米澤がどのような処分を受けるのか、それは涼子たちのあずかり知るところではありません。


結末

不正を暴いたのはいいけど肝心の対局はどうなったのか? もちろん貴山がバックアップした日野の勝利に終わりました。

自分に大きく不利となる三手目の7七桂。戦術的にあり得ない手から始まった賭け将棋は財前の優勢で進みました。しかし、日野の三十七手目。財前の動きがピタリと止まりました。

「先手5三角、成らず、です。この局面を待っていたんです」

意味がわからない、という顔の涼子に貴山は説明します。駒が裏返り「成る」ことができる状況で、あえて「成らない」なんて状況は、通常ありません。

そのため効率を追求する将棋ソフトでは「成らず」に対応するプログラムを、最初から用意していないことがある……。

「バグ――コンピュータプログラムに含まれる不具合です」

貴山は将棋ソフトのバグを意図的に引き起こすよう誘導していました。財前はまんまと罠にはまり、いきなり将棋ソフトの支援を失ったというわけです。

一方、日野は巧妙な不正により、貴山の指示に従って駒を進めています。

勝負あり、でした。

※以下、小説より一部抜粋

…………

当然のことだが、別室にいる日野と貴山が、連絡をとる術はない。どんな方法で指し手を教えていたのか。訊ねると貴山は、時計です、と答えた。

竜昇の間には、将棋の駒を象(かたど)った壁時計がある。時刻を示すインデックスは、王将、飛車、角など、駒が使われている。その時計に、細工を施してあるというのだ。

「やくざの貫目では日野が上です。当然、日野は床の間を背にした上座に座る。壁時計は対戦する財前の後ろ、つまり、日野から見て正面に掛かっています。日野が頻繁に目をやっても、怪しまれる心配がない壁時計に、細工しました」

貴山の説明によると、竜昇の間の時計とまったく同じデザインの時計を取り寄せ、あらかじめ細工をしたらしい。それを日野に渡し、事前にすり替えるよう指示しておいたという。

「その時計に、どんな細工をしたの」

涼子に訊かれた貴山は、手を顔に持っていくと、眼鏡のフレームを持ち上げる仕草をした。

「眼鏡?」

涼子が訊ねる。貴山は肯いてモニター画面に目を戻した。

「いま、日野さんがかけている眼鏡は、私が指示して造らせた特注品です。眼鏡のレンズには、特殊な透明塗料が使われていて、ある光を読み取ることができます。その光は肉眼では見ることができないし、その光を読み取る加工が施されたレンズやガラスなどを通してしか、確認できません」

「日野さんにしか見えない光を、壁時計に埋め込んだのね」

涼子は感心しながらつぶやいた。

「私が指し手をコンピュータに入力すると、電波が壁時計に飛び、文字盤の数字を光らせます。たとえば7六歩なら、数字の7が青く、6が赤く光る。7七や3三などぞろ目の場合は、7や3が点滅する。また、指示した地点に何通りもの指し手がある場合は、どの駒を動かせばいいのかわかるように、インデックスの駒が光るようにしてあります」

説明していた貴山が、パソコンのキーボードを叩いた。モニター画面のなかの日野が、ちらりと壁時計を見やる。壁時計から盤に目を戻すと、ひとつ肯き、迷いなく駒を動かした。

それから六手後、財前はがっくりと肩を落とし投了した。

張りつめていた緊張の空気が、一気に緩む。

涼子は天井を仰ぐと、大きく息を吐き出した。

「貴山、私も今回の依頼に関しては、あなたに投了だわ」

貴山は満足げな顔で、ノートパソコンを閉じた。


心情的にあり得ない

事務所の電話に応答して十数秒後、貴山の顔が嫌悪で歪んだのを涼子は見逃しませんでした。

貴山は普段めったに感情を表に出しません。つまり、それほど好ましくない相手だということです。

「申し訳ありませんが、ご依頼はお引き受けいたしかねます」

静かに、けれど強い口調で、貴山は一方的に電話を切りました。

しかし、それで引き下がる相手ではありません。

間を置かずかかってきた二度目の電話には、涼子が応答しました。

「私だ、諫間(げんま)だ。覚えているか」

忘れるはずもありません。涼子が弁護士資格を失ったのは、他ならぬ諫間のせいなのですから。

本来なら二度と声も聞きたくない相手です。

にもかかわらず、涼子は諫間からの呼び出しに応じました。

確かに諫間は巨大グループ企業の会長であり、報酬には期待できるでしょう。けれど「ビジネスに私情は挟まない」と割り切れるほど、涼子の古傷はまだ癒えていません。

では、なぜ涼子が依頼の相談に応じたのかといえば「負けっぱなしではいられない」という意地のためだったのでしょう。涼子は内心の動揺を貴山に悟らせないよう、気丈に振舞うのでした。

※以下、小説より一部抜粋

…………

「なぜ、お会いになるんです。諫間がどんな男か、おわかりでしょう」

顔をあげると、貴山が不満げな表情で涼子を見ていた。

涼子は努めて、意地の悪い笑みをつくった。

「そうね。心情的にあり得ない。でも、私を陥れた男が頭を下げにくるのよ。その姿を拝むのも一興じゃない」

六年前の事件

――被告人、上水流涼子に、懲役一年、執行猶予三年を言い渡します。

裁判官の宣告と同時に、涼子の弁護士人生は幕を閉じました。

禁錮刑以上の処罰を受けた者は、法曹資格を剝奪されます。涼子が所属していた弁護士会も「弁護士の信用を著しく落とした」として、すみやかに涼子を除名しました。

なぜ、こんなことになってしまったのか?

涼子の罪状は傷害でした。

ある男の頬を張り、その反動で転倒した男性が後頭部を強打、全治三週間の裂傷を負ったのです。

男の名前は、椎名保(しいなたもつ)

不当解雇で会社を訴えようとしていた椎名は、涼子の依頼人でした。

事件が起きたのは、訴訟を起こす準備があと少しで整うというときでした。

ホテルのラウンジで打ち合わせを終えて椎名と雑談していた涼子の意識が、突然、途切れたのです。

時間にして十秒ほど。我に返った涼子が目にしたのは、床に倒れて呻(うめ)いている椎名の姿でした。

「いったい、なんなんですか! 急に殴りかかってくるなんて!」

涼子は耳を疑いました。しかし、隣に座っていた年配の女性は従業員に叫んだことには、

「この女性です。この女性が、いきなり向かいにいた男性に向かって、拳を振り上げたんです」

かくして、涼子はわけもわからないまま加害者となってしまいます。

涼子は椎名に詫びの文書を送りました。慰謝料を支払う旨を伝えました。

しかし、椎名は頑として謝罪を受け入れず、裁判に持ち込むといいます。

信じられなかった。こうした場合、大抵は慰謝料で片が付く。いくら理不尽な暴力であっても、弁護士と依頼人が裁判で争うのは、前代未聞だ。

なぜ椎名が裁判に訴えたかは、あとで知ることになります。

涼子から弁護士資格を取り上げることこそ、椎名の……いいえ、彼を操っていた黒幕の狙いでした。

黒幕の名前は諫間慶介。

当時、諫間グループ内では事業拡大派と事業縮小派の争いが繰り広げられていました。

会長である諫間は拡大派。一方、顧問弁護士の涼子は縮小派の考えに賛同していました。

諫間にとって涼子は目障りな存在でした。とはいえ、顧問弁護士を首にするのは簡単ではありません。役員会の了承が必要になります。

もし、下手を打って裏目に出れば、自分たちが会社から追い出される懼(おそ)れもありました。親の代から顧問弁護士を務める涼子には、それだけの存在感があったのです。

諫間が最後の手段として涼子を罠に嵌めるため利用したのが、椎名でした。多額の報酬と安定したポストを与えると約束し、涼子を失脚させるよう命じたのです。

さて……では、椎名はどうやって「涼子から殴られる」などという状況をつくりだしたのでしょうか?

答えは《後催眠暗示》です。

ある人間に催眠をかけて、目が覚めたあと、特定の言葉を耳にしたり、ある場面に遭遇したとき、催眠中にかけられた暗示に従い行動を起こすというものだ。暗示をかけられた被験者は、催眠中の記憶がないため、なぜ自分が突飛な行動を起こしたのかわからない。

涼子は椎名に紹介された店でヒプノセラピー……催眠術を用いてのリラクゼーションを受けていました。

その店の施術師が涼子に後催眠暗示をかけていたのです。

涼子が真相にたどりついたときにはもう、店は跡形もなく消え失せていました。


結末

場面は再び現在。諫間からの依頼は「家出した孫娘を捜し出してほしい」というものでした。

わざわざ涼子に頼ってきたのは、いま再び拡大派と縮小派で争っている社内情勢を鑑みて、敵側にとって攻撃材料になりうる家庭の問題を内密に処理したいと考えてのことです。

諫間は涼子が六年前の真相に気づいていると知りません。涼子が恨みを抱いているとも知らずに依頼してくるなんて、愚かとしかいいようがありません。

涼子は決意とともに諫間からの依頼を引き受けました。

――依頼を解決し、なおかつ、遺恨は晴らさせてもらう。

ぱんだ
ぱんだ
いいね!

上水流エージェンシーにとって、孫娘の捜索そのものは赤子の手をひねるようなものでした。

お嬢様大学の二年生・諫間久実は悪い男に騙されていた、というのが真相です。

涼子はかたわらの貴山に言います。

「彼女をこのまま親元へ帰すのは簡単よ。多額の報酬も手に入る。でもね、私の件と彼女の人生は関係ない。それに、自分の地位と引き換えに、孫を更生できるんだから、諫間から感謝されることはあっても、恨まれる筋合いはないわ」

地位と引き換え? 涼子の発言の真意はこうです。

久実はただ男を追いかけて家出していたのではなく、覚せい剤に溺れさせられていました。

諫間にしてみれば身内の恥。何が何でも隠し通したい事実に違いありません。

だからこそ、涼子は馴染みの刑事に久実の保護を頼みました。

※以下、小説より一部抜粋

…………

貴山が運転するサーブの助手席で、涼子はバドワイザーの蓋を開けた。

涼子が住んでいる吉祥寺のマンションへ向かう道すがら、コンビニで購入したものだ。缶に口をつけて、喉を鳴らして飲む。疲れた身体に、キレのいい苦みが染み込む。

「お疲れ様でした。依頼を解決したあとのビールは美味しいですか」

涼子は缶を誇らしげに高く掲げた。

「格別よ」

貴山はシートに深くもたれた姿勢のままハンドルを器用に操る。

「でも、もうそろそろ、諫間から苦情の電話がかかってくるはずです。事を穏便に済ませるはずだったのに、なんてことをしてくれたんだ。孫娘がヤク中で捕まったとなれば、世間の信用は失墜する。よくも私を窮地に追い込んだな、とね」

「そうして、こう言うわ」

涼子は、諫間の声音を真似て、貴山の言葉を引き継いだ。

「お前に報酬など払わん」

(中略)

貴山は運転しながら、大きなため息をついた。

「今回はただ働き同然ですね。いや、かかった諸々の費用を考えると赤字だ」

「なにか、ご不満?」

涼子は意地の悪い目を、貴山に向けた。

意地の悪い視線の意味を知っている貴山は、降参というように、肩を竦(すく)めた。

「いえ、今回の件で上水流エージェンシーの財布は軽くなりましたが、私のあなたに対する罪悪感も少しは軽くなりました」

罪悪感という言葉に、涼子は貴山のマンションを訪れたときのことを思い出した。

エピローグ

六年前の冬、法曹失格を失った涼子は後催眠暗示をかけた施術師を探し当てました。

「お久しぶり、堀江さん。いえ、本名は貴山さんだったわね」

ぱんだ
ぱんだ
えっ!

そう、椎名の仕込みで涼子に催眠をかけた人物こそ貴山だったのです。

その頃、貴山は東大を卒業し、金次第で(明らかな犯罪でない限り)なんでも引き受けるよろず屋をしていました。

といっても、悪人だったというわけではありません。頭が良すぎたのか、生きていければそれでいいという達観した価値観のためだったように思われます。

貴山を前にして、涼子は言います。

「いま正真正銘の無職よ。でも、あなたが罪悪感を抱く必要はまったくない。あなたは自分の仕事を立派にやり遂げただけ。罠に嵌った私が愚かだっただけのことよ」

貴山を訪ねたのは、涼子にとって前に進むためのケジメのようなものでした。

※以下、小説より一部抜粋

…………

「法曹資格を失ったとはいえ、頭の中にある知識を使わない手はないわ。表立って法は使えないけれど、法を利用することはできる。世の中にあるのは、大きな声で助けを求められる問題だけじゃない。むしろ、人目を避け、内々に解決したい問題のほうが多い。いままでは前者が依頼人だったけれど、こんどからは後者を依頼人にしようと思ってるの」

(中略)

「私をそこで、雇ってくれませんか」

「本気なの?」

貴山が真剣な表情で肯く。

「私への支払いは、歩合制でいいです。そのときの依頼で入ってくる報酬の何割かをいただければそれでいいです」

涼子は眉根を寄せた。

「どうして。自分で仕事を請け負った方が、儲かるはずよ」

貴山は肩を竦めた。

「もともと自分は面倒くさがりなんです。クライアントとの打ち合わせから実務までひとりでこなしていることに、そろそろ限界を感じていたんです。それに、強敵の同業者が現れるとなると、仕事が減ってしまう。それなら、あなたに雇ってもらって、自分は言われたことだけしていた方が楽です」

涼子は考えた。心の奥では自分に恨みを抱いているかもしれない女のもとで働きたい、と言いだす貴山の真意がわからない。

しかし、貴山の優秀さは魅力だった。貴山がいかに有能かということは、罠に嵌められた自分が一番よく知っている。

涼子は少しの間のあと、貴山に言った。

「私、人使いが荒いから苦労するわよ」

貴山は、どうってことない、というように首を振った。

涼子はにっこりと笑いながら、握手を求めて右手を差し出した。

「よろしく」


心理的にあり得ない

予土屋(よどや)は生粋のギャンブラーです。

パチンコ、パチスロ、麻雀、競馬、競艇、競輪……あらゆる賭け事に手を出してきた予土屋が最後に行き着いたのは野球賭博でした。

野球賭博は、自分が賭けたチームが試合に勝った負けたで勝負が決まるような、単純なものではありません。必ず、ハンデ、というものがつきます。

ハンデとは最初から一方のチームに加算される点数のことで、これによって客の賭けが五分五分になるよう調整されています。

たとえば絶好調のAチームと連敗中のBチームが試合するとしましょう。どう考えても負けそうなBチームにハンデとして3点が与えられたとします。

試合結果が「2-0」でAチームの勝ちだった場合、野球賭博としてはハンデ込みで「2-3」となり、Bチームに賭けた客の勝ちです。

ハンデには小数点がつくこともあります。さきほどのハンデがもし2.7点だったとすると、試合結果は「2-2.7」となり、Bチームに千円を賭けた客の儲けは七掛けの700円、そこから胴元が寺銭として一割をとるので、実際の儲けは630円という寸法です。

あ、胴元というのはヤクザのことですね。言うまでもなく野球賭博は違法です。

それでも予土屋は二十年もの長きにわたって野球賭博を続けてきました。

月間の収支は、平均するとマイナス二十万円ほど。

総合で負けているとわかっていても、勝ったときの快感が忘れられず、やめられません。

とはいえ、予土屋の貯金も無尽蔵ではありません。

いま、予土屋は飲み屋で知り合ったギャンブル好きの金持ち・天見篤史に狙いを定めています。

天見を野球賭博に誘い、《ある方法》で金を騙し取る。危ない橋ですが、予土屋には絶対にバレないという自信がありました。

予土屋の手口

あっさりネタばらしすると、天見の正体は貴山です。

かつて予土屋に騙され、自殺に追い込まれた男。その娘である桜井由梨からの依頼によって、上水流エージェンシーは予土屋に狙いを定めていました。

この時点で予土屋にはもう破滅の未来しか待っていないわけなのですが……まずは野球賭博を利用した予土屋の手口について見てみましょう。

簡単にいえば、予土屋は標的の賭けを《呑んで》いました。賭けの予想を胴元であるヤクザに流さず、自らが標的にとっての胴元になっていたのです。

賭け事は必ず胴元が儲かるようにできていますが、予土屋のカラクリはそれだけではありません。由梨の父は熱狂的な阪神ファンでした。当然、阪神の勝ちに賭けます。

だから予土屋は、阪神に賭ける人間が不利になるよう、試合のハンデを毎回0.2だけ阪神に低く切りなおしていました。

阪神が負ければ予土屋の丸儲け。阪神が勝っても0.2だけ支払う金額が少なくなります。

そうして予土屋は長期間にわたって由梨の父から金をせしめていたのでした。


結末

天見篤史こと貴山は、わざといくらか賭けに負けたのち、大勝負を仕掛ける旨を予土屋に伝えます。

阪神・巨人戦に百万円。

貴山は熱狂的な阪神ファンを演じていました。この大一番で巨人に賭けるなんて心理的にあり得ません。予土屋は舌なめずりをして、阪神側が不利になるよう一点もハンデを調整して貴山に伝えてきました。

すべては貴山の計画通り。予土屋が欲張って大きくハンデを変更することはもちろん予想していましたし、胴元のヤクザと交渉して予土屋に伝える(公正なはずの)ハンデにも細工しています。

『G100』巨人に百万円を賭ける旨のメールを見て、予土屋は愕然とするのでした。

※以下、小説より一部抜粋

…………

「予土屋は私――天見が阪神に賭けると思い込んでいる。となれば、三代目桜和連合会から知らされた巨人有利のハンデに、さらにハンデの上積みをするはずです。野球賭博のハンデはほとんど五分五分になるよう切ってありますから、ハンデ一点以上の差は大きい。巨人に賭ければ、かなりの確率で勝てるはずなんです」

「計算通り賭けに勝ったとしても、予土屋が知らぬ存ぜぬで逃げようとしたらどうなるの?」

貴山は涼しい顔で答えた。

「三代目桜和連合会に取立てを頼みます。まあ、半分はもっていかれますが」

「もし、賭けに負けたら?」

貴山は大きく息を吐くと、椅子ごと涼子に身体を向けた。

「バックレればいいだけの話です。あいつはこちらの正体を知りません。銀行の口座も、以前、裏から手に入れたものですし、バレっこありません」

「でも……」

「まだなにか」

貴山が睨みをきかせる。

涼子は顔を膨らませた。

「それじゃァ、依頼人の思いに応えられないでしょ」

貴山が不敵な笑みをこぼす。

「実は勝っても負けても、三代目桜和連合会にクズのことを密告します――証拠を揃えて。おたくの名前を使って、野球賭博のアガリを呑んでるやつがいるってね。五体満足では、すまないでしょう」

涼子は唖然とした。

「――あなた、ヤクザより悪よね」

貴山が真顔に戻り、つぶやくように言った。

「間に合って、よかったです。三回忌」

「そうね」

涼子は肯いた。

<おわり>

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まとめ

今回は柚月裕子『合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』のあらすじネタバレ解説をお届けしました。

将棋ソフトに野球賭博。2017年刊行当時の時事ネタは今となっては「そんなこともあったね」という感じですが、それはそれとして楽しく読むことができました。

それにしても貴山くん万能すぎでは?

助手と言いつつ涼子より活躍していた気がします。

勧善懲悪でスカッとする筋書きといい、魅力的なキャラクターといい、柚月裕子さんのイメージを更新するエンタメ満点な一冊でした。

※柚月裕子さんといえば『孤狼の血』のいぶし銀なイメージだったので……

 

ドラマ情報

キャスト

  • 天海祐希
  • 松下洸平

放送日

2023年4月スタート 毎週月曜夜10時~

ぱんだ
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またね!


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