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『汝、星のごとく』あらすじネタバレ解説|感想|凪良ゆう【本屋大賞受賞小説】

凪良ゆう『汝、星のごとく』を読みました。

2023年の本屋大賞で第一位。

同じく凪良ゆうさんの作品で本屋大賞(2020)を受賞した『流浪の月』にも感銘を受けたものですが、本作にはよりいっそう胸をえぐられました。

読んでいて楽しい気持ちになる小説ではありません。むしろ結末に近づくほど苦しくなっていきます。

だというのに、彼らの歩む人生を見届けずにはいられなくなっていて、最後には……。

今回は小説『汝、星のごとく』のあらすじがよくわかるネタバレ解説(+感想)をお届けします。

ぱんだ
ぱんだ
いってみよう!

あらすじ

風光明媚な瀬戸内の島に育った高校生の暁海(あきみ)と、自由奔放な母の恋愛に振り回され島に転校してきた櫂(かい)

ともに心に孤独と欠落を抱えた二人は、惹かれ合い、すれ違い、そして成長していく。

生きることの自由さと不自由さを描き続けてきた著者が紡ぐ、ひとつではない愛の物語。

(単行本帯のあらすじより)

井上暁海

暁海と櫂の共通点は「親の問題を背負わされている」ということです。

作中における親の存在は、荷物であり、足枷であり、若い彼らの人生を不自由にする呪いですらあります。

といってもイメージがつきにくいでしょうから、まずは暁海の物語の冒頭を読んでみてください。

「あ、しんどいな」と直感で伝わるはずです。

※以下、小説より一部抜粋

…………

今夜もお父さんは帰ってこない。お父さんに恋人がいることを、わたしもお母さんも知っている。そればかりか島中の人が知っている。

――東京からきた裁縫の先生だって。

――ほっときな。街の人に島暮らしは続かないよ。

――男の浮気は風邪みたいなもんだから。

おばさんたちに励まされ、お母さんは鷹揚に笑っていた。

――わからんなあ、嫁より年上だっていうぞ。

――ちらっと見たけど色気はないなあ。

――たまにはちがうもんを食いたいんだろ。

日に焼けた顔を赤らめて、おじさんたちが笑っていた。

それが二年前のことだ。女はすぐに島を出ていく、男はすぐに飽きる。みんなそう思っていたけれど、三年目に入った今年の春、お父さんは家を出ていった。

お母さんはもう笑わなくなった。常にいらいらして、ちょっとしたことでも怒るようになった。

自分が夫を一番理解している、夫はいずれ戻ってくる、だからこそ自由に泳がせることができるのだという妻の余裕。

本当は最初からそんなものなかっただろうに、そう装うことでお母さんは自分を保っていたのだと、最近わかるようになった。

少し前からお父さんが週の半分しか帰ってこなくなり、今はもう一度も帰ってこない。

お母さんは怒りと憂鬱に塞ぎ込み、月に二度、橋を渡って今治のメンタルクリニックへ安定剤をもらいにいく。島にも病院はあるけれど、噂になるからいやだという。

気持ちはわかるけれど、もうとっくに噂になっている。この島では些細なことすら秘密にはできない。

それでも食卓には日々朝ご飯が用意されているし、学校から帰ってくると掃除も洗濯も夕飯の支度もなんら変わらずしている。つらいときは休んでと言っても、お母さんは聞かない。

お父さんがいつ帰ってくるかわからないでしょう、お父さんはだらしないことが嫌いだから、そう言って完璧に家事をすませてしまうと、力尽きたようにくったりと台所の椅子にもたれる。

そして以前は飲まなかったお酒を飲むようになった。

 

真夜中、喉が渇いて目が覚めた。一階に下りていくと、玄関の上がり框にお母さんが座り込んでいて驚いた。古いガラスの引き戸越し、玄関灯に浮かび上がるお母さんは幽霊のようだ。お母さんを包む空気全体に、うっすらとお酒の匂いが立ちこめている。

「なにしてるの?」

おそるおそる声をかけると、お母さんがゆっくりと振り向いた。夜中なのにきちんと服を着込んで化粧までしている。どうしたのと問うのも怖い。

「ねえ、暁海」

「なに」

「お父さんの様子、見てきて」


青埜櫂

翌日、暁海は櫂と一緒に愛人の家へと向かいます。

それまで櫂はただの同級生だったのですが、その場の勢いで同行を頼んだのでした。

…………

「……お父さんを迎えにいくの」

なぜ俺まで、という顔をされた。

「お父さん、今、好きな人の家にいて」

少しの間のあと、あー……とうつむき気味に櫂は首筋を指で搔いた。

「めんどくさいなあ」

わたしはきゅっと制服の肩をすぼめた。

「ごめん。次のバス停で降りて」

「せやのうて、大人は勝手やなあって意味」

えっと隣を見た。

「愛人んちに、ひとりで乗り込むのは根性いるわな」

ふっと息を吐き、櫂はシートにもたれた。慰めの言葉などはなく、つきあってやるよという空気だけが伝わってくる。

親しく話したこともない男の子とふたりきり。なのに泣きたいほど安堵した。

…………

結果からいえば、この日、暁海は父親に会えませんでした。愛人こと林瞳子に迎えられ、パウンドケーキと中国茶をごちそうになって帰路につきます。

「あれはあかん。手強すぎる」

瞳子は刺繍作家として自立していて、丁寧な暮らしぶりといい、暁海に憧れさえ抱かせるような凛とした女性でした。

こういってはなんですが、暁海の母親に勝ち目はなさそうです。

櫂は言います。

「うちのおかんやったらよかったな」

※以下、小説より一部抜粋

…………

「え?」

「うちのおかん、惚れると相手が全部になりよんのや。家も仕事もほったらかしで、最初はかわいいけど、男からしたら、なんや重とうなるんやろな。結局は捨てられよる」

返事に困っていても、櫂は構わず続けた。

「うちのおかんなら、そのうちおっちゃんも戻ってくるて言えるけど」

ああ、そうか。この人はわたしを慰めようとしてくれているのだ。

「ありがとう」

「礼言われんのも微妙やけど」

そのとおりだったので、わたしは笑った。やっと笑うことができた。

 

わたしは櫂が転校してきたときのことを思い出した。あのときは学校中、いや、島中がざわついた。

――お父さんいなくて、お母さんがスナックやってるんだって。

――お母さんが酔っ払って、木元のおじさんに抱きついたって聞いた。

――青埜くんとはしゃべるなってお祖父ちゃんから言われた。

校内で見かける櫂はいつもひとりで、けれどかわいそうではなかった。櫂にひとりはよく似合っていたからだ。身勝手にも、そういう雰囲気がさらにわたしたちを気後れさせた。

良くも悪くも自分たちとはちがう異質ななにか。

でも、今、隣にいる男の子は普通の、いや、普通よりもずいぶんと優しい男の子に思える。


17歳夏

暁海と櫂がつきあいはじめるまで、それほど時間はかかりませんでした。

高校三年生の夏休み。

暁海は毎日のように櫂の家に通いました。櫂は漫画の原作を書いていて、暁海はその背中を眺めながら趣味の刺繍に手を動かす。あるいはベッドで抱き合う。充実した時間でした。

櫂の漫画は高校卒業後の四月から雑誌に連載されるのだといいます。

暁海も櫂と一緒に上京するつもりでした。

……事件が起きるまでは。

ぱんだ
ぱんだ
なにごと!?

暁海の母親は瞳子の家に火をつけようとしました。

いち早く気づいた暁海が櫂に助けを求め、大人の助力もあってなんとか未遂で終わったものの、放火騒ぎで母親の精神はいよいよ限界を超えてしまったようでした。

だから、

『ごめん、東京行けない。お母さんをひとりにできない』

※以下、小説より一部抜粋

…………

俺のために暁海はすべてを捨てられない。その事実が驚くくらい俺を痛めつけている。

男のためにすべてを捨てる母親を馬鹿だと思っているのに、俺は暁海に母親と同じ馬鹿な女になることを求めている。

俺も母親や暁海を苦しめる身勝手な男のひとりだったのだ。

[会おか]

メッセージを送ると、

[浜で待ってる]

三秒で返ってきた。

俺たちはもう駄目かもしれない。悲観ではなく現実の話だ。十七歳で、これから世界が広がって、環境も考え方もみるみる変わっていくだろう。

それらを常に擦り合わせ、愛情を保っていく。それを遠距離でどこまでこなせるだろう。

(中略)

どちらもなにも話さない。ただただ波音を聞きながら暮れていく空を見る。

「……夕星やな」

西の空の低い位置に、たった一粒で煌めいている星を見つけた。

「ゆうづつ?」

暁海が首だけをこちらにねじる。

「一番星。宵の明星。金星」

「夕星っていうの知らなかった」

「朝も出よる。そっちは明けの明星で赤星」

「そんなに呼び方があるんだね」

「同じ星やのに、おもろいな」

なんてことない会話に安心した。大袈裟な言葉は使うほどに関係を削る。

「東京でも見えるのかな」

「そら見えるやろ。けど島から見るほうが綺麗やろな」

「ちょっと霞んでるのも味があるよ」

なんやそれと笑い、同じタイミングで手を差し出した。つないだ手から熱が伝わってくる。

どこまで続くかわからない。けれど続くところまで共に歩きたい。

互いの目に同じ星が映っているうちは――。

<すぐ下のネタバレにつづく>


ネタバレ

ここから物語はスピードアップしていきます。

場面は19歳、22歳、25歳、と一定間隔でジャンプしていって、場面が変わるごとに二人のすれ違いは決定的なものに近づいていくようでした。

なぜそんなことになってしまったのか?

遠距離恋愛の難しさもありますが、最大の要因はやはり櫂の漫画が大ヒットしたことでしょう。

それはもう『鬼滅の刃』くらいの流行です。

莫大な収入を得た櫂の生活レベルは、上京直後、高円寺のアパートに住んでいた頃とは比べものにならないほど向上していきます。

母親にねだられるままマンションを買ってやり、割烹料理店を開く資金を融通してやっても、まだまだうなるほどに金は有り余っていました。

当然、女たちも櫂を放ってはおきません。暁海ではない女と寝ることに罪悪感を覚えていたのは最初のうちだけ。大成功した櫂は息をするように女たちをはべらせるようになります。

都会の刺激的な女たちに比べて、暁海は地味で退屈でした。

島での生活は時が止まっているかのように単調で、話を聞いているとあくびが出てきてしまいます。

以下は、櫂がお盆に帰省したとき(22歳夏)の一場面です。

※以下、小説より一部抜粋

…………

――暁海って、こんな女やったかな。

いくら話しても話が尽きず、毎日放課後に待ち合わせて、それでも足りなかった高校時代を遠く感じる。

このあたりの海独特の穏やかな波音も、息苦しいほどの潮の香りも、夜の闇の深さも、そんな中でふれた暁海の肌も、うなじの匂いも、すべて鮮やかに刻み込まれているのに、隣にいる暁海だけがあのころと重ならない。

(中略)

「聞いてる?」

我に返った。完全に会話がお留守になっていた。

「すまん、ちょっとぼうっとしとった」

「わたしといるの、退屈?」

とっさに答えられなかった。暁海は怒っていない。ただ穏やかに俺を見ている。嵐の前の静けさのような、なにかが手遅れになりそうな気配を感じた。

「結婚……する?」

暁海が目を見開いた。俺はなにを言っているのだ。

けれど、そう言わなくてはいけない気がした。

女がひとりで生きていける仕事は島には少なく、五年も俺とつきあっていることは島中が知っていて、いまさら島の他の男とつきあうのも難しい。

俺は暁海の人生に責任を取るべきだ。

「なに言ってるの」

暁海はあきれたあと、「そろそろ帰ろ」と話を流した。

正直、ほっとした。暁海を愛しているのに、執行猶予がついたみたいに感じている。それがまた暁海への後ろめたさにつながる。


25歳夏【暁海】

高校卒業後、暁海は今治の内装資材を扱う会社に就職しました。

一昔前の男尊女卑がまかり通っている社内では、女性は男性社員のためにお茶を淹れねばならず、営業成績がよくても「営業アシスタント」の肩書きから抜け出すことはできません。

手取りは昇給して14万円。暁海はそのうち8万円を家に入れています。

父親はあいかわらず家には寄り付きません。母親はうつ病が悪化し、暁海の支えなしでは生活できない状況です。

華やかに成功した櫂とは対照的に、暁海の暮らしはゆっくりと沈んでいく底なし沼のようでした。

櫂からは常に他の女の気配がするようになった。

暁海は櫂の不実に気づいていました。でも、それを責めて喧嘩したりはしません。

それほど暁海は疲れていましたし、心の底では櫂との関係の終わりも予感していました。

つき合って八年。ふたりの関係が続いているのは、恋人を切り捨てられない櫂の優しさのためなのだと、暁海は理解しています。櫂は優しくて、弱いから。

25歳の夏。

事前連絡もなしに帰ってきた櫂は、今治のホテルに暁海を呼びつけて、そのくせろくに話も聞こうとせず仕事ばかりしています。

もう、限界でした。

※以下、小説より一部抜粋

…………

「いいかげんにして!」

櫂がびっくりしたようにわたしを見た。

「……もう、いいかげんにしてよ」

縁いっぱいまでそそがれたものがついにあふれていく。わたしにも、もうなす術がない。

「なんや急に」

「急じゃない。前からずっとこんなふうじゃない。ねえ、なにかちがうって思うならちがうって言って。めんどくさそうに流さないで。ちゃんと喧嘩して」

「なんでわざわざ喧嘩せんとあかんねや」

「もう好きじゃないなら、そう言って」

やっと言えた。鼻の奥が痛みと共に湿っていく。泣くな。ここで泣いたら負けだ。

櫂はぽかんとしている。

「いや、ちょっと待ってくれ。ごめん」

「謝ってほしいわけじゃない」

「わかっとる。ほんまごめん。なんていうか、その」

言葉を探すような間のあと、

「結婚しよか?」

頭の中が漂白されたように感じた。

空っぽになった場所に、ぽつりと炎が立ち上がる。

櫂はなんて残酷なのだろう。こんなタイミングで、しかたなくされたプロポーズを喜ぶ女がどこにいるのか。

わたしたちの関係はとうに腐っていて、あとは枝から落下して潰れるしかない。なのに、ここまできても決断できず結婚を口にして答えをわたしに押しつける。

イエスかノーかの二択。だったら最後の刃はわたしが振り下ろすしかない。

「別れようか」

ずっと言いたくて、けれど言えなかった言葉がこぼれた。それは自分でも驚くほど軽く響いた。よかった。死んでも重くは言いたくなかった。櫂がまばたきをする。

「なんて?」

「別れようか」

(中略)

いつからか対等に話せなくなったこと。よしよしと適当に頭をなでて、それで満足すると思われるようになったこと。

けれど本当にわたしがつらかったのは、侮られる程度の自分でしかないという現実だったんだろう。

わたしが今のわたしに価値を見いだせない。だから言いたいことも言えず、飲み込んだ自身の不満で自家中毒を起こしている。

そう考えると、問題の根本は自分なのだとわかる。

櫂が好きで、ずっと一緒にいたくて、でもいつからか、櫂への気持ちの根底に愛情とは別のものが混じりだしたんじゃないだろうか。

島やお母さんから自由になりたくて、そのパスポートのように櫂との結婚を望んでいたんじゃないだろうか。

現実ってそんなもんでしょうと、もうひとりのわたしが囁(ささや)きかけてくる。

打算ごと引っくるめて櫂を愛していると開き直ればいい。そしてわたしをここから連れ出してと縋りつけばいい。

もう、ひとりで社会と戦いたくない。

仕事なんてしたくない。

月末にお金の心配をしたくない。

将来が不安で眠れない夜を過ごしたくない。

稼ぎのある男と結婚したい。

専業主婦になりたい。

子供を産んで夫の庇護の下で一生安心していたい。

すべての本音と欲望を並べ立てたあと、ふっと我に返った。

「……お母さんとおんなじだ」

自分で自分を養う力がない不自由さ、自分の生活基盤を夫という名の他人ににぎられている不安定さ。その他人がある日突然去っていくかもしれない危うさを、わたしは母親を通じて何年も味わってきた。

お母さんを親として大事に思いながら、ああはなりたくない、ならないと思ってがんばってきた。なのに、今のわたしは――。

もう一度きつく目を閉じて、無理矢理に視界から櫂の姿を消した。

櫂に縋っても、この不安や焦燥は解消されない。

わたしは、わたしの矜持を守らなくてはいけない。


25歳秋【櫂】

櫂は暁海から突きつけられた「別れよう」の言葉を受け入れられずにいます。

たしかに落ち度はありましたが、櫂は櫂なりに暁海のことを愛していました。

最悪なタイミングだった「結婚しよか」の台詞だって仕方なく言ったわけではありません。暁海には知るよしもないことですが、実のところ櫂は婚約指輪を用意していたのです。

暁海が生活の疲れのために余裕をなくしていたように、櫂もまた多忙のため余裕を失ってしまっていました。

どちらが正しいとか悪いとかではなく、心の余白のなさがふたりをすれ違わせたようにも思われます。

ぱんだ
ぱんだ
せやろか

25歳の秋。櫂の人生は大きく狂い始めます。

暁海のことだけではありません。

スキャンダルによって漫画が連載終了になってしまったのです。

紙の漫画は絶版。電子書籍も配信停止。人気漫画家から無職へと真っ逆さまです。

ぱんだ
ぱんだ
いったいなにが……

正確には、槍玉にあげられたのは漫画の作画を担当していた久住尚人の方でした。

スキャンダルというのは「未成年の男の子にイタズラした」というものです。

確かに尚人はゲイでしたが、年下の恋人である圭くんとは誠実に交際していました。高校卒業までは手を出しませんでしたし、なにより被害者とされる圭くんもまた尚人を愛していたのですから、なにが問題なのかわかりません。

しかし、炎上で騒ぎたいだけの連中はそんな事情おかまいなしです。

尚人と圭の愛は引き裂かれました。漫画家として復帰することも難しいでしょう。

夕星が光る東京の空の下、櫂はただただ途方に暮れていました。

26歳冬【暁海】

一方、暁海にも試練の時が訪れます。

いつのまにか母親が新興宗教にのめりこんでいて、気づいたときには預金通帳の残高がすっからかんになっていたのです。

母親は言います。

「聞きなさい。その年で青埜くんと別れてどうするの。だからお母さん、一生懸命祈ってあげてるの。どうか青埜くんと復縁できますようにって――」

調停離婚が成立して父親から支払われた慰謝料も、夏冬に出る暁海のささやかなボーナスも、きれいになくなっていました。定期もすべて解約されています。

ぱんだ
ぱんだ
うわぁ……

さすがの暁海も声を荒げずにはいられませんでした。

そうして怒られた母親は車に乗って家を出ていって……宅配便の車にぶつかる事故を起こします。

以下は、暁海の地獄を凝縮したような一文です。

相手方の車両の修理費と品物への賠償は自賠責保険ではまかなえない。母親自身もシートベルトをしていなかったせいで胸骨を強く打って入院になった。最悪なことに、貯金だけでなく、母親はクレジットカードの限度額まで怪しげなガラスの置物やお札に注ぎ込んでいた。

膨れ上がった支払い請求は、もはや暁海の手に負えるものではありません。

さんざん手を尽くして、最後に残されたのは暁海にとって最もつらい手段でした。

「お願いします。お金を貸してください」

深く頭を下げた正面にいるのは櫂です。隣には綺麗な女の人が寄り添っていました。

…………

「いくら必要なんや」

「三百万」

「わかった」

えっと顔を上げた。

「銀行の口座番号と名義書いてメッセージして」

即決すぎて、頼んだわたしのほうがうろたえた。

「困っとるんやろ。心配すんな。すぐ振り込んだる」

…………

スキャンダルが報じられた、数週間後のことです。

暁海は帰りの夜行バスの車中でネットニュースを流し読みしていて、はじめてその事実を知ることになります。

※以下、小説より一部抜粋

…………

――どうして。

全身の血液が逆流していく。

ここしばらく母親のことで頭がいっぱいだった。それ以前に、櫂のことを考えたくなくて情報をシャットアウトしていた。

でも、なぜ、どうしてこのタイミングで知らなければいけないのだろう。

櫂が大変な状況にあることも知らず、大金を無心したという行為に頬を殴られる。知っていたら借金など申し込まなかった。絶対、絶対に、頼らなかった。

我慢しきれずブランケットに顔を埋めて泣いた。

縋らないと思い決め、これだけは守ると決めた自らの矜持をわたしは折った。

それも最悪なタイミングで。

金輪際、櫂に合わせる顔はない。ぎりりと歯ぎしりの音が洩れる。

――借りたお金は少しずつでも返す。

――なにがあろうと、泥水をすすろうと、必ず返す。


30歳冬【櫂】

連載終了から五年。櫂はもう漫画(の原作)を描いていません。

飲食店でアルバイトをしながら、女の家に転がり込み半分ヒモのような生活を送っています。

どれだけ使ってもなくならないと思っていた金は、あっけなく底をついてしまいました。

櫂が派手な生活を送っていたこともありますが、ほとんどは母親に食いつぶされたようなものです。

ともあれ、一文無しになった櫂にとって暁海から毎月振り込まれる借金返済(40,000円)が生活の支えになっているのはなんとも皮肉な話でした。

ぱんだ
ぱんだ
……

今の櫂に希望はありません。ろくに食事もとらず、そのくせ酒ばかり飲んで、自堕落というより自暴自棄な暮らしをおくっています。

壊れかけた櫂の心に浮かぶのは、暁海の顔ばかりでした。

漫画が順調だったころ、暁海の気持ちを思いやれなかったことは後悔してもしきれません。

叶うならもう一度会いたい。通帳に《イノウエアキミ *40,000》の印字が増えていくうちはまだつながりはあるのだと、櫂は自分に言い聞かせていました。

しかし、それももう終わりです。

返済が終わるから……ではありません。

金の無心のためにかけてきた電話で、母親はついでのように言いました。

 

『暁海ちゃん、結婚するんやて』

ぱんだ
ぱんだ
なぬ!?

北原先生

暁海の結婚相手は、北原先生という男性です。

北原先生との出会いは高校時代にまでさかのぼります。いつも白衣を着ている化学の北原先生はちょっと変わった、けれど信頼できる大人でした。

たとえば、こんなことがありました。

若さに身を任せて暁海と櫂が海辺で致しているところを、北原先生に見つかってしまったのです。

後日、北原先生は二人を呼び出すと、説教するでもなく避妊具と準備室の鍵を渡してきました。

曰く、

「僕が叱っても、きみたちはしないではいられないでしょう」

とのこと。

生徒だからと安易に踏み込んでこない距離感。いい先生ではないかもしれないし、正しい大人でもないかもしれないけれど、いい大人ではあるように暁海たちの目には映りました。

あのとき暁海たちが北原先生に助けを求めたのも、そうした信頼があったためです。

ぱんだ
ぱんだ
あのときって?

まだ櫂が島を出る前、暁海の母親が瞳子の家に火をつけようとした事件を覚えているでしょうか。

そのとき的確に指示を出して被害を食い止めてくれたのは、他ならぬ北原先生でした。

そういう意味では、暁海にとって北原先生は恩人であるともいえるでしょう。

高校卒業後も島に残った暁海は、家族ぐるみで北原先生とつきあっていました。

といっても、恋愛感情があったわけではありません。

北原先生は島で唯一のシングルファーザーです。

娘の結ちゃんは暁海が高校三年生の時点で五歳でした。暁海は実の妹のように結ちゃんを可愛がっていて、北原先生との交流が維持されていたのも結ちゃんを介してのことです。

……という前提を踏まえて、本題に切り込んでいきましょう。

結婚を切りだしたのは、北原先生のほうでした。

「井上さん、ほくと結婚しませんか」

実にストレートなプロポーズです。ただ、そこに込められた意味は世間一般のそれとは大きくかけ離れたものでした。

※以下、小説より一部抜粋

…………

――足りない者同士、ぼくと助け合いませんか。

――結婚という形を取れば、ぼくはきみを経済的に助けられますよ。

確かに、わたしの不安や不満の多くは金銭的なものだった。けれど、じゃあわたしは北原先生のなにを助けられるのだろう。わたしとの結婚でどんな良いことを得るのだろう。

――これから先の人生を、ずっとひとりで生きていくことがぼくは怖いです。

――先生には結ちゃんがいるじゃないですか。

――子は子、親は親です。付属物のように考えると悲劇が生まれます。

そのとおりだった。わたしもその悲劇に巻き込まれたひとりだ。

――きみは『ひとりで生きる』ことが怖くはありませんか?

――怖いです。

そこははっきりと答えた。会社と刺繍の二足の草鞋でやっと母親との暮らしを支え、けれどどうしたって親は先に逝ってしまう。そのときわたしはいくつだろう。

女として衰え、人として確たる仕事も貯蓄もない。なんの保証もなく、ひとりで中年から老後の長い時間を過ごす人生がわたしを待っているかもしれない。

健康なうちはまだいいけれど、大きな病気をしたらどうしよう。そんな孤独にわたしは耐えられるだろうか。

考えすぎと言われるだろうか。けれどそれが紛れもないわたしの現実だった。

生きるとは、なんて恐ろしいことだろう。

先が見えない深い闇の中に、あらゆるお化けがひそんでいる。仕事、結婚、出産、老い、金。闘う術のないわたしは目を塞いでしゃがみ込むしかない。

――それなら、ぼくと共に生きていきませんか。

それは愛や恋とは別の、けれどなによりもわたしを救ってくれる言葉だった。

――とりあえずは、互助会に入るくらいの感覚でいいんじゃないでしょうか。

ロマンチックの欠片もないけれど、目的がはっきりしていて、どこかあったかくも聞こえるそれをわたしは気に入った。

会員二名の互助会にわたしと北原先生は入会し、人生を助け合っていくことを約束した。


30歳夏【暁海】

北原先生と互助会を設立したことをきっかけに、暁海の生活は好転していきます。

経済的にも精神的にも、北原先生は暁海の負担を軽くしてくれました。

なかでも特に暁海を自由にしたのは、暁海の母・志穂が松山にあるシェアハウスに入居したことです。

北原先生が探してくれた「日だまりホーム」は志穂と同年代の女性が共同生活をおくる場所です。自らの過去を知らない新たな友人たちに囲まれて、志穂はよく笑うようになりました。

結局、彼女を苦しめていた最大の要因は島の環境だったのかもしれません。

ぱんだ
ぱんだ
そっか

暁海のなかには今でも櫂がいます。

同じように、北原先生にもずっと忘れられない人がいました。結ちゃんの母親です。

北原先生はかつて教え子だった結ちゃんの母親を妊娠させたのだといいます。

それから何があったのか、暁海は知りません。

ただ、北原先生が今でも彼女のことを愛していることだけは伝わってきました。

※以下、小説より一部抜粋

…………

「先日、今治のスーパーで彼女を見かけました」

えっと隣を見ると、見かけたような気がしたんです、と返ってきた。

「ずっと探しているんですよ。ぼくは、彼女を」

思い出す間もないほど彼女は北原先生の中に在る、ということだ。

りんご飴、かき氷、たこ焼き、賑やかな屋台と人混みの中、わたしはひとりぼっちの気分で歩いた。不思議と寂しくはない。隣に同じくひとりぼっちの人がいる。

「こういうことも含めて、ぼくたちは助け合っていきましょう」

ふいに胸を衝かれ、北原先生を見上げた。

「なんですか?」

「いえ、わたし、本当に北原先生と結婚するんだなあと思って」

唐突に実感した。わたしは櫂を、北原先生は結ちゃんの母親を、それぞれ想う相手が別にいる。

愛は尊い、愛は地球を救うという世界の中で、わたしたちの愛はなにひとつ救ってはくれない。どちらかというとそれは呪いに近く、そういうしんどさを知っているわたしたちは、同じ根っこから咲いた別の花のような親しさを互いに感じている。

そんなわたしたちが身を寄せ合って、助け合って生きるのはとても自然な気がしたのだ。

31歳夏【櫂】

長年にわたる不摂生は、櫂の身体を蝕んでいました。

吐血して救急搬送された櫂は胃がんだと診断されます。

ステージⅢ。直ちに命にかかわるものではありません。とはいえ、胃の三分の二を切除しなければなりませんでした。

手術から半年後、櫂はいま尚人のマンションに居候しています。

女の家からはとっくに追いだされていました。倒れたときにもろもろ手配してくれたのはかつての担当編集者で、その縁で尚人にも状況が伝わり、手術費・入院費から住むところまで面倒を見てもらっている次第です。

事件から六年。尚人の心の傷はいまだに癒えていません。彼は貯金を少しずつ食いつぶしながら、ずっと引きこもっていました。

ほっそりとしておしゃれだった尚人はもういない。大量の抗うつ剤の副作用と暴食で二十キロも太り、もったりした身体を包んでいるのは着古したスウェットの上下だ。

お互い病人ではあるものの、櫂は尚人との再会を喜びました。

再び漫画に挑戦するなら相棒は尚人しかありえないと、ずっと心に決めていました。

「なあ尚人、もっかい漫画やろうや」

医者から止められている酒を酌み交わしながら、櫂は酔いに任せて夢を語ります。

もう一度、ふたりで。

最初は難色を示していた尚人も、アルコールが回るにつれて乗り気になってきます。

…………

「ほな汚いおっさんが美女とか猫に転生する話にしよか」

「流行ものを並べました感が強すぎる」

尚人が考えはじめ、やっと考えてくれるのかと泣きそうになった。俺はもう一度おまえと組みたい。他の誰かとはいやだ。嬉しい。本当に嬉しい。

「尚人、もっかいやったろう」

「できるかな」

「できる。俺らやったら」

尚人は細くなった目をさらに細め、俺のグラスにワインを注いだ。俺はあっという間に飲み干した。

さっきからずっと腹が痛い。だんだんひどくなってくる。けれど今だけはどうでもよくて、返杯に次ぐ返杯で、お互いにろれつも怪しくなってきた。

「すごいなあ。今、夢みたいに楽しい。櫂、ありがとう」

尚人の笑顔と言葉を子守歌みたいに、俺は久しぶりに希望に満ちた眠りに落ちた。

…………

目を覚ました櫂が目にしたのは、浴槽に沈んでいる尚人の姿でした。

――尚人、俺の話は重かったか?

――せやし、おまえは落っこったんか?

部屋には遺書というには簡素すぎるメモが残されていました。

…………

『櫂、また一緒にやろうと言ってくれて嬉しかった。

楽しかった。満足した。もういい。

口座に残ってる金は半分やる。残りは家族へ。

櫂が創る物語をもう一度読みたい』


32歳春【暁海】

暁海は刺繍作家として成功しつつありました。

東京の雑誌にインタビュー記事が掲載されたことをきっかけに注文も増え、島の若い子たちから憧れられるようになりました。

櫂が胃がんで(再)入院したと知ったのは、そうやってようやく人生の歯車が順調に回り始めた頃のことです。

櫂の命の灯が消えようとしている。暁海は青ざめました。

今すぐ櫂の元へ行きたい。それが暁海の心からの気持ちでした。けれどそれでは北原先生を裏切ることになってしまいます。さんざんよくしてもらった恩を、仇で返すことになってしまいます。

いったい、どうすれば……。

よほど思い詰めた顔をしていたのでしょう。北原先生はすぐに暁海の異変に気づきました。

「櫂くんになにかありましたか」

事情を聞き出した先生が飛行機のチケットを手配するまで、五分とかかりませんでした。

あまりに即断即決すぎて、暁海は呆然としてしまいます。

「……どうしてですか。どうしてそこまで」

北原先生にもわかっていたはずです。暁海がただお見舞いに行くのではないと。もう島には戻ってこないかもしれないと。それを承知でなぜ?

「助け合って生きていこうと、ぼくたちは約束したじゃないですか」

北原先生はかつて愛のために世間一般が定義する「正しさ」を投げ捨てました。

言いかえれば、誰かが決めた正しさより、自分の心のままに生きることを選びました。

そんな先生だからこそ、言えることがあります。

「正しさなど誰にもわからないんです。だから、きみももう捨ててしまいなさい」

※以下、小説より一部抜粋

…………

「わたしは行きます」

北原先生はうなずいた。櫂とはなにもかもちがう。北原先生と恋をしたことはなかった。けれどわたしとこの人はつながっている。

嵐の海の中で、遥か遠く、自分と同じく一羽で飛んでいる鳥が見えたような心強さ。ひとりでも、けっして孤独ではないのだと。

スーツケースを車のトランクに積んでいると結ちゃんが帰ってきた。

「暁海さん、どっか行くの?」

どう答えようか考えていると、

「暁海さんは島を出ていきます」

北原先生が答え、結ちゃんは瞬きをした。

「大事な人に会いにいくんです」

結ちゃんはぽかんとして、あ、とつぶやいた。

「櫂くん?」

「ごめんなさい」

「いいんじゃないかな」

今度はわたしが瞬きをした。

「お父さんが結婚してくれてほっとしたけど、暁海さんとお父さん、全然夫婦っぽくなかったもんね。いいコンビだとは思うけど、櫂くんとつきあってたときの暁海さんのほうが綺麗だったよ。つきあうなら、自分を綺麗にしてくれる男がいいよ」

あっけらかんと言われ、わたしは脱力した。北原先生はやや傷ついた顔をしていて、わたしと結ちゃんは小さく笑い合った。

さようならは言わなかった。

「さあ、行きましょうか」

最終の飛行機に間に合うよう、北原先生が車を走らせる。

(中略)

島のみんなにはわかってもらえないだろう。

母親はまた泣くかもしれない。

それでも、わたしは、明日死ぬかもしれない男に会いにいきたい。

幸せになれなくてもいいのだ。

ああ、ちがう。これがわたしの選んだ幸せなのだ。

わたしは愛する男のために人生を誤りたい。

わたしはきっと愚かなのだろう。

なのにこの清々しさはなんだろう。

最初からこうなることが決まっていたかのような、この一切の迷いのなさは。


32歳春【櫂】

なんの前触れもなく病室にあらわれた暁海に、櫂はこれ以上ないほど驚きました。

ああ、いや、混乱したといった方が正確でしょうか。

暁海はここにいて当たり前なのだというように自然に振舞っていました。泣くでも責めるでもありません。ちょっとした病気にかかった恋人のお見舞いにきただけ、といった雰囲気です。

別れてからというもの、櫂は何度も何度も暁海に復縁を申し込んでは、無視され続けてきました。だから、余計に何が起こっているのか理解できません。

暁海はそんな櫂にはお構いなしでどんどん話を進めていきます。

※以下、小説より一部抜粋

…………

「高円寺の3DK、純情商店街の近く。どう?」

「便利なとこやし、ええんやない?」

「よかった。じゃあここにするね」

「誰が住むねや」

「わたし」

「え?」

「と、櫂」

暁海は当たり前のように答えた。

「最初は2DKにしようかと思ったんだけど、櫂がゆっくりできる部屋とわたしが仕事する部屋がいるかなと思って3DKにした。あ、退院の日が決まったら教えてね」

暁海は淡々と話し続ける。まるで嫁か長年つきあっている恋人のようだ。

言っていることはわかる。なのに理解が追いつかない。

馬鹿みたいに粥の椀を持ったままなのに気づき、とりあえずトレイに戻した。そうして背筋を伸ばして暁海と向き合った。

「おまえ、なに言うてんの」

「待たせてごめんね」

「いや、おまえ、なに――」

「一緒に暮らすの」

柔らかく、きっぱりと言い切られた。

「わたし、決めたの」

どうしてここにきたのか。誰に聞いたのか。どういうつもりなのか。北原先生はどうしたのか。これからどうするつもりなのか。それらすべて、どうでもいいことのように、もしくはこれだけが大事なことだというように暁海は笑っている。

俺の知っている暁海なのに、目の前にいるのは俺の知らない暁海で、でも俺はやはりこの暁海をどこかで見たような気がする。

静かで、穏やかで、明るく、底には力強いものがうねっていることが伝わってくる、抗いようもなく、身を委ねるこの感じを。

(中略)

「おまえ、瀬戸内の海みたいやわ」

「なにそれ」

窓から差し込む光を背に暁海は笑った。


結末

暁海たちの新生活は穏やかなものでした。

仕事で徹夜したり、櫂の母親から金を無心されたり、島で悪評が流れたり、暁海にとってそれらはどうでもいいことです。隣に櫂がいる、それだけが大事なことでした。

ぱんだ
ぱんだ
うんうん

……櫂がどんどん痩せはじめたのは、梅雨の半ばあたりからでした。

身体が若いと、がんの進行も早くなってしまいます。もはや薬では追いつきません。

七月。治療を一旦休んで緩和ケアに切り替えることになりました。

一旦と言いながら、休めば一気に進行することはわかっていた。ホスピスに転院する話も出たけれど、櫂は家に帰りたいと言った、わたしは賛成した。

八月。櫂の希望で、ふたりは今治の花火大会を観に行きます。

櫂の身体のことを思えば無茶な計画でした。東京を発つ前、医者からは万が一の覚悟をしておいてくださいと言われました。

それでも、

「俺は、暁海と、花火が、観たい」

愛媛では北原先生が迎えてくれてました。花火大会当日には大学生になった結ちゃんと、結ちゃんの彼氏、そして驚くべきことに北原先生の想い人(結ちゃんの母親)までもが同行することになって、

「なんやもう、むちゃくちゃな面子やな」

櫂と暁海は小さく笑うのでした。

※以下、小説より一部抜粋

…………

「あ、金星」

結ちゃんの声が聞こえた。西の空の低い位置に小さく光る星がある。

「高校生のころ、浜で一緒に見たね」

「東京でも見た。見えんときのほうが多かったけど」

「わたしも」

ぽつぽつと話をしている間にも、太陽の朱色を押しやって澄んだ青が増してゆく。水平線を縁取るいくつもの島影も、空も、海も、深い群青に沈んでいく。

「寒うなってきた」

櫂が言い、カバンから厚手のブランケットを取り出して一緒にくるまった。

八月の夜は蒸し暑く、わたしの額からは汗が流れ落ちる。なのにつないだ櫂の手は少しずつ熱を失ってゆく。

まだ、と心の中でつぶやいた。

まだ、まだ、まだ花火は上がっていない。

もう誰の声も聞こえない。みんな黙り込んでいる。左隣にいる櫂の呼吸が波音にさらわれそうに頼りなくなっていく。わたしはもう叫び出しそうだ。

早く、早く、上がって。

まだ、まだ、いかないで。

あまりに強く祈りすぎて目の奥が痛くなってきたとき、遠くで微かに音が弾けた。

反射的に見上げた対岸の夜空に光が瞬いた。

思わず櫂の手を強くにぎりしめた。

応えるように、ほんの少し櫂がにぎり返してくる。

揺れながら地上から放たれて、ふいに姿を消したあと、遥か上空で花開く。次々と打ち上がり、途切れ目なく重なり合う光と光。

瞬きをするほんのわずかな間、とてつもない熱量で闇をなぎ払い、力尽き、尾を引いて海へと落ちていく幾千の星たち。

綺麗だね。

櫂の手をにぎりしめる。

櫂はもうにぎり返してこない。

煌めきながら散っていく、あの星たちの中にいるのだろう。


エピローグ

暁海は島に戻って、再び北原先生と暮らしています。

さもおかしな家庭だと、島の人々の目には映っていることでしょう。

新婚で出奔した嫁がまた戻ってきたり、そうかと思えば今度は夫が堂々と浮気していたり。

ぱんだ
ぱんだ
浮気?

島の人の認識では、という話です。暁海が櫂を愛していたように、北原先生は結ちゃんの母親のことをずっと愛していました。

そうしてついに再会を果たした想い人……明日見菜々さんのもとに通っているのですから、実際には浮気という表現は当てはまらないでしょう。

北原先生と菜々の仲がどうなっているのか、暁海は知りません。

けれど、北原先生がどんな答えを出そうとそのままを受け入れようと決めています。

北原先生がそうしてくれたように。

ぱんだ
ぱんだ
みんな幸せになって……

東京の出版社から書籍サイズの厚い封筒が届いたのは、夏のある日のことでした。

夕暮れどき、暁海は砂浜の護岸ブロックにもたれながら、封を切ります。

中に入っていたのは小説でした。

 

『汝、星のごとく 青埜櫂』

※以下、小説より一部抜粋

…………

白く抜かれたタイトルと著者名。

たった十文字に呼吸ごとさらわれた。

どこともしれない果てから、うねりながら大きな波が迫ってくる。音もなく呑み込まれ、押し流されていく。この海の遥か彼方にある小さな島へ。

そこには愛しい人影がある。わたしは手を伸ばす。けれど届く前に波は引き、ふたたびこちら側へと連れ戻されていく。

目を開けると、わたしは見慣れた砂浜に腰を下ろしていた。

静かな雨のように涙が頬を濡らしている。

なにも悲しくはなかった。

わたしは、その気になれば、いつでも、どこでも、軽やかに、あちら側へと行けると知った。

だから急がなくていい。けっして揺らがない大きな理(ことわり)の中にわたしたちは在り、それぞれの懐かしい人影と確かな約束を交わしている。

群青と薔薇色に染まった空に、いつの間にか光る星がひとつ瞬いていた。

同じ星がわたしの手の中にもある。

立てた膝に本を置き、わたしはゆっくりと最初のページをめくった。

<おわり>

櫂は暁海との思い出を小説にしていました。(櫂の小説の)タイトルの「汝」は暁海のことを指しているのでしょう。


感想

本当に美しい物語でした。

瀬戸内の穏やかな海。群上の夜空に光る夕星。花火に照らされる櫂の横顔。目を閉じれば暁海の網膜に焼きついたそれらの光景が浮かんでくるようです。

悲しい物語だった、とは思いません。

確かに櫂と暁海は愛しあっていながらもすれ違ってしまいました。年月を重ねるにつれて離れていく二人の人生をもどかしく感じましたし、苦しく思いました。

けれど、最後に暁海は島を飛び出していきました。

その道中、彼女は「必要な遠回りだったのかもしれない(意訳)」と述懐しています。いつも隣にいることが、長い時間をともに過ごすことだけが、愛の正しいかたちではないのでしょう。

東京で櫂と一緒に暮らした数か月。そして島に戻って観た花火大会。かけがえのない思い出を抱えて、暁海はこれからも生きていきます。

それもきっと不幸なことではありません。

ラストシーン、暁海はすぐそばに櫂の存在を感じています。その気になればそちら側にいつでもいけるのだと、だから安心して生きていけるのだと、確信しています。

だから、暁海はきっと大丈夫です。

島の人たちが、あるいはわたしたちが、彼女のことを可哀想だと思おうと、不幸だと思おうと、関係ありません。彼女の幸せは彼女が決めることです。

しがらみにとらわれず行動した暁海のことを尊敬するとともに、心のまま愛に生きた彼女のことを羨ましく思いました。

タイトルの意味

『汝、星のごとく』いったいどういうタイトルなのだろうと、考えながら読みました。

作中では櫂が執筆した小説のタイトルとして登場していますが、それはそれで「じゃあ、なんでそのタイトルなの?」と同じ疑問にたどりつきます。

くだけた言い方にすると「あなたは星のよう」となる題ですが、ここでいうあなたとは

  • 櫂からみた暁海
  • 暁海からみた櫂

そのどちらにも当てはまるような気がします。

つまり、お互いがお互いを星のように思っていた、ということです。

では、星とはなんなのでしょうか?

作中ではたびたび夕星を見上げるシーンが描かれていました。高校生のころ浜辺で一緒に見上げた夕星は二人をつなぐ思い出の星です。

美しい光。特別な存在。手を伸ばしても届かない愛。ふたりが夕星になにを観ていたのかは、本当にいろいろと解釈できると思います。

そのなかであえて「これだ」というのをひとつ決めるなら、

『あなたを愛している』

でしょうか。いや、『汝、星のごとく』の訳としてはかなり捻じ曲げちゃってるし、漱石の二番煎じみたいになっちゃってる自覚もあるんですが、結局はシンプルが一番じゃないかな、と。

わたしの感覚ですが、星には「希望」のイメージがあります。つらい人生のなか、ふたりはお互いの存在を星(=希望)として生き抜いたのではないでしょうか。

だとしたら、それはやっぱりアイラブユーだと思うのです。

あなたなら『汝、星のごとく』をどのように解釈(訳)しますか? コメントで教えてくれるとうれしいです。

ぱんだ
ぱんだ
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まとめ

凪良ゆうさんの文章を読むと、いつも「文芸」という言葉が頭の隅に浮かんできます。

ことばの芸術。文字による芸術。

気持ちをあらわす言葉の選び方が本当に丁寧で、すっと心に沁み込んでくるようでした。

もしあなたがまだ(幸運にも)この作品を読んでいないのなら、今すぐ書店に出かけるか、Amazonで注文してください。この一冊さえ読んでおけば「今年はいい小説を読んだな」と年末に振り返ることができます。お得です。

……というのは三割くらい冗談だとしても、あなたの心にグサリと突き刺さる文章のひとつやふたつを作中に見出せるであろうことは保証します。

わたしの場合、それはたとえばこんな文章でした。

自分の手にひとつだけある小さな世界。みんなそれを守りたくて、誰にも侵されたくなくて、それゆえ他を理解することが難しい。だからこそ寂しさは深まり、だからこそ他を羨み、だからこそ他を求めてしまう。永遠の堂々巡り。一巡りごとに距離が縮まることを願いながら、交わることで傷つき、疲れ、同じ仲間で固まっていたいと思う。

紹介しておいてなんですが、たぶんこの抜粋だけ読んでもピンとこないでしょう。

ネタバレで紹介した場面にも言えることですが、前後の文脈、ストーリーの積み重ねを踏まえたうえでこの文章に出会うから心動かされるのです。

つまりなにが言いたいのかというと、この素晴らしい作品を読まずにスルーするのはあまりにももったいない!ということです。

もし少しでも興味を持っていただけたのなら、パンダに騙されたと思って読んでみてください。本屋大賞は裏切りません。

今回は凪良ゆう『汝、星のごとく』のあらすじネタバレ解説(と感想)をお届けしました。

ぱんだ
ぱんだ
またね!

 



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POSTED COMMENT

  1. チビっく より:

    「汝、星のごとく」のネタバレ解説ありがとうございます。
    途中から嫌な予感がして読めなくなった作品です。

    凪良さん作品はBL界で活躍されていた頃から読んでいて、私の中では「ブラック凪良バージョン」のものは読了してはいけない作品に位置づけています。

    この小説は読みたいけれど読めない類の作品だ…と思いました。
    だから、こちらであらすじをなぞる事ができて良かったです。
    続きの頁は繰らないでおきます。

    本のタイトルは「貴女は、いつも静かにそこにある心の拠り所であり希望であり癒しである」だと私は感じました。

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