石田衣良さんといえば恋愛小説のベテランですが、「眠れぬ真珠」で描かれるのは「17歳年の離れた男女のラブストーリー」
45歳の版画家と28歳の訳アリ映画青年…真っすぐでキラキラしている若い恋とはまた違った『大人の恋』の物語。
年上の女性と若い男の恋の結末といえば、悲しい別れになるようなイメージもありますが…果たしてラストはどうなるのか!?
というわけで今回は小説「眠れぬ真珠」のあらすじネタバレをお届けします!
あらすじネタバレ
小説「眠れぬ真珠」は全14章で構成されています。
今回は章ごとに区切ってあらすじを進めていきたいと思います。
第1章
季節は冬。
12月の逗子に内田咲世子はいた。
咲世子はプロの版画家として活動している芸術家だ。
年齢は45歳。
両親は他界しており、今はアトリエ兼自宅で黙々と作品をつくっている。
その夜、咲世子は行きつけのリキッドカフェにいた。
アイデアを出す時はいつも外出するようにしている。
ふと良いアイデアが浮かんだと思ったその時、いつもの持病が咲世子を襲った。
ホット・フラッシュ。
更年期の女性にはよく見られる症状だが、咲世子の場合は貧血と幻覚がセットになっており、症状は重い。
半個室のようになっている一室で、咲世子はそのまま意識を失った。
目を覚ます。場所はまだリキッドカフェだが、先ほどまでいた一室ではない。
新しく店に入った徳永という店員が介抱してくれた、ということらしい。
徳永素樹、28歳。
どこか困ったような顔をしている青年。
素樹は趣味で映像を撮っていると話し、版画家である咲世子のドキュメンタリーを撮らせてほしいと言ってきた。
「だめでしょうか」
「わかった、いいよ」
率直に言って、咲世子は早くも素樹のことを気に入り始めていた。
角ばっていて、しわも多い咲世子の手を、素樹は「きれいですね」と褒めてくれた。
それに素樹と一緒にいると仕事のアイデアが浮かんできそうな気がする。
それにしても「トクナガモトキ」とは、どこかで聞いたことのあるような名前だ…。
第2章
その日、咲世子は東京の一流ホテルにいた。
三宅卓治から呼び出されたのだ。
卓治は画商であり、咲世子も世話になっているギャラリー・マチエの雇われ支配人でもある。
3歳上の既婚者である卓治との関係が始まったのは3年ほど前のこと。
以来、咲世子と卓治はこうして定期的にホテルの一室で過ごすようになった。
卓治はいつも獣のように激しく攻撃的に咲世子を抱く。
咲世子もまた欲望のままに男を受け入れる。
お互いの求めるものを貪り合う、大人同士の関係だった。
ホテルに泊まった翌日、咲世子はギャラリー・マチエのオーナーである中原町枝の家を訪ねた。
町枝は若い頃から咲世子の面倒を見てくれている。
頼れる先輩のような、年の離れた友人のような関係だ。
「咲世ちゃんは真珠の女だね」
「真珠の女?」
「そう。女はね、二種類に分かれるの。ダイヤモンドの女とパールの女。光を外側に放つタイプと内側に引きこむタイプ。幸せになるのは、男たちの誰にでも価値がわかるゴージャスなダイヤモンドの女ね。真珠のよしあしがわかる男なんて、めったにいないから。咲世ちゃん、今いいなと思っている人がいるでしょう」
「そんな人じゃないの。私よりも17も年下なんだから。むこうはこちらを女だなんて思ってない」
「ねえ、いい。咲世ちゃんは十分に若い。私の年になったら、きっと後悔するよ。あなたは今日を大事になさい。今日は二度とないし、明日よりは必ず一日若いんだから。恋は心の張りでするものよ」
町枝の言葉に影響されたのだろうか。
咲世子は戻ってすぐ素樹のいるリキッドカフェへと足を運んだ。
店内に入ると、すぐに素樹のことが目に入る。
素樹の前の席には、若く美しい女が座っていた。
第3章
素樹の前で笑っている女の名前は椎名ノア。
最近テレビで見かける女優だ。
誰もが虜になってしまう透明な美しさと若さ。
咲世子は密かに敗北感を覚えた。
…しかし、なぜ椎名ノアがここに?
おしゃべりな大学生の店員・西崎から事情を聞いた。
素樹は自主製作の映画でいくつかの賞をとっている映画人であり、ノアは素樹の作品の看板女優。
ノアが出演するCMの演出のほとんどは素樹が演出したものらしい。
そんな有名人である素樹が、なぜこんな場所で店員をしているのか…きっと何か事情があるのだろう。
話の流れで、椎名ノアと同席することに。
ノアは真っすぐ咲世子の目を見つめながら、素樹とのことを語った。
ノアは素樹の元恋人らしい。ノアの方はまだ素樹のことが好きだが、素樹の態度はどっちつかず。
友達以上恋人未満。
ストレートに素樹への好意を語るノアを見ながら、咲世子は静かに素樹への気持ちを諦めた。
とても太刀打ちできない。
…だが、咲世子が自らの年齢と容姿について少々自虐的に語ると、決まって素樹は「咲世子さんはきれいです」と怒ったように返すのだった。
後日、ドキュメンタリー撮影のため、素樹が咲世子の家を訪れた。
嬉しさからざわつきそうになる心の中で戒める。
(別に付きあいたいと願っているわけじゃない)
優れたインタビュアーである素樹の質問に答えていく時間は、咲世子にとって楽しいものだった。
第4章
インタビューのロケーションを変えるため、2人は外出することに。
咲世子は折に触れて自分の年齢について気にしたが、素樹はむしろ咲世子のような年のとり方こそ美しいのだという。
咲世子は芸術と人生の先輩として、素樹に東京に帰ってきちんとした映像の仕事をした方がいいのではないかと言ってみた。
すると…
「咲世子さんの忠告には感謝します。いつかはぼくも東京に帰るでしょう。でも、この瞬間に本当に撮りたいのは、咲世子さん、あなたなんです。ほくはこの数カ月ずっと逃げるためにカメラを回していた。でも、今は違う。純粋に、好きな人を撮っているんです。だから、これから何週間か、ぼくに咲世子さんを撮らせてください。こうやってリハビリしながら、いつかはちゃんと映画の仕事に戻ります」
若い男の言葉は危険な刃だった。気を抜くと引き寄せられそうになってしまう。
咲世子は自制しつつも、ここしばらく忘れていた幸せを感じていた。
その日の終わりに帰っていく素樹を名残惜しく思い、引き止めそうになってしまうくらいに…。
だが、幸せはいつも長くは続かない。
一通の手紙が、咲世子の幸せな気分を一気にぶち壊した。
直接家に届けられた手紙の差出人の名前は、福崎亜由美。
卓治のもう一人の若い愛人。
亜由美は咲世子とは違い、卓治と一緒になりたがっていた。
そのためしだいに卓治のストーカーのようになっていき、しまいには咲世子にまで魔の手が届き始めた、ということらしい。
手紙の内容は目をおおいたくなるような酷い文章だった。
「メス犬」「ババア」
悪意に満ちた言葉が咲世子の心をえぐっている。
手紙はつい先ほど家に届けられたようだ。
どこから見ていたのか、今日の素樹とのことまで悪しざまに書かれてある。
手紙には「素樹に咲世子の本性を教えておいてやる」とも書かれていた。
(ああ、もうだめだ…)
立っているだけの気力も失い、咲世子はその場に崩れ落ちる。
きっと亜由美はリキッドカフェに行ったのだ。
素樹は亜由美から何を聞かされ、どう思うだろう?
先ほどまでの幸福な気分は、すっかり恐怖と絶望によって塗り替えられてしまっていた。
第5章
年が明けた。
あれから卓治には別れを告げたし、素樹にはノアがいる。
いつも通りの孤独。
咲世子は仕事に没頭することで寂しさや不安を紛らわせた。
素樹から電話が入り、リキッドカフェへと向かう。
素樹はストーカー(亜由美)からの忠告など気にしていないようだった。
「だから、撮影を続けさせてほしい」という素樹の言葉は、咲世子に涙ぐむほどの喜びを運んできた。
ちょうど、そんな時だった。
「咲世子」
振り向いた先にいたのは卓治。
卓治は「俺には咲世子しかいない」と切り出し、「一緒に暮らそう」と真剣な目でいった。
亜由美のストーカー行為のせいで卓治の家庭はボロボロ。
必然的に残ったのは咲世子だけというわけだ。
いつもの伊達男ぶりを感じさせる余裕が、今の卓治にはない。
卓治は卓治で、相当追い詰められているのだろう。
少し前の咲世子なら、その言葉を嬉しく思ったのかもしれない。
だが、今の咲世子の心は、もう卓治にはなかった。
「長い間、ありがとう。卓治さん」
別れの言葉にも、卓治は諦めない。
ついに卓治は普段なら絶対に見せない涙までこぼして咲世子に復縁を懇願し始めた。
「若い男との関係は必ず終わる。だが、俺なら同じ時を歩める。咲世子、お願いだ」と。
それに対して、咲世子は素直な言葉で卓治に語りかけた。
「卓治さん、あなたは頭のいい人だから、きっとあなたのいうことは全部正しいんだろうと思う。あの人はただ珍しくて、おもしろいから、私に関心を示しているだけなんでしょう。つきあうことになっても、長くは続かない。でも、誰かを好きになるのって、一番の理解者だからとか、正しいからじゃないよね。よくわからないけど、一緒に生きていたい。その人の一部になりたい。そういうことよね。卓治さんが彼と話しているのを見てはっきりわかった。わたしが、今この時を一緒に生きたいのは、彼なんだって」
「後悔するぞ。おまえたちは、幸せな恋では終わらない」
「うん、そのときはたくさん後悔する」
「もし全部だめになったら、もう一度俺に連絡をくれ。二人でやり直そう」
ありがちな約束を口にして、卓治は去っていった。
駐車場から、リキッドカフェの店内へ戻る。
素樹からも話があると言われていたのだ。
「今夜、咲世子さんの家に行ってもいいですか」
若い男の胸に宿ったのは、対抗心だろうか。
その言葉を聞いて、少しの間、心臓が止まった。
そして、遅れて喜びがやってくる。
「待ってる」
咲世子が答えると、不安そうにしていた素樹の顔が輝く。
「ありがとうございます。ぼくは咲世子さんを大切にします」
咲世子は先に家へと戻り、身支度を整えた。
気がつけば11時半。
玄関でチャイムが鳴った。
第6章
ドアを開けると好きな男が立っている。
これほどの喜びがあるだろうか。
シャンパンで乾杯しながら、咲世子は久しく感じていなかった幸福に包まれていた。
ずっと待ち望んでいた激しいキスの後、ベッドに移動する。
こうなると、もうしとやかな大人の女性ではいられない。
酒のせいか、咲世子はいつもより大胆に素樹を誘い、本能の赴くままに求めあった。
素樹は咲世子のことを優しく丁寧に扱った。
卓治のやり方とは全く違う。
深い満足感と幸福感。
行為の後、素樹は急に真剣な顔になって言った。
「なぜ、ぼくが映画の世界から逃げ出したか。咲世子さんには、ほんとうの理由をわかっていてもらいたい」
咲世子はベッドの上でうっすらと汗をかきながら、いとしい男の次の言葉を待った。
第7章
椎名清太郎。
ノアの兄で、素樹と組んで映画を撮っていた親友。
素樹・清太郎・ノアの3人は中学生の頃からいつも一緒に過ごしてきた。
やがて、ノアは素樹の恋人になったが、13歳の冬に妊娠。
清太郎の助けもあり、なんとか周囲にはバレることなく中絶することができた。
やがて3人は大人になり、素樹は清太郎やノアと一緒に映像の世界へと飛び込んだ。
デビュー作となる長編映画の制作が決まり、素樹(監督)も清太郎(プロデューサー)も大いに張り切っていた。
だが、素樹が求める演出を実現するための金を集めようとして、清太郎は悪い金に手を出してしまった。
結果、本末転倒なことに素樹たちは裏の人間から金を狙われることとなり、最終的に素樹は清太郎の命を救うため犯罪組織に多額の金を払うことになってしまった。
その影響で、制作委員会は解散。
業界内には素樹に関する悪い噂が流れるようになり、清太郎は後悔から姿を消した。
そうして、素樹は逗子へと流れてきたのだ。
素樹の過去を聞き終わったとき、咲世子は決心した。
自分は素樹のリハビリのためのパートナーになろう。華々しい世界へと返り咲き、やがてはノアと幸せになる…。それまでの相手になろう、と。
一夜明けて、2人は咲世子の作品が展示してある美術館へと足を運んだ。
期間限定のパートナーになろうと決めたところで、咲世子の胸のときめきは何も変わらない。
素樹と一緒にいられる幸せを感じる咲世子だったが…やはり幸せは長続きしない。
美術館の前に大量の紙切れ。
そこに書かれてあるのは例のストーカーによる誹謗中傷文。
さらに駐車場に戻ってみると、咲世子の愛車にべっとりとペンキがぶちまけられていた。
怒りと屈辱で震える。
卓治とはとっくの昔に別れたのに、ストーカーはなぜこうも執拗に攻撃を続けてくるのだろうか。
第8章
それから数日、ひどく落ち込んだ咲世子の隣に、素樹はただ優しく寄り添ってくれた。
結局のところ年齢が問題ではないのだ、と咲世子は思う。
できる人にはできるし、そうでない人にはできないというだけの話だ。
6日後、2人は再びベッドをともにした。
単純なもので、それだけで咲世子は幸福でいっぱいになる。
恋のおかげで、仕事も順調に進んでいく。
すっかり調子を取り戻した咲世子に、1本の電話が入った。
椎名ノアからの呼び出し。
咲世子はリキッドカフェへと向かった。
「しばらくのあいだ、素樹は咲世子さんに預けます。彼の傷を治して、もう一度真剣な仕事にむかえるように手助けしてあげて。わたしは忙しすぎて彼のことをフォローできないし、今彼が求めているのは、寂しいけどわたしではないみたい」
咲世子が想像していたよりも、ノアはしたたかなな女だった。
素樹が咲世子と寝たと知りながら、それを呑み込み、こうして復帰の手助けを頼んでいる。
その裏には、絶対的な素樹への信頼と愛情が垣間見える。
不思議なことに、咲世子は怒りや悔しさという感情を覚えなかった。
それはきっとノアの魅力のせいだ。
敵ではなく、同じ男を愛した同志のように感じられる。
「素樹さんのこと、わかりました。彼が元のコースにきちんと戻れるように、わたしもできることはするわ。彼はあなたと一緒の方が、きっといい。それはわたしもわかっている」
そう、最後には素樹は自分の前から去っていく。そうあるべきなのだ。
「そういえば、兄の清太郎からこの前電話があったんです。素樹の映画のための金が集まった。もう一度、やるぞって」
素樹のリハビリ期間はそう長くはないのかもしれない。
今のうちにできる限り、彼を心と身体に刻んでおこう。
咲世子はそう決心した。
第9章 & 第10章
インタビュー撮影の日々が続く。
それは芸術家としての咲世子にとっても得るものの多い、素晴らしい時間だった。
その日の撮影を終え、甘い予感とともに素樹の部屋に寄り添いながら帰る。
すると、ドアの前には椎名清太郎がいた。
「デビュー作をもう一度つくろう。東京に帰ってこい」
予想通りの言葉。素樹は迷いを見せている。
だが、清太郎の言う通り、素樹の才能はやはり表舞台で輝くべきものだ。
人生の秋、最後の恋の終わりは近いのかもしれない、と咲世子は改めて思った。
そんな折、今度は例のストーカーからアプローチがあった。
家に直接届けられた手紙の文面から漂う雰囲気は、いつもとはずいぶん違う印象だ。
弱っているような、切迫しているような…。
咲世子は思い切って手紙に書かれていた亜由美の番号に電話をかける。
どこか危うい脆さを感じさせる声色。
咲世子は亜由美と会って話をしてみることにした。
第11章
話し合いの場所はリキッドカフェ。
卓治から避けられ続けていること、自分には卓治しかいないこと、卓治が一番心を寄せていた咲世子が憎かったこと。
亜由美は自分の半生や価値観について語りながら、そのようなことを口にした。
意外だったことは、亜由美が咲世子のイメージしていた人物像とは全く違っていたことだ。
あんなに恐ろしいストーカー行為をするようにはとても思えないほど華奢で可愛い。
亜由美は咲世子への嫌がらせについて反省していると謝罪し、話し合いはあっけないほど平穏な雰囲気のまま終了した。
咲世子は近くのホテルに宿をとっているという亜由美を送っていくことにした。
…穏やかな雰囲気の中、ホテルの駐車場に到着。
「じゃあ、さようなら」
咲世子が別れを告げたその時だった。
亜由美は突然助手席から飛び移るように咲世子へと迫り、首に手をかけた。
細い指先が意外な力で首を締め上げてくる。
「なにを…するの…」
亜由美は車の中で叫んだ。
「あんたが一番憎かった。さあ、卓治さんの居場所を吐きなさい。このメス犬」
先ほどまでとはまるで別人である。
執拗なストーカーの顔と、純粋に愛を求める可愛い女の顔、いったいどちらが本当の亜由美の顔なのだろうか…。
ほんやりと考えながら、咲世子は遠くなる意識を感じていた。
第12章
…男の叫び声が聞こえる。
「大丈夫ですか、咲世子さん」
どこからか現れた素樹が亜由美を突き飛ばし、咲世子を助け出す。
リキッドカフェで2人の会話を聞いていた素樹が、心配になって後から追ってきたのだった。
「ごめんなさい、咲世子さん」
素樹によって車の外に追い出された亜由美は、そう言い残して去っていった。
きっと今の彼女に必要なのは卓治ではなく医者だ。
自分でもどうしようもないくらいに、亜由美は心を壊していたのだろう。
亜由美から逃げるようにホテルを去った。
素樹から「話がある」と言われたとき、すぐに別れの時が来たのだ直感した。
話の本題は、やはり素樹の現役復帰について。
「映画の仕事に戻ろうか、迷っているんです。いったん撮影が始まってしまえば、何カ月も会えなくなるでしょう」
それは違う、と咲世子は思った。それだけで終わるはずがない。
上り坂の素樹と下り坂の咲世子は、ちょうど中間点で出会ったのだ。
すれ違ってしまえば、もう交わることはない。
「シナリオの見直しがあと1,2週間。それが終わったら、ちゃんと考えます」
「わかった」
その期間が、きっと私たちの恋の最後の花になるだろう。
数日後、咲世子の家に椎名兄妹が訪ねてきた。
どうやら素樹が言っていたよりはるかにスケジュールが差し迫っているらしい。
兄と妹は順番に口を開いた。
「あなたにはつらい仕事かもしれないけど、あいつの背中を押してやってくれないだろうか。今のタイミングを逃すと、何年あいつの初監督作品が先に延びるかわからない。お願いします、咲世子さん」
「わたしからも、お願い。咲世子さんはいつか約束してくれましたよね。素樹さんを返してくれるって。あの人がちゃんと自分の足で歩けるようになったら、元の世界に送り出してくれるって」
ノアの言葉は、半ば悲鳴のようだった。
素樹がいるべき場所はここではない。それは痛いほどわかっている。
彼の未来のために、自分が身を引くときがやってきたのだ。
「わかりました。素樹さんに仕事に戻るように話してみます」
兄妹の帰り際、咲世子はそっとノアに言った。
「…素樹さんをよろしくね」
素樹を立派に送り返すんだ。
唇を噛んで、心の中で繰り返し、咲世子は溢れる涙をこらえていた。
第13章
短いけれど、とても幸福な時間だった。
そして今、ついに幸福を捨てる時が来たのだ。
素樹をもとの世界に帰すことが、わたしの役割…。
久々に卓治から電話が入った。
ひどく憔悴した声で、卓治は亜由美が身を投げたと告げる。
2人にとって嫌な想い出の残る相手だが、何も命を捨てることはなかったのに…。
咲世子は亡き亜由美の弔いと卓治のケアをかねて、卓治を家に招待した。
卓治はそのまま泊まっていったが、もちろん2人のあいだには何もない。
別れが決定的であるとしても、咲世子の心はまだ素樹にあるのだから。
一夜明けた朝。
不意に素樹が家に訪ねてきた。
手掛けているシナリオを見てほしいのだという。
中ではシャワーを浴びたばかりの卓治が朝食を食べている。
…ああ、今がその時なのだ。
「三宅さんが離婚して、わたしたちに障害はなくなったの。あなたはいい人だけどまだまだ若いわ。脚本は誰か別な人に読んでもらいなさい」
「でも、この本は、咲世子さんとの…」
捨てられた子犬のような顔になった素樹に、咲世子は切り捨てるように言う。
「あなたが何を書こうと構わない。でも、もうわたしを巻き込まないで。わたしとあなたの時間は終わったの。わたしには三宅さんがいる。あなたにはノアさんがいる。お互いにちょっとしたつなぎのアバンチュールとしては、最高だったんじゃないかな」
心のどこかが破れて、血が溢れ出している。
咲世子は自分で切り裂いた傷の痛みを無視して、冷たく言い放った。
「あなたも大人の女と遊べて、楽しかったでしょう。わたしも若い男とあれこれ遊べて、すごく得した気分だった。でも、これでおしまい。わたしたち、朝食の途中だから、遠慮してもらえるかな」
素樹は幽霊のようにふらふらとした足取りで去っていった。
立ち尽くして一歩も動けない咲世子に、卓治がぼそりと低い声で言った。
「すごかったな。おれ、勇気があるって言葉の意味が、初めてわかった。いい女になったな、咲世子」
今は誰からもほめ言葉など聞きたくなかった。
咲世子は暗い寝室へと戻り、眠りに落ちるまで三時間ほど体を丸めて泣き続けた。
第14章(結末)
もうすぐ春が終わる。
あれから3日経った。
素樹からの電話は留守電にして、すべて聞く前に消した。
ふと、懐かしく愛しい車の音が聞こえてくる。
素樹が来たのだ。
咲世子は心をズタズタにしながら居留守を決め込む。
やがて素樹は玄関先に何かを置くと、咲世子の家に一礼して去っていった。
素樹が残していったものは、一通の手紙とビデオテープ。
咲世子はまず、恐る恐る手紙に目を通した。
『咲世子さん、年上の女性の魅力を教えてくれて、どうもありがとう。この作品(咲世子のドキュメンタリー)は映画祭に出品する予定です。きっと多くの人たちが、ぼくたちの親密さ、おたがいのあいだに流れる穏やかな空気に嫉妬することだろうと思います。それはお遊びでも損得でもなく、やはり恋というしかないものだったと感じるのです。今日はこれから東京に帰って、スタッフとの最初のミーティングに入ります。これから数か月間はもう湘南に戻ってくることはできないと思います。すべてが終わり、なにもかも笑って話せる日が来たら、またリキッドカフェで会ってもらえますか。ぼくはずっと映画についての話題を自分で禁じていたので、今度こそゆっくりと映画の話でもしましょう』
『PS 最初にぼくたちが出会った夜のことを覚えていますか。「シェルブールの雨傘」と「ダンサー・イン・ザ・ダーク」です。あれはやはり、カトリーヌ・ドヌーヴつながりでした。そのことを指摘したのは、あのお店では咲世子さんだけでした。思えば、あのときからぼくは咲世子さんに惹かれていたのかもしれません』
咲世子は手紙を胸に抱きしめた。
これでよかったのだ。
溢れてくる涙は、後悔によるものではなかった。
相手の幸福のために流した温かな涙である。
咲世子は一緒に届けられたビデオテープを再生しなかった。
素樹のいうとおり、すべてを笑って話せる日が来たら、自分が主人公だという長編ドキュメンタリーを見てみよう。
夏。咲世子は独立した卓治のギャラリーで個展を開いた。
出品したのは、どれもこれまでの咲世子の作品とは違う…素樹と出会ったからこそ生まれた作品たちばかり。
オープニングパーティーで、咲世子は何度も練習したスピーチを披露した。
「この個展は、ある若い男性のおかげで、今ここにあるような形になりました」
咲世子が新しいモチーフに選んだのは、浜辺に流れ着いた漂流物。
「このシリーズは、更年期を迎えたわたしの心の中の風景です。潮と日差しと歳月により、こんなに漂白されて色を失い、元がわからなくなるほど変形してしまった。でも、確かなフォルムだけは生きている。流れ着いた光は、わたし自身でもあります。わたしが今、どんなふうに45歳のわたしを受け入れているか。どの版画にも、今のわたしでなければ決して見つからなかった光を封じ込めてあります」
素樹との出会いは咲世子をいい方向に変えてくれた。
個展の中心には、素樹の手をモチーフにした作品を非売品として大きく飾った。
個展が終わると、咲世子は休暇のためタヒチへ飛んだ。
目的は2つ。
名産だという黒真珠を買うことと、素樹が残したビデオテープを見ること。
異国の地で、咲世子はようやくそのテープを再生した。
…出会って間もない日から、別れの直前まで。
2人の想い出が秀逸な編集によって輝いていた。
テレビの中で恋する女の顔をした自分を見ながら、咲世子は静かに涙を流した。
翌日。
フロントからの電話が来客を告げた。
来訪者の名前は、徳永素樹。
驚きつつ咲世子はレストランの一角へと向かった。
「これが見せたくて、こんなところまで来てしまいました」
テーブルの中央に置かれたのは小さなトロフィー。
咲世子のドキュメンタリーが最優秀賞を撮ったのだと素樹は説明した。
…でも、どうしてこの場所が?
「三宅さんがすべて話してくれました。あの朝、三宅さんと咲世子さんのあいだに何もなかったことも、すべて」
思わず咲世子はため息をついた。
「そう。それでほんとうによかったのか、わたしにはわからないな」
「迷惑をおかけしたでしょうか。どちらにしても、要件はもう済んだんです。このトロフィーを見てもらって、あと一言で全部終わりです」
その一言を聞くのが、怖い。
「…いいよ、聞かせて」
素樹はためらわなかった。鋭い矢のように言葉を放つ。
「東京で待ってます」
咲世子の中で喜びと恐怖がもつれあった。気づかないうちに声が激しくなる。
「わたしたちには未来なんて、ないのよ」
「でも、現在がある」
素樹の長編映画はクランクアップを迎え、しばらくは編集と宣伝のために忙しくなるという。
「今日も夕方の飛行機でトンボ返りです。でも飛行機にもいいところはありますね」
咲世子が不思議そうな顔をすると、素樹は顔を崩した。
「十時間以上もじっと座っていたから、次回作のアイデアができました。今度は年上の女性と若い男のラブストーリーです」
咲世子は笑った。素樹の手を握りしめ、思い切り涙が出るまで笑った。
すくなくとも今は、なにも考えるのはよそう。そう決めると、力を抜いて自分の手を若い男に委ねるのだった。
夕方に帰るという素樹を引き連れて、咲世子はショッピングに出かけた。
名産の黒真珠を買う。
装飾が美しいものではなく、味わい深い黒真珠を一つだけ選び、ひもを通して首飾りにする。
まるで咲世子のような黒。
素樹も揃いで同じ首飾りをオーダーした。
夕暮れ。
「こんな楽園にやってきて、半日で帰るなんて、バカみたいだな」
「そうね、それにあなたの提案にのる私もバカみたい」
いつか素樹とは、決定的な別れのときがやってくるだろう。
17歳。
この時間差は永遠に埋まらないのだ。
でも、今はこのままでいい。
頭で考えるのではなく、こたえは身体にまかせればいいのだ。
これからもたくさん傷つくことがあるだろう。
また自分自身をまったくの無価値だと呪う日が来るかもしれない。
この青年のことを憎むときだって、きっとあるだろう。
だからこそ、今このときを逃さないようにしよう。
今日は明日よりも、いつだって一日若いのだ。
「ねえ、手を貸して」
しみじみと手を見つめる咲世子に、素樹が言う。
「個展で非売品になっていたぼくの手の作品。あれを見て、咲世子さんが何を感じていたのか、よくわかりました。とても感動した。ぼくはあの版画の前で涙ぐんでしまったんです。三宅さんがすべてを話してくれたのは、そんな僕に気づいたからです」
もう返事は必要なかった。
咲世子は素樹の手をとり、首筋に押しつけた。
すこしだけ泣いたのは、タヒチの夕日のせいかもしれない。
それから飛行機の時間がくるまで、咲世子は若い男の手を胸に抱き続けた。
<眠れぬ真珠・完>
まとめと感想
今回は石田衣良「眠れぬ真珠」のあらすじ・ネタバレをお届けしました!
年上の女性と若い男の恋の行方…終盤まで「ああ、切ない結末になるんだな」とひしひしと感じていたのですが、希望あるラストでホッとしました。
それにしてもつくづく驚くのは、男性作者が書いたとはとても思われない咲世子の人物描写!
小説を読んでいただければ共感していただけると思うのですが、とにかく「内田咲世子」という更年期の女性が放つ『現実に存在している』という空気がすさまじいんです。
むしろ創作物と言われるより「ノンフィクションだよ」と言われたほうが腑に落ちるような、すぐそこに体温をともなって存在しているかのような感覚。
読み終わった後「今ごろ咲世子と素樹はどうしているのだろうか?」と自然に考えてしまうほど、生々しく秀逸な物語でした。
そんなリアリティある物語の中核を担うのは、永遠の命題の一つである「恋」
「眠れぬ真珠」で描かれたのは、若者同士のキラキラした恋ではなく、人生に複雑な影を落とす「大人の恋」です。
本作で描かれた「恋」とは、喜びと悲しみであり、傷であり、活力であり、創作意欲であり、光であり、そして人生そのもの。
「眠れぬ真珠」は私たちがまだ知らない新しい恋の一面を教えてくれるような、そんな作品だと思いました。
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