夕木春央『方舟』を読みました。
神がかった状況設定と、悪魔じみた結末。これはもう傑作と呼ぶほかありません。
帯に堂々と「どんでん返しがある」と書かれているにもかかわらず、まんまとやられてしまいました。
今回は小説『方舟』のあらすじがよくわかるネタバレ解説をお届けします。
必ず、結末までご覧ください。
あらすじ
友人と従兄と一緒に山奥の地下建築を訪れた柊一(しゅういち)は、偶然出会った三人家族とともに地下建築の中で夜を越すことになった。
翌日の明け方、地震が発生し、扉が岩でふさがれ、水が流入しはじめた。
いずれ地下建築は水没する。
そんな矢先に殺人が起こった。だれか一人を犠牲にすれば脱出できる。
タイムリミットまでおよそ一週間。
生贄には、その犯人がなるべきだ。
――犯人以外の全員が、そう思った。
(単行本帯裏のあらすじより)
地下建築「方舟」
まずはあらすじの情報を整理するところから始めていきましょう。
柊一たちが訪れた地下建築はその名も「方舟」
地上からマンホールのような出入口を10メートルも下りて、ようやく地下一階にたどり着きます。
朽ちた貨物船がそのまま地下に埋まっているようなイメージをしてみてください。
長い廊下の両側に10部屋ずつ、ワンフロアあたり20部屋の地下三階建て構造。
それほどしっかりした建築ではありません。天然の岩に囲まれているため、地下三階部分はまるまる水没しています。
もともとは過激派だか新興宗教だかが使っていたようです。なんと地下二階では拷問部屋が発見されました。いかにも不穏ですね。
さて、柊一たちはそんな不気味な地下空間に閉じ込められます。
巨大な岩に鉄扉を塞がれたからなのですが、これはもともと「方舟」に備わっていた機構が働いたためでした。
「方舟」を建築したのは違法組織でした。外部からの侵攻に備えて、バリケードとして巨大な岩を用意していたのです。
そのおかげで、というべきかは微妙なところですが、柊一たちには助かる方法が残されていました。
巨大な岩には鉄の鎖が巻き付けられています。地下二階の巻き上げ機を操作すれば岩を落下させられます。
……見取り図なしの説明ではちょっと状況が想像ができないかもしれませんね。
ややこしい理屈はさておき、柊一たちに突きつけられた状況はシンプルです。
巻き上げ機を操作した人間は死ぬ。その犠牲と引き換えにして残りの人間は助かる。
巻き上げ機を使った人間は落ちてきた巨大な岩に背後を絶たれ、地下二階の隅にある小部屋に閉じ込められてしまいます。
本来なら地下二階まで侵攻してきた敵へのバリケードとして機能し、小部屋の人間は地下三階にある非常口から脱出できるはずでした。
しかし、地下三階は今や水没しています。
巻き上げ機を操作した人間に待つのは、狭い小部屋のなか、地震の影響でじわじわと上がっていく水位にやがて飲まれ、溺れる未来だけです。
一応補足しておくと、脱出したメンバーが救助を呼べばいいという問題でもありません。
「方舟」から出られたとして、そこはスマホが圏外になるような山奥。しかも地震の影響で土砂崩れが起きていて、行き道に使った木橋が落ちていれば人里に戻るまで何日かかるかわかりません。
もし運よく助けを呼べたとして、地下深くの岩をどうこうする方法もないでしょう。
詰み、です。巻き上げ機を使った人間は絶対に助かりません。
補足
「方舟」にはダイビングで使うような酸素ボンベがありました。
残量はわずかでしたが、それを使えば小部屋から地下三階の非常口まで行くことは可能でしょう。
しかし、柊一たちは監視カメラの映像を見て知っていました。
地震の影響で非常口の上げ蓋が土砂で埋まっていることを。非常口は使えません。
一方、出入口と書かれたモニターを見てみると、外につながる上げ蓋は無事なようでした。
不可解な殺人
いったい誰が地下建築に取り残される《生贄》になるのか?
降って湧いたような難問に取りかかる前に、事件は起こりました。
「いた! いました! 死んで――、亡くなってる! 殺されてる!」
遺体で見つかったのは柊一たちの仲間だった裕哉です。
ちょうど全員がバラバラに行動していたタイミングで、アリバイを証明できる人間はいません。
ロープを使った絞殺で、犯人につながる手がかりらしきものは何ひとつ現場には残されていませんでした。
この殺人はいかにも不可解と言わざるを得ません。
なぜなら、裕哉こそが仲間たちを地下建築見物に誘った張本人だったからです。
誰かひとり犠牲にならなければならないというのなら、そもそも閉じ込められるきっかけをつくった責任が裕哉にはあります。
たとえば無記名投票で《生贄》を選出する場合、裕哉に白羽の矢が立っていた可能性は充分に高かったと言えるでしょう。
また、くじ引きで《生贄》を選ぶことになったとしても、裕哉を殺せばそのぶん犯人が《当選》する確率が上がってしまいます。
こうなると犯人がなにを考えているのかさっぱりわかりません。
裕哉を殺したかったのならただ待っているだけでよかったかもしれず、そうでなくとも脱出したあとに手を下せばいいだけの話です。
事件後、残された9人は「犯人こそが生贄になるべきだ」という結論に達しました。
犯人はむざむざ自分が殺される可能性を高めただけのように思われます。
犯行動機。その一点だけがこの物語における最大にして最重要な謎になっています。
補足
いまさらですが「方舟」に居合わせたのは殺された裕哉を含めて10人でした。
柊一たち大学登山部のOB・OGが6人。柊一の従兄である翔太郎。50代の矢崎夫妻と高校一年生の息子。
地下建築は裕哉がソロキャンプ中にたまたま発見したものであり、さやかだけは裕哉から写真を送られたりしていたものの、基本的には全員にとって初めて訪れる場所でした。
矢崎一家はキノコ狩りをしていて迷っているところをメンバーが保護したかたちで合流しました。何か隠している雰囲気でしたが、実は新興宗教にハマった妻の弟を探しに来たということでした。
第二の事件
二人目の犠牲者が出たのは、地震から三日目のことでした。
殺されていたのはやはり柊一たちの仲間だった野内さやかです。
ただし、その遺体の状況は裕哉のときとは打って変わって実に惨たらしいものでした。
死体には、首がなかった。
頭のない遺体を観察してみると、かろうじて(胴体側の)首にロープで絞められた痕跡が残っていました。胸には刺し傷もありましたが、これは死後に刺されたもののようです。
現場は地下二階の一室。
生存者たちはみんな地下一階の部屋に宿泊していて、基本的には部屋と食堂を往復するだけでしたから、犯行が気づかれなかったのも無理はありません。
さやかは失くしたスマホをあちこち探し回っていて、地下二階にいたところを襲われたようでした。
犯人はなぜ遺体の首を切ったのか?
今作の探偵役にあたる翔太郎はたちまちその謎を見破ります。
顔認証です。
さやかは地下建築のあちこちをスマホで撮っていました。そのなかには犯人にとって都合の悪い写真があったのでしょう。
犯人はスマホを処分しなければなりませんが、肝心のそれは紛失されていました。
あとからひょっこり出てきて証拠となる画像を突きつけられでもしたら厄介です。
そこで犯人はさやかを始末し、その首を切ることで顔認証によるスマホのロック解除を防ぎました。
首の始末は簡単です。水没した地下三階に捨てればそれで済みます。
とはいえ、この事件にはまだ謎が残っています。
ひとつは、犯人がわざわざさやかの胸にナイフを突き立てた理由。
そしてもうひとつは、犯人が床に飛び散った血をふき取るのに使ったウェス(※)です。
※掃除用の薄い布
ウェスは地下一階の部屋に保管されていました。地下一階は生存者たちの生活フロアであり、いつ誰に見られてもおかしくありません。
ウェスを調達するところを目撃されれば、それだけで犯人であることがバレてしまう危険性があります。
一方で、犯人は地下二階で容易に雑巾を手に入れることができました。
詳細は省きますが、犯人が雑巾の存在を見逃していたとは考えられません。
犯人はなぜリスクを背負ってまで地下一階に保管されていたウェスを使ったのか?
この謎はラストに控える探偵の謎解きまで持ち越されます。
第三の事件
第三の事件はこれまでの二件とはまた少し毛色が違います。
殺されたのは矢崎幸太郎。一家の父親です。
矢崎は地下二階の一室に凶器のナイフが隠されていることに気づき、身を隠して犯人を待ち伏せていました。
潜伏場所は棚の下。地下二階はすでに腰のあたりまで浸水していたため、ガスボンベを使っていました。
凶器を取り出す犯人を水中から完全防水のスマホで撮影する……矢崎の目論見は、しかし犯人に気づかれてしまうという致命的な不運により失敗に終わります。
枝切り狭(ばさみ)で一刺し。
矢崎はあっけなく命を落としてしまいました。
この事件がこれまでの二件と大きく違うのは、犯人にとって想定外の、突発的な殺人だったということです。
焦って引き返したらしい犯人は《あるもの》を落としていきました。
爪切りと、それを入れていたチャック付きの透明なビニール袋。
裕哉の遺品だったそれらを犯人は持ち出していたようです。
いったい爪切りなんかで何をしようとしていたのか?
この謎も探偵の謎解きまで持ち越しです。
……と、この時点で柊一たちに残された猶予はいよいよ24時間を切りました。
それまでに犯人を見つければいいという訳ではない。(残って巻き上げ機を動かすよう)説得、あるいは拷問をしなければならない。
あくまで柊一たちの目的は「方舟」からの脱出です。
犯人がわかったとして、その人物が自分の命と引き換えに柊一たちを助けてくれるとは到底思われません。
はたして彼らはどんな結末を迎えるのでしょうか?
<すぐ下のネタバレに続く>
ネタバレ
物語もいよいよ終盤。翔太郎の謎解きを聴くために食堂へと集まった人数は7人にまで数を減らしていました。
「こんなことになるなら最初にくじ引きをしておけば9人の命が助かったのでは?」そう問う声もありましたが、すべては結果論にすぎません。
現実問題として今、柊一たちに残された最善策は《犯人》を暴き出し、犠牲者の役割を押しつけることだけです。
そのための推理が始まろうとしていました。
まずは第一の事件について……といいたいところですが、最初の殺人には解くべき謎がありません。あえていえば犯行動機ですが、そんなもの推理のしようがありません。
というわけで翔太郎は第二の事件から話を始めました。
犯人はなぜ簡単に手に入る雑巾を使わず、リスクを冒してまでウェスを使ったのか?
この謎を解くには雑巾とウェスの違いを考えればいい。翔太郎の言葉に柊一は頭をひねります。
「雑巾より、ウェスの方が軽い。薄い。あと、破れる」「そうだ。そういうことだよ」
なんとなくお察しのことと思われますが、犯人はウェスを血を拭く以外の用途のために必要としていました。
あっさり言ってしまいますが、犯人はウェスをドアの隙間に差し込んだのです。
方舟は素人建築によるもので、ドアを閉めてもウェスが詰められるほどの隙間が開いていました。そして、犯人にとってそれは致命的な問題でした。
なぜなら、室内の灯りが廊下に漏れてしまうから。
生活フロアが地下一階だからといって、いつ誰が地下二階に下りてくるとも限りません。
慣れない首切り作業に時間をとられるなか、漏れ出る蛍光灯の光を不審に思われでもしたらそれこそ一巻の終わりです。
そこで犯人はウェスをドアの隙間に差し込んで、明かりが漏れないようにしました。最後は血を拭くためにも使えて一石二鳥です。
翔太郎は言います。
「ウェスが必要だった理由ははっきりした。そしてこれは、犯人を特定する上で極めて重要な意味を持つ。なぜなら、ドアの隙間を塞ぐには、ウェスを詰めるよりもずっと簡単で安全な方法があるからだ」
※以下、小説より一部抜粋
…………
「柊一、お前がもし自分のアパートにいて、家の中のドアの隙間を塞ごうと思ったらどうする?」
翔太郎の論理の輪郭が、少しずつ僕にも見えてきた。
「――それは、テープを使う。ガムテープか何かで目張りする」
「そうだな。光が漏れないようにしなければならないとなったときに、最初に思いつく方法だろう。普通、隙間にウェスをねじ込むなんていう苦し紛れのやりかたはしない。
そして、この地下において犯人にその方法が使えなかったかというと、そんなことはない。地下二階にテープ類は揃っていた。知っているものも知らないものもいるだろうが、あの、工具類の倉庫の隣の205号室の、左奥の棚の下から三段目の段ボール箱に、ガムテープやらビニールテープやらが入れてあった」
六角レンチを探しているときに僕と翔太郎が見つけたものである。
「明かり漏れを防ぐには、テープを使って目張りするというベターな方法があった。にもかかわらず、犯人はわざわざ地下一階の倉庫にウェスを取りに行った。地下一階の倉庫に、他の用事があったとは考えられない。それは前に確認している。ということは、犯人は、何らかの理由によりテープを使って部屋の目張りをすることができなかったものということになる。
では、テープを使うことができなかったのは誰か? それを突き詰めると、犯人は二人にまで絞ることができる」
容疑者二人
単純な話ですが、方舟にテープ類があると知っていた人間はシロということになります。
これにより翔太郎と柊一は犯人候補から除外。また、柊一たちの仲間である花も同様に除外。
矢崎家の三人(※)についてはまた少し違った論理が働いて、彼らもまた犯人ではありえないという結論が導き出されます。
※第二の事件時にはまだ矢崎幸太郎も生きていた
翔太郎が宣言した通り、容疑者は二人にまで絞られました。
大学登山部の仲間である隆平と麻衣。ふたりとも柊一に因縁のある人物です。
隆平と麻衣は夫婦です。しかし、あまりに早く結婚したためか衝突することが多く、柊一はよく麻衣から相談を受けていました。
当然、隆平は麻衣と柊一の関係をよく思っていません。
柊一が従兄である翔太郎を連れてきたのは、隆平との間にトラブルを予感してのことでした。
犯人は隆平か麻衣のどちらかです。
体格がよく野性的な隆平ならまだしも、いかにも不安そうな麻衣が三人の命を奪った犯人だとは思われません。
この極限状態の中で、柊一と麻衣の関係は急速に進んでいました。
「ここから出られたら一緒になろう」と暗に誓い合いさえしています。
邪魔な隆一が消えて、麻衣との日々が始まる。
柊一にとって理想的な結末まで、あと一歩のところまできていました。
犯人
はい、そんなわけがありませんね。
犯人は麻衣です。
第三の事件では残された爪切りと小袋が謎になっていましたね。
爪切りに意識が向きそうになるのですが、本当に重要だったのはチャック付きのビニール袋のほうです。
第三の事件が起きたとき、地下二階は腰の高さほどまで浸水していました。
矢崎が完全に水中に隠れられたほどの水嵩です。
犯人は照明として使うスマホを水から保護するために、チャック付きの透明なビニール袋を必要としました。
ちょうどお風呂でスマホを操作するときにジップロックに入れるような感じですね。
このことから、犯人のスマホが防水タイプでないことがわかります。
隆平のスマホが防水タイプであるのに対し、麻衣のスマホに防水機能はありませんでした。
※以下、小説より一部抜粋
…………
「一応言っておくと、矢崎さんの殺人の証拠に誰かの作為が加わっていることは考えられない。誰かが、防水でないスマホを持った人に容疑を向けようとして、小袋を捨てておくというのはあまりに非現実的だ。この事件は、突発的に起こった、犯人すら予定していなかったものだからな。
さあ、麻衣さん。犯人の特定は済んだ。何か言うべきことがあるのなら聞いておきたい」
翔太郎は問う。
麻衣は、足元を見つめたまま答えた。
「いえ、何も。当たってます。私が、裕哉くんと、さやかと、矢崎さんを殺しました」
犯行動機
この物語における最大の謎は犯行動機(Why done it?)です。
いったいぜんたい、今この状況下で犯行に及ばなければならない理由がちっともわかりませんでした。
麻衣によれば、厳密には麻衣が翔太郎の推理に任せたので説明したのは翔太郎だったのですが、ともかく犯行の目的は隆平に罪をなすりつけることだったのだといいます。
麻衣は凶器のナイフを隠していました。処分しようと思えばいつでも地下三階に投げ込めたにもかかわらず、です。
では、ここで少し考えてみましょう。
もし、血のついたナイフが隆平の荷物から出てきたら?
もちろん理性的に判断すれば、たったそれだけの状況証拠で隆平を犯人だと決めつけることはできません。それこそ罪をなすりつけるための小細工かもしれませんからね。
しかし、そんな《当たり前の判断》をこの極限状態で下せる人間が、いったい何人いるというのでしょう?
タイムリミットまでに犯人がわからなければ、彼らは話し合いによって《生贄》を選出することになります。
もちろん、進んで手を挙げる人間などいないでしょう。
そんなときに血の付いたナイフが隆平の荷物から出てきたら……?
パニック寸前にまで精神を追い詰められた人々にとって、それは隆平を犯人だと決めつけるのに充分すぎる理由になります。
もちろん隆平は冤罪を主張するでしょう。しかし、そんなことはもはや関係ありません。拷問してでも隆平に巻き上げ機を使わせればいいだけの話です。
隆平は逃げ場のない狭い小部屋の中で、じわじわと上がる水位を恐怖に満ちた目で眺め、やがてもがき苦しみながら溺れることになるでしょう。
巻き上げ機を動かした人間に待つ悲惨な運命を思えば、ひと思いに絶命した裕哉や矢崎の最期のほうがまだマシであるようにすら思われます。
麻衣の狙いは、まさにここにありました。
この世で最も惨たらしい死を、隆平に与えようとしていたのです。
隆平に残酷な死を与えつつ、自分は罪に問われない。「方舟」にはこの無理難題をクリアするだけの条件が、実に都合よく揃っていました。
麻衣が裕哉の首にロープをかけた理由が、いまなら理解できます。
補足
麻衣は最初に裕哉を殺しました。これは裕哉がその責任によって犠牲者に選出されるのを避けると同時に、「犯人が生贄になる」という状況を作りだすための一手でした。
さやかを殺したのは自身が犯人だとバレるのを防ぐため。矢崎の件は言わずもがなですね。
ときおり横暴な一面をのぞかせる隆平に麻衣はうんざりしていたのでしょう。
あるいはそれは柊一との新しいスタートを円満に迎えるための犯行計画だったのかもしれません。
醜悪
犯人は判明しましたが、むしろ本番はここからです。
柊一たちは麻衣を説得するなり拷問するなりして、巻き上げ機を動かす役目を押しつけなければなりません。
けれど、ちょっと待ってください。
麻衣に地下に残ることを強いる行為は殺人となにも変わらないのではないでしょうか?
脱出後に罪に問われるかどうかは別として、少なくとも生存者たちには「人を殺した」という罪悪感が一生つきまとうことになるでしょう。
凶悪な殺人犯だから殺してもいいなんて道理はありません。
彼らは可能な限り後味の悪くならない方法で、つまり自身を殺人者だと認めずに済むような方法で、麻衣を説得する必要がありました。
※以下、小説より一部抜粋
…………
ついに、弘子(矢崎の妻)が、息子の肩を抱きながら麻衣に言葉を掛けた。
「お願いします。私らを、助けて下さい。この子は、まだ十五です」
すると、花も続いた。
「麻衣――、お願い。何とかならない? 麻衣にしかできない」
さらには、隆平が、彼の口から聞いたことのないような優しい声で言った。
「頼む、麻衣。助けてくれ」
麻衣は、自分に頭を下げる三人を不思議そうに見つめた。
翔太郎は、聞き分けの悪い生徒に言い聞かせる先生みたいな口調で言う。
「麻衣さん。俺は、君が、極限状況のときに誰よりも理性的な判断ができることを信じている」
異様な光景だった。
矢崎家のものは家族を殺された。隆平は、罠に嵌められ、無残に殺されかけた。その犯人を相手に、みんな頭を下げ、助けて欲しいと懇願していた。
彼らの言葉選びは慎重だった。麻衣を怒らせず、そして、そのお願いによって、彼女が死に追いやられるということには決して触れなかった。
地上に脱出してからこの瞬間を思い出しても、自分が麻衣を殺した訳ではないと自らに言い聞かせることができるように気をつけていた。
僕は、どうしても彼女に言葉を掛けることができなかった。
麻衣に懇願するみんなの姿は、あまりにも醜悪だった。
(中略)
麻衣は、僕の言葉を待っているようだった。
しかし、ついに諦めたように、微笑みまじりに言った。
「うん。こうなるってことは、本当は私、分かってた。いいよ。私が、岩を落とす。結局、それが一番いいんだよね」
結末
冒頭でも触れましたが、この物語ではラスト10ページほどのエピローグに「どんでん返し」が用意されています。
それを踏まえた上で、ひとまずの結末を見ていきましょう。
伏線たっぷりなので、お見逃しなく。
※以下、小説より一部抜粋
…………
麻衣は階段を、膝まで水に浸かるところまで降りると、こちらを振り返った。
「あとはもう大丈夫かな。心配しなくても、私、ちゃんとやるよ」
見送りの僕らに、彼女はそう言った。
みんなは顔を背ける。麻衣にきちんと今生の別れを告げようとはしない。どこかに罪悪感がある。
彼女が三人もの人を死なせたのは間違いないが、僕らのために、彼女が死のうとしているのも間違いない。
階段で、麻衣が恥ずかしそうに僕に言ったことを思い出した。
――私、生きて帰りたいな。どうしても。
あれはきっと、生きて帰ったあとの人生に、僕が一緒にいることが前提だった。
僕の中に、振り払うことのできない一つの考えがあった。
もし僕が、自分は脱出することを諦め、麻衣と一緒に地下に残ると言ったら?
そのとき、彼女は何と言うだろうか?
その答えを知らずに、残りの人生を過ごすことが恐ろしいような気がした。
そして、もしも麻衣が僕を受け入れ、あの小部屋で、二人で死ぬまでのときを過ごすことになったのなら?
それに代わる時間はきっと、生涯得られないだろう。
今より他に、それを口にする機会はなかった。そして、他に麻衣を殺さなくて済む方法はなかった。
一緒に地下に残るのなら、彼女を殺すことにはならない。その罪から逃れる方法は、他にない。
階段の下の、麻衣と目が合った。
全身が火照った。葛藤が体を駆け巡った。
ほんの数分前に見た、監視カメラの映像が僕を引き留めた。
もうすぐ地上に出られるのだ。それ以上に価値のあることなど存在するだろうか?
ようやく僕は、麻衣に言葉を発した。
「――じゃあ、さよなら」
彼女は、予期していたように、僕の挨拶に肯いた。
「うん。行くね」
麻衣はみんなに背を向け、水音を立てて、暗い廊下に姿を消した。
エピローグ【前】
というわけで、ここからが真骨頂です。
麻衣は犯人であることを認め、犠牲になることを受け入れたわけですが、それにしてもあっさりしすぎていました。
生を諦めたからこその穏やかさだったのか?
あるいは全員を救うための自己犠牲精神か?
はたまた裏切って全員を道連れにしようとしている?
その答えが、麻衣の本心が、ついに明かされようとしていました。
ラストシーン。柊一たち6人は鉄扉の前で、出入り口への道を塞ぐ大岩が地下二階に落ちるのを今か今かと待ちわびていました。
いよいよ地上に出られる。高まる期待感のなか、柊一のスマホが麻衣からの着信(※)を告げます。
※スマホは圏外。通話はトランシーバーアプリによるものです。
麻衣が言いました。
「岩は、あとほんのちょっとで落とせると思う。それでね、最期に、どうしても柊一くんに言っておきたいことがあったんだ」
柊一は5人から離れて、手近な部屋に入りました。
麻衣が最期に言いたかったこと。それは……
「今から地下で死ぬことになるのは、私じゃなくて、柊一くんたちなの」
※以下、小説より一部抜粋
…………
「どうして、僕らが死んで、麻衣が生き残る?」
――じゃあ、説明する。柊一くん、ここには監視カメラがあるよね。機械室にモニターが二つあって、その映像を見られるんだったよね。モニターには、油性ペンで、出入口と非常口って書いてあってさ。
「そうだけど――」
――それで、地震のあと、柊一くんがモニターを確かめたんだったよね。そしたら、地上で土砂崩れが起こってるのが分かった。出入り口の方の映像はなんともなかったけど、非常口は土砂で完全に埋まっちゃってた。
「――うん」
――出入り口から地上に出たとしても、すぐに助けを呼びに行くことはできないから、地下に残る人は死ぬしかないって話になったんだったね。
でもさ、もし私が、柊一くんが気づく前に、あの二つのモニターの配線を入れ替えていたとしたら?
出入り口のモニターに映っているのが非常口で、非常口のモニターに映っているのが出入り口だったとしたら?
「つまり――、土砂で埋まったのは、非常口じゃなくて、出入り口の方だった?」
――そう。私が岩を落としても、地上に出ることはできないんだ。上げ蓋は、土砂に押さえつけられてるの。
ここから出るには、ダイビング機材を使って、水の溜まった地下三階を通り抜けて、土砂の被っていない非常口から脱出するしかないんだ。
私、誰よりも先にモニターを見て、それに気づいたの。だから二つの映像を入れ替えておいたんだ。だって、ダイビングの道具は限られてるから。みんなが知ったら、デスゲームが始まっちゃってたと思う。
(中略)
麻衣は、脱出にダイビング機材が必要だという情報を独占した。
そして、みんなに、脱出するには殺人犯を犠牲にするしかないと思い込ませたのだ。
エピローグ【後】
ここからは麻衣の視点に立って物語をふり返っていきましょう。
麻衣が脱出するための生命線はなんといってもモニター配線の入れ替えです。
幸いにも出入口と非常口の映像は似たり寄ったりのものでした。日が暮れてから方舟に到着した他のメンバーが入れ替えを見抜く心配はまず必要ありません。
ただし、裕哉だけは別です。
裕哉は以前にも方舟を訪れています。入れ替えを見抜ける人間がいるとしたら、それは裕哉だけでした。
「だから裕哉を殺したのか」
麻衣が裕哉を殺した理由はもうひとつありました。端的に言って時間稼ぎです。
ダイビング機材には、タンクを背負うハーネスがかけていました。ハーネスを自作するには時間が必要です。
たとえば初日にくじ引きで犠牲者を選出することになっていたとしたら、麻衣の計画は破綻していました。犯人探しの時間を利用して、麻衣はハーネスを準備していたのです。
「じゃあ、さやかを殺したのは?」
みなさん覚えておいででしょうか? さやかは裕哉から方舟の写真を受け取っていました。
※「不可解な殺人」の項目の補足に書いていました。
出入口や非常口の写真と監視カメラの映像を見比べられたら、入れ替えに気づかれてしまう恐れがあった。これが第二の殺人の本当の動機です。スマホの中に見られたくない写真があったという点までは合っていたわけですね。
また、第二の事件では
- なぜ遺体にナイフを突き立てたのか?
- なぜナイフを捨てなかったのか?
も謎になっていましたが、今なら理由がわかります。
麻衣は最終的に自分が犯人だと名乗り出るケースを想定していました。そのときに犯人である証拠としてナイフを役立てるつもりだったのです。
「それなら、矢崎さんを殺したとき、何で倉庫に行った?」
答えは明白。ハーネスをつくる材料を調達するためです。
麻衣はナイフを回収しようとしたわけではなかったので、矢崎に見つかったとして痛くも痒くもありませんでした。
では、なぜ麻衣は矢崎を殺したのか?
これも簡単ですね。矢崎は水中に隠れるためタンクを使ってたからです。
もともと残量の少なかった空気を、これ以上、減らさせるわけにはいきませんでした。脱出に必要な空気まで使われてしまったのではたまりませんからね。
彼女は、誰を何人殺しても構わなかった。なぜなら、どうせみんな死ぬからだ。
さて、探偵の謎解きならぬ犯人による解説もそろそろ終わりが近づいてきました。
物語のラスト一行まで、ここからはノンストップでお届けします。
※以下、小説より一部抜粋
…………
――ハーネスを作るの、結構大変だったな。みんなに気づかれないようにしないといけなかったから。自分の部屋でちょっとずつロープを編んだりして、誰か来そうなら見つからないところに隠さないといけないし。それに慎重に作らないと、万が一壊れたらおしまいだしね。
完成してからは、地下二階に隠してた。ちょうど、倉庫で矢崎さんを見つけた後。浸水してたおかげで隠しやすかったよね。
それでね、柊一くん?
麻衣は、返事を待つように、言葉を切った。僕が話を聞いていることを確かめようとしていた。
かろうじて、僕は返答をした。
「――何だ」
――実はね、私、ハーネスを二つ作ったんだ。柊一くんの分。ほら、ダイビング道具って、二人分あったよね。
もしも柊一くんが、私と一緒に地下に残ってくれるつもりだったら、それを使って一緒に地上に逃げようと思ってたんだ。
でも、そうはならなかったから、残念だけど、もういいかなって。
そうだ。彼女は僕を待ち続けていた。
あのとき、麻衣について行けば――、僕は、助かった。
そんなこと、できる訳がない。そう彼女に叫ぶか、今からでもそっちに行かせてくれ、と懇願するか、二つの考えが頭をよぎった。そして、どちらも同じくらい無意味であるのが、直感的に分かっていた。
今度こそ、僕は床に突っ伏した。昏倒する寸前だった。
スマホから、僕がさっき麻衣に投げた言葉が聞こえた。
――じゃあ、さよなら。
通話は切れた。
岩壁から滑落した人のように、息絶え絶えに、僕は床に転がっていた。
この地下に閉じ込められて、水が迫り上がって来るのを待ち続けるのだ。
そして、僕は死ぬのだ。
やがて、大岩が、地下二階に落ちる音がした。
地震かと思うくらいの大きな振動がした。しかし僕は、それがはるか遠くに感じた。
廊下で歓声が上がった。みんなが、地上を目指して通路を駆けてゆくのが分かった。
駄目なのだ。上げ蓋は決して開かない――
そのとき、前触れもなく、視界が真っ暗になった。
タイムリミットが来たのだ。発電機は運転を停止した。
数瞬後。五人の、絶望の絶叫が遠く聞こえた。
<おわり>
小説『方舟』を読みました❗️
一週間で水没する地下建築に閉じ込められる。誰か一人を犠牲にすれば脱出できる。設定からワクワクさせられますが、この物語の真骨頂は結末にあります。
呼吸が止まるほどの衝撃。最っ高でした!
⬇️あらすじと結末https://t.co/aOyVIABv5c
— わかたけ@小説読んで紹介 (@wakatake_panda) October 31, 2022
まとめと感想
今回は夕木春央『方舟』のあらすじネタバレ解説をお届けしました!
クローズドサークル! どんでん返し! イヤミス!
「そうそう、これが読みたかったんだよ!」とスタンディングオベーションしたくなるくらいツボにはまった一冊でした。
本格ミステリとしての論理もさることながら、特にたまらなかったのは人間の醜さが露悪的なほどにまざまざと描かれていた終盤~結末の展開です。
麻衣との別れ際、柊一は「一緒に地下に残るべきではないか?」という衝動に突き動かされます。けれど、結局のところ彼は「じゃあ、さよなら」という言葉を投げかけました。
柊一を勇気のない男だと思いますか? わたしはそうは思いません。
自分の命を捨ててまで愛に殉ずるなんて、いったい誰にできるというのでしょう?
柊一は人間としての本能に従っただけです。現実的な判断だったと思います。
けれど、結果として柊一は致命的に間違ってしまっていました。
「じゃあ、さよなら」という柊一の言葉を、麻衣はいったいどんな気持ちで受け止めたのでしょうか?
「じゃあ、さよなら」という麻衣の言葉には、いったいどんな気持ちが込められていたのでしょうか?
そして、麻衣を裏切ったばかりに死の運命をたどることになったのだと知った瞬間の、柊一の気持ちは?
想像するだけでゾクゾクしてきます。
2022年に読んだミステリ小説のなかでも間違いなく1,2を争う傑作でした。
(年末に発表される各ミステリランキングでも上位に食い込むのではないかと期待しています)
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最初から、2名しか助からないという前提がここまで効く!ということに、人の持つ「前提」がいかに強力かという視点でも楽しませていただきました。ありがとうございます!
柊一は人間の本能に従っただけ。その通り。私が柊一の立場でもそうすると思う。誰だって死にたくない。
でも麻衣からしたら、最後の一言が愛に絶望するには充分だったんだろうな。
爪切りを持っていく必要性はなんでしょうか
>たいようさん
爪切りそのものは必要ありませんでした。必要だったのは爪切りの入っていた袋だけでした。