橋爪駿輝『スクロール』を読みました。
映画化にあわせて興味を持たれた方がほとんどでしょうから、最初に映画と原作小説の関係を明らかにしておきましょう。
以下は、清水康彦監督による文庫版解説の一節です。
映画の内容は、私が本作を読んだ感想を小説に混ぜ込んだものになっており、原作を別の視点で切り取ったものになっている。映画を観た上で改めてこの作品と向き合っていただくと、さらに面白く読めるかもしれない。
そもそも小説『スクロール』は短編集ですから、物語そのままの映像化というより、その世界観を大事にした映画化なのでしょう。
今回は『スクロール』に収録された5つの短編すべてのあらすじ・結末をお届けします。
あらすじ
僕の前に突如現れた女子高生ハル。僕の隣に住む元彼の「音」だけでも聞きたいと僕の部屋に上がってきた(「童貞王子」)
希望部署にいけずに燻っていたユウスケはバーで出会った菜穂と付き合うが、ある事件取材をきっかけにふたりの関係は変わっていく(「スクロール」)
全5編を収録した鈍色の青春を駆ける物語。
(文庫裏表紙のあらすじより)
映画予告
はじめに
『スクロール』では劇的な出来事はなにも起こりません。
殺人事件はネットニュースで読み飛ばす記事の見出しでしかないし、人生をかけた大恋愛もなければ、号泣の結末もありません。
登場人物はみんな渋谷あたりで石を投げれば当たるような、どこにでもいる20代前半の若者たち。
彼らの等身大の喜怒哀楽をありのままに描いた作品が『スクロール』です。
とはいえ、なにも仕掛けがないというわけでもありません。
各短編ではすべての物語に登場する「ユウスケ」の動向に注目してみてください。
最後の短編であり表題作『スクロール』では、それまで脇役だったユウスケの物語が展開されます。
それでは、まずは一つ目の短編から見ていきましょう。
童貞王子
モボはぜったいに合コンになんて行きたくないタイプの大学生。童貞。
「モボ」なんて呼びにくそうなあだ名は彼の唯一の友だちであるユウスケが勝手につけたものですが、そんなことはともかく彼の部屋ではいま女子高生が壁に耳をピッタリとあてています。
「もう寝ちゃったかな」
ため息をついて耳を離した彼女の名前はハル。アパートから一歩出たところで出会ったばかりの、テンション高めな女子高生。
ハルは元彼のことが忘れられなくて、せめて音だけでも聴きたくて、こうして隣室であるモボの部屋に突撃してきたのでした。
「お兄さん、ウチとやりたい?」
突如として一人暮らしの散らかった部屋に投下された爆弾発言。モボの脳内では欲望とプライドが激しくせめぎ合い、そうして口から出た言葉は、
「別に、高校生とやるほど女に困ってないよ」
でした。
千載一遇の機会を逃したかのように思われたモボですが、ハルはそれからちょくちょく訪ねてくるようになりました。
毎週二回。月曜日と木曜日の夜。厳しい両親の目をかいくぐるため、塾のある日にだけ来ているとのことでした。
どちらかといえば人嫌いのモボでしたが、ハルとの時間だけは例外です。童貞を甘くみてはいけません。たちどころにモボはハルのことが好きになっていました。
とはいえ、ハルは元彼のことが好きで好きで、大好きだからこそモボの部屋に通っているわけで……
「なんであんな男のこと忘れられないのか、全然分からないの。もっと優しいひとなんて、いっぱいいると思うの。お兄さんだって、優しいよ。なのにね、彼じゃないとだめなの。彼以外はね、彼じゃないひとなの」
元彼はサラリーマン。出会いはナンパで、ハルにとっては「はじめてのひと」でした。
「壁からね、彼の音が聞こえてくるでしょ。それだけでね、安心できるの。ああ、まだ彼はいるんだって、消えてないんだって。それだけでね、生きていける気がするの」
モボにできるのは現状維持だけでした。しかし、その複雑ながらも甘い生活すら、やがては終わってしまいます。
元彼が引っ越してしまったのです。
どうすれば! ああ、どうすれば!
動転するモボにユウスケが言います。
「そんなの、モボの気持ちをハルちゃんに伝えるしかないじゃん」
結末
以下、小説より一部抜粋
「引っ越したの知ってる。久しぶりにメールきたの。元彼から」
ハルは心なしか、清々しい顔をしていた。
「福岡に転勤だって」
「そうなんだ」
そうとしか、言いようがなかった。結局、ずっと僕は蚊帳の外にいたわけだ。
「なんか、最後に音を聞きたくて来ちゃった」
ああ、もし、もっと僕の身長が高かったら。
「不思議とね、壁越しにでも、向こうの雰囲気が分かるようになったの。変な能力ついちゃったかな」
もし、僕の目がくっきり二重だったら。
「ウチね、お兄さんのおかげで言えたよ。メールだったけど、本当の気持ち言えた。だから、もう大丈夫。お兄さんのおかげだよ」
もし、僕の鼻の形が綺麗だったら。
「やっと元彼のことが昔になった。ありがとうって、お兄さんに言わなきゃって思ったよ」
ちゃんと自分の気持ちを正直に表現できて、図太くて、多少の強引さとノリの良さがあったら。
「あー、すっきりした」
目の前で無邪気に笑っている、世界で一番身勝手で、世界で一番可愛い女の子に、好きだって、言えるのに。
「ばいばい」手を振って、ドアの隙間から見えなくなってしまうハルを引き止めて、「好きだ」と、きっと言えたのに。
(中略)
それから一度だけ、街中でハルを見かけたことがある。
ハルはセーターにジーンズというラフな格好で、制服を着ていたときよりもなぜか幼く見えた。
楽しそうに男と腕を組んだハルと、すれ違い様に目が合ったような気がしたけど、たぶん、気のせいだと思う。
<おわり>
麗しい美しい
その夜、藤島草太がリクルートスーツのまま植え込みに寝転がっていたのには、もちろん理由があります。
今度こそはと自信のあった企業からの不採用通知、が届いたその日に三年つきあった彼女の浮気現場にばったり。
最悪でどん底。泣きっ面に蜂とはまさにこのことです。
草太は酒を飲んで飲んで飲みまくって、そうして行き倒れていたのでした。
とはいえ、捨てる神あれば拾う神ありともいいます。
草太はたまたま通りがかった女性に一晩中介抱される、という幸運に恵まれました。
大恩人の名前はモガちゃん。毎晩どんちゃん騒ぎのバー「とんでもない青」の店長。
目を覚ました草太を松屋に連れて行くと、モガちゃんは脈絡なく言いました。
「あんた、わたしの二番目の彼氏にならない?」
え、こいつなに言ってんの? そう思いつつ草太の答えは、
「い、いいですよ。二番目の彼氏」
でした。やることなすこと無茶苦茶なモガちゃんに、早くも草太は惹かれ始めていました。
その日を境に、草太の生活は一変します。
ありていにいえば、草太はモガちゃんのヒモになりました。
昼は高級マンションに住むモガちゃんの家でごろごろして、夜になればバー「とんでもない青」でタダ酒を飲む。どうせ大学は留年が決まったので、就活なんてもうどうでもいい話です。
「欲しいものは全部欲しいの。楽しいことは全部したいの」
それがモガちゃんのモットーです。その生き様を実現するために、モガちゃんは昼間デリヘルで働いています。
そのことに口出しする権利は草太にはありません。草太はモガちゃんの稼ぎで高級な飯を食い、酒を飲んでいるのですから。
今夜もバー「とんでもない青」は大盛り上がりです。
※以下、小説より一部抜粋
…………
「さあ宴はこっからよぉぉぉ」
モガちゃんが叫ぶと、
「ヴーヴ!」
と一斉に声があがった。ポンッと音がしてヴーヴ・クリコの瓶がどんどん空になっていく。どこからともなくシャンパンの注がれたグラスが回ってきて、刺戟に満ちた泡が体内を撫で回しながら胃に落ちていく。
さっきべろべろの状態で入ってきたユウスケさんという客が、いつの間にかカウンターの隅で泣いている。
「俺だってさ、俺だって好きだったよ。悪いのは俺だよ、知ってるけどさぁ」
モガちゃんは、ユウスケさんの頭を叩いて笑う。
「めそめそすんなよ。あんたみたいにズルい男に泣く権利はないのよ」
「だよなぁ。俺ってやっぱズルいよなぁ。でも一緒にいれないんだよぉぉ」
声が頭の中でハウリングする。やばい、もう無理。俺は壁を伝いながら、店の隅に置いてあるソファにやっと倒れ込んだ。
結末
アルコールの回った頭で草太はぐるぐると考えます。
二番目の彼氏ってなんだよ。デリヘルなんかやめてよ。俺、頑張るから。ちゃんと就職して、ちゃんとお金稼いで、モガちゃんが欲しいものも楽しいことも、全部、全部あげるから。
そこまで考えて、草太はふと気づきます。
やりたいこともなかった、なりたいものもなかった自分が、今、心の底から求めていることに。
ごめん。俺、モガちゃんのこと本気で好きになったみたいだ。
狂乱の一夜が明け、翌朝。草太の隣ではモガちゃんが寝ています。
※以下、小説より一部抜粋
…………
「麗しいに美しい」
「え?」
カーテンの隙間から漏れた日の光に反射し、空気中に浮いた埃(ほこり)がぴかぴかしている。
「麗しいに美しい」
ベッドでモガちゃんは目を閉じたまま、うわごとのように繰り返した。
まだ酔ってんのかな。きゃははは、と子どもたちの笑い声が外から聞こえてきた。
「名前」
わたしの名前よ。麗しいに美しいで、れみ。そう言って、モガちゃんは寝息を立て始めた。
俺は声に出さずに、モガちゃんの本当の名前を繰り返してみる。
麗しいに美しいで、れみ。
就活、しなきゃな。俺はぼんやり天井を見あげてモガちゃんとの将来を想像した。
急に奥歯の付け根が、少しだけ痛んだ。
<おわり>
(パルプ・フィクション)
<僕>がモボの葬式に参列したのは、親しい友人だったから……ではありません。仕事を休む口実になるな、と思ったからです。
いわゆるブラック企業に勤めている<僕>はそれほど疲れ果てていて、大学生の頃の友達の死になにも感じられないほど精神が麻痺していました。
モボは過労を苦にした自殺だったとのことですが、過労というなら<僕>も負けず劣らずの環境に身を置いています。
……訂正。身を置いていました。
葬式からしばらく経って、<僕>は会社を辞めました。
モボの影響というわけでもありませんでしたが、会社を辞めてから<僕>はモボのことをよく考えるようになります。
僕はモボに会いたいと思いました。会って話してみたいと思いました。
モボについて話せる相手といえば、ユウスケくらいしか思いつきません。
大学時代の友達で、今はテレビ局の報道記者。ユウスケは、モボの葬式を連絡してきた張本人です。
※以下、小説より一部抜粋
…………
「しっかしお前が会社辞めたって言うからまじでびっくりしたわ。何、モボの葬式出てかんか変わったとか?」
「そういうわけじゃないんだけどさ。何で自分はやりたくもない仕事を死にそうになりながらやってんだろう、とかは考えたけど」
「まあねえ、使われるときはいっつも若手扱いでさ、怒られるときは逆に何年働いてんだって。都合だけはいいもんな、うえのやつらは」
「どこもそうなんだね。うちもそんな感じだったわ」
(中略)
「仕事辞めて、何か変わった?」
変わったことは、山ほどありました。むしろ変わっていないのは家賃ぐらいのもので、もともとそんなになかった口座の残高は減る一方、このままで大丈夫なのかな、とか思うくせして、バイトをする気すら起きないのです。
一丁前に、漠然とした不安だけが常にこびりついて離れません。どうしようどうしよう、そう思っているうちに今日が終わってしまいます。
どうせだったら、生きるのをやめてしまった方が楽なのではないかとさえ、考えるのです。
でも、そんなことをユウスケに言っても仕方がありません。だから僕は、
「モボのことをよく思い出すようになった」
と言いました。
「モボって死ぬ前何考えてたんだろうとか、彼女いたのかな、いたらもう次の彼氏できたのかな、とか、そんなん、考える。生きてたとき全然仲よくもなかったのに、変だよね。でか、ずるいよね。生きてたときのモボのことなんて、ほとんど俺は知らないのにさ」
僕はそう言って、自分を誤魔化すために、はは、と笑いました。
ユウスケは腕を組んでちょっと黙り、思い出したようにぽつりと呟きました。
「相手が死んでから距離が縮まるってことも、あると思う」
結末
夜の公園。いつも明るいユウスケが、その日は妙に沈んでいました。
「なあ。今日、何の日か分かるか? モボの命日だ」
ユウスケはぽつりぽつりと話し始めます。
※以下、小説より一部抜粋
…………
「俺さ、モボが死んだあと、モボの遺族の取材やらされてたのよ。歳も一緒だし、おっさんたちより気持ち分かんじゃないかって、それだけの理由でさ」
そんなこと、全然知りませんでした。それはモボのお通夜も葬式の日時も知っているはずでした。
「何かさ、仕事とはいえ友達の死をほじくり返すのって、辛いんだな。自分がどんどん汚されていくような気がしてさ。ま、もっときつかったのは、それも感じなくなったときだったけど」
そんなことはない。そんなことはないよ。ユウスケは、ちゃんと仕事をしただけなのです。立派に、自分に課せられた仕事を頑張っただけなのです。
「モボの命日にさ、ひとりでいたくなくって。仕事しているのも嫌でさ、無理やり休みもらったんだ」
そう言うと、ユウスケはぐっとビールを呷(あお)りました。こんな差、いつの間にできたのでしょうか。ユウスケの背中は、いつの間にこんなに遠くなっていたのでしょうか。
僕は、ユウスケに何か声をかけたいと思いました。
ユウスケは、何も間違ってなんかいないのです。
「相手が死んでから距離が縮まるってことも、あると思う」
気づくと、僕は俯いたままいつかのユウスケの言葉を呟いていました。
急に静かになったので気になって顔を向けると、ユウスケは声も出さずに泣いていました。
(中略)
カウンターでとなりに座っていた客にそこまで話すと、その汚い居酒屋を出た。もうとっくに日は昇っていて、街は動き始めている。飲みすぎたせいで頭が痛い。
書こう書こうと思って、まだ一文字も書いていない話。ちゃんとモボのこと書くよ。眠いから今日は寝るけど。明日は絶対書く。あ、明日はバイトだった。じゃあバイトのあと、余裕があったら。
まあ明後日か、明々後日か、明々々後日かもしれないけど。
そうやって、時間ばかりが過ぎていくけど。
<おわり>
まっすぐ立てない
目的もなく山手線に乗った<わたし>は、窓の外に流れる東京の景色をぼんやり眺めていました。
五反田、目黒、恵比寿……田舎から上京してきてはや数年、通り過ぎていく街々にはそれなりに思い出があります。
最強だった大学時代を過ごした街。
ずるずるつき合っている彼氏が働いている街。
行きたくもない合コンに数合わせで呼ばれた街。
あれは三日前、初めて会った男に連れ込まれたラブホテル。
思い出は最近のものになるほど、パッとしないものばかりになっていくようでした。
つまらない毎日。つまらない自分。
今日だってバイトを平気でバックれて、そうしてあてもなく電車に揺られています。どこにもたどり着かない堂々巡りは、いまの生活そのもののようでもありました。
※以下、小説より一部抜粋
…………
本当は気づいてる。もはや東京にいる意味なんて、ない。
ただこのまま何物にもなれずに、何も見つけられずに実家に帰るのがこわいだけだ。認めたくないだけだ。
何者かになることから逃げてるのは自分のくせして。
だから浜松町、田町と過ぎて、品川で新幹線に乗り換えるだけのことが、わたしにはずっとできない。
東京という名の幻想に、まだしがみついていたい。
そんな自分への言い訳のために、わたしはたーくんと付き合ってるだけなのかもな。あーあ。わたしの本当の居場所って、どこにあるんだろ。
いっそ子どもとかできたら諦めもつくのに。ま、どすの利いた生理痛で絶賛苦しんでる真っ最中なんだけどね。
結末
見知らぬ誰かが乗っては降りていく山手線に揺られながら、<わたし>は菜穂のことを思います。
大学で友達になった菜穂はいつも可愛くてキラキラしてて、年々いろんなことが右肩下がりになっていく自分とはまるで正反対でした。
銀行に就職した菜穂。バイトが長続きしない<わたし>
みんなから大事にされている菜穂。友達からも雑に扱われる<わたし>
彼氏が途切れない菜穂。一年つきあった彼氏からプロポーズされたけど、まだ返事できずにいる<わたし>
いいなあ。菜穂の新しい彼氏はテレビ局の記者だったっけ。玉の輿じゃん。
※以下、小説より一部抜粋
…………
また景色が流れはじめて、止まったときには山手線を一周することになる。
そして電車を降りて、改札を出て、家に帰って、ご飯を食べて、お風呂に入って、お肌の手入れをして。
そうやってつまらない毎日がいつまでも続くだけ。
そうして日々を過ごしていれば、いつかミラクルが起こって、自分のやりたいことを見つけて、成功して、最高の人生を。菜穂も、たーくんも、いままでわたしの前を通り過ぎていった奴らも全員、拍手喝采。
代わりなんかどこにもない。わたしはわたし。
もしかしたらそんな現実が、遠くない未来に来る、わけないか。
<おわり>
スクロール
スマホのアルバムを人差し指で思いっきり上方にスクロール。一気に過去の日付にさかのぼっていく無数の画像データは、ユウスケが菜穂とすごした年月そのものでした。
ハロウィンの渋谷を背景にちっとも楽しくなさそうに写っている写真は、初めてのデートで撮ったものです。
お祭り騒ぎのスクランブル交差点で、どうして二人して顔を顰(しか)めているのかというと、
「みんな楽しそうにしてるから、俺らくらいつまんない顔して写ろうよ」
とユウスケが提案したからです。菜穂は「やっぱユウちゃん面白いね」と笑っていました。
告白はその日の別れ際に。ほどなくしてユウスケは菜穂とつきあいはじめます。
バー「とんでもない青」で菜穂に一目惚れしてから、あっという間の出来事でした。
ふざけて不機嫌そうな顔をつくったハロウィンの写真とは打って変わって、それからは笑顔の写真ばかりが続きます。
※以下、小説より一部抜粋
…………
温かい時期には代々木公園で日向ぼっこ、二週連続でUSJとディズニーランドに行った。
秋は江ノ島に、冬は遠出して金沢に旅行にも行った。兼六園でぜんざいを食べた。金沢城の立派な門の前で写真を撮った。部屋に露天風呂が付いている旅館に泊まって、寒い寒いとふたりで叫びながら湯船に浸かっていると、大粒の雪が降りはじめた。
菜穂はその雪を眺めながら、
「また来ようね」
と笑った。
「来年、また同じ時期に来よう」
俺はそう言って、飽きずに雪を眺めている菜穂を見つめた。
近くて遠い
幸せいっぱいだったユウスケと菜穂ですが、やがてその関係に暗雲が立ち込めてきます。
きっかけはモボの自殺でした。原因は過労。モボの死は世間を賑わせるニュースになります。
ほとんどひとりでその取材を担当することになったユウスケは単純に忙しさに追われ、菜穂と会う頻度はみるみる落ちていきました。
モボを悼む気持ちもありました。それなのにモボの母親にマイクを向けて「いまのお気持ちは?」なんて馬鹿げた質問をしなければならない情けなさもありました。
けれど、睡眠時間がどんどん少なくなっていって、三日も寝ていないような状態が続いていて、菜穂との時間が少なくなっていった一番の理由はやっぱり仕事のためだったのでしょう。
いつの間にかユウスケはあれだけ大好きだった菜穂よりも、仕事と睡眠を優先するようになっていました。
この頃から、俺と菜穂がふたりで写っている写真はほとんどない。
※以下、小説より一部抜粋
…………
突然、菜穂が一緒に住みたいと言いはじめた。
「そうすればいつでも会えるよ」
電話越しで笑う菜穂に、俺は何て答えれば良いのか分からない。
「そうだね。仕事落ち着いたら、考えてみる」
そう言うと、
「いつ落ち着くの?」
と菜穂のくぐもった声がした。そんなの、俺に聞かれても分からない。どうせこの件が片づいたって、また次の事件の取材がはじまるだけだ。
「俺だって、やりたくてやってんじゃないんだよ」
「そうだよね。でもユウちゃんが本当にわたしといたかったら、別に仕事大変でも一緒に住めると思うけどな」
なんてごめん冗談だよ、おやすみ。そう言って菜穂は電話を切った、
菜穂は正しいことを言っている。でもその正しさが、俺にはだんだん重くなっていた。
裁判所は異例の早さで、モボは過労による自殺であるという判決を出した。それを境に世間の関心は下火になっていった。
たまに突発の取材があっても、なんとか週に一度は休めるようになった。
会おうと思えば会えるくせに、俺は別の約束を入れて、菜穂には仕事が忙しくて会えないと言った。
そういう嘘を重ねれば重ねるほど、菜穂と会うのが億劫になっていった。
夜中に目を覚ますと、久しぶりに泊まりにきた菜穂が声も出さずに泣いていた。
本当はもっと、俺に言いたいことがあるだろう。本当は海外旅行とか行きたいだろうし、本当は愚痴も不満もいっぱいあるはずだ。
でも菜穂は、一度もそんなことを言わない。
違う。俺が聞こうとしてないだけだ。言わせないようにしてるだけだ。
そのときだって、俺は菜穂が泣いている間、ずっと寝たふりをしていた。
せっかく時間つくって会ってるんだから、泣くなよ。俺だって遊んでるわけじゃないんだからさぁ。まぶたを閉じて、たまに菜穂が洟(はな)をすするのを聞きながら、そんなことを考えてしまう自分が嫌になっていく、
そうしてまた酒を飲み、俺はまた自分を誤魔化してばかりだ。
結末
以下、小説より一部抜粋
「決めた?」
という菜穂の声で目が覚めた。
昨日の夜、寝る前に菜穂はうつむいてばかりいる俺を見て、
「ユウちゃん、何か迷ってる?」
と言った。
「うん」
そう言って黙ると、
「あした、答え聞かせてね」
菜穂は俺の頭をやさしく撫でながら、
「今日は寝よ」
と言った。電気を消すと、菜穂の静かな寝息が聞こえてきた。なかなか寝付けなかった俺も、いつの間にかスマホを持ったまま寝てたみたいだ。
「決めたよ」
俺はそう言って体を起こした。菜穂は黙って俺を見ている。
決めた、決めた、決めた。三回呟くと、
「そんなに決めたの?」
と菜穂が首を傾げた。
うん、そう。決めた。俺、決めたんだよ、菜穂。
「別れる」
「だと思った」
菜穂はそう言って笑った。あきらかに、無理をして笑っていた。
「ユウちゃん、分かりやすいからなー」
と言って菜穂が肩を小突いてくる。ああ、もうこの人と、こんなに優しい人と会うことはないんだな。そう思うと、頬に温かいものが伝った。
「うわ、ユウちゃんが泣くのはずるい」
そうだよね、ずるいよね。俺って、いっつもずるかったよね。分かってる、分かってるんだけど、涙が止まらない。
「よしっ」
と言って菜穂はベッドを降りると、ソファに置いていたバッグから大きなビニール袋を取り出した。
「え、何すんの?」
「捨てるの」
江ノ島で買ったイルカのぬいぐるみも、ビッグサンダー・マウンテンで撮った写真も、金沢上の模型も、いま着てるパジャマも。
「全部?」
「そうだよ、全部だよ」
ユウちゃん、別れるってそういうことだよ。そうだね、別れるって、こういうことだよね。ふたりの思い出を詰め終わって、菜穂はビニール袋の口を器用にしばった。
「ユウちゃんはもったいないことしたなあ」
そのまま会社に向かうために化粧を終えた菜穂が、まだベッドのヘッドボードにもたれたまま、ぼーっとしている俺を見つめて言った。
「わたしみたいにいい子、なかなかいないのに」
うん。
「銀行で働いてるから、お金のこともちゃんとしてるよ」
うん。知ってる。
「料理も上手だよ、デザートだってつくれるよ」
そうだね。菜穂がつくってくれたショートケーキ、好きだったな。
「子どものお世話も得意だよ、いい奥さんになるよ」
菜穂、代々木公園で遊んでる子どもたち眺めるの好きだったもんね。
「でもね、ユウちゃんはわたしと別れるの」
おーわった。菜穂はそう言うと、振り返りもせずに家を出て行った。
エピローグ
それから二年後、菜穂は銀行の同僚と結婚して子どもができた。双子らしい。
菜穂と、生まれて間もないふたりの赤ちゃんが昼寝をしている写真を、この前インスタで見かけた。
俺は俺で、やっと報道から脱出を果たし、念願叶ってドラマ制作センターに配属された。
いまはプロデューサーとして、次クールの連ドラのキャスティングに悩まされながら、スタイリストの可愛らしい彼女と付き合っている。
ここのところまた、二週間に一度くらいのペースで『とんでもない青』に顔を出すようになった。
誕生日パーティーで見たモガの新しい彼氏は、思ったより誠実そうでモガのくせにいいおとこ捕まえたな、と思った。
(中略)
大体、そんな感じ。何だかんだでそれなりに楽しい毎日を過ごしてるけど、それは他の人との幸せであって、俺と菜穂、ふたりの幸せではない。
<おわり>
感想
表題作『スクロール』のクライマックス、別れ話のシーンは実に切ないものでした。
作中ではユウスケの心情が語られていますが、注目していただきたいのは菜穂の描写です。
バッグにビニール袋を準備していた菜穂は、別れを予感していたのでしょう。でもそれは覚悟ができていたという意味ではきっとなかったはずです。
「別れよう」と切り出されて、菜穂は無理に笑顔をつくります。本当は別れたくない、でもしょうがない、泣いてなんかやるもんか、いろんな感情がぎこちない笑顔の裏に透けているようです。
そうして菜穂はふたりの思い出の品を捨て、化粧をし、「おーわった」とせいせいしたような調子で家を出て行きます。振り返らず。
後ろ髪を引かれる気持ちがなかったわけがありません。それでも菜穂は美しく去っていきます。ユウスケからは見えない正面で、菜穂はどんな表情をしていたのでしょうか。
「わたしみたいないい子、なかなかいないのに」菜穂が言い残したセリフは、逃した魚は大きかったとユウスケに後悔させるためだったのでしょうか。それともわたしこそ最高の彼女だったのだとユウスケの記憶に刻むためだったのでしょうか。
菜穂でも作者でもないわたしには想像することしかできません。ただ、とてもじゃないですが「悲しい」「悔しい」「大好き」なんて単調な言葉じゃ言い表せないこのときの菜穂の気持ちを思うと胸が苦しくなります。
……と、ここでエンドマークが打たれてもよさそうなものですが、『スクロール』では後日談が語られていました。
菜穂は同僚の銀行員と結婚。ユウスケにも新しい彼女ができています。現実ってこうだよなあ、と率直に思いました。
菜穂にとってもユウスケにとっても、ふたりの思い出は過去。ちょっとした胸の痛みをともなうのは数年のうちだけで、やがては楽しかった思い出としてかたちを変えていくのでしょう。
20代前半のリアルを描いた物語。いままさに渦中にいる人はきっと共感(ときには教訓)とともに、わたしを含めた通りすぎた人には懐かしさとともに読むことのできる短編集でした。
わたしが一番好きだった短編は『麗しいに美しい』でした。モガちゃんカッコよすぎるし、こういう歪んでそうで真っすぐな純愛ってすごくいい。幸せになってくれ。
小説『スクロール』を読みました❗️
“仕事も恋愛も、流されるままに何となくこなして、他人のせいにして、酒飲んで酔っ払って、みんなもこんな感じなのかな。これからも俺はこんな感じなのかな”
20代前半の葛藤を描いた短編集#北村匠海 #中川大志 で映画化
⬇️あらすじと感想https://t.co/RIm4Fp65xd— わかたけ@小説読んで紹介 (@wakatake_panda) December 24, 2022
まとめ
今回は橋爪駿輝『スクロール』のあらすじネタバレ解説(と感想)をお届けしました。
5つの短編の登場人物はみんな悩み多き20代前半の若者です。
仕事に恋愛、物語のようにはうまくいかないことばかり。
それでも人生は続いていくし、食べて寝て生きていかなければならないわけで……。
とうに20代前半を通りすぎた身としては、そんな彼らの葛藤ごと輝かしく懐かしく思われました。
映画情報
キャスト
- 北村匠海(僕)
- 中川大志(ユウスケ)
- 松岡茉優(菜穂)
- 古川琴音(私)
公開日
2023年2月3日公開
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