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『マチネの終わりに』あらすじネタバレ|切なすぎる結末【映画原作】

『たった三度出会った人が、誰よりも深く愛した人だった』

40歳前後の男女が織り成す、切ない大人の恋愛。

あの切なすぎるラストには心が震えました。

今回は映画化もされた平野啓一郎「マチネの終わりに」のあらすじ・ネタバレをお届けします。

「マチネの終わりに」あらすじネタバレ!

小説「マチネの終わりに」は全9章構成。

今回は第1章から最終章まで、章ごとに区切って内容をお伝えします。

ちなみに「マチネの終わりに」の『マチネ』とは『演奏会』という意味。

厳密には舞台用語で、午前~昼の公演を「マチネ」、夕方~夜の公演を「ソワレ」といいます。

第1章 出会いの長い夜

2006年11月。

東京・サントリーホール。

蒔野聡史(38)のコンサートは大盛況のうちに幕を閉じた。

もともと蒔野は天才クラシックギタリストとして業界では知られた存在だったが、その日の公演は特に歴史に残る名演として後世まで語り継がれることになる。

運命の2人が出会ったのは、コンサート終演後の楽屋でのことだった。

レコード会社の担当者である是永慶子と一緒に楽屋を訪ねてきた女性の名前は小峰洋子(40)

フランスRFP通信の記者で、著名な映画監督であるイェルコ・ソリッチ監督の娘。

ソリッチ監督の映画『幸福の硬貨』の大ファンだった蒔野は、洋子の生まれを知ると「お父様のことは本当に尊敬しているんです」とにわかに興奮した。

一方、洋子は蒔野の音楽のファンだった。

映画『幸福の硬貨』のこと。

今日のコンサートのこと。

相手をくすりとさせるちょっとしたユーモア。

初対面にも関わらず、2人の会話は尽きることがない。

それは、最初だからというのではなく、最初から尽きない性質のものであるかのようだった。

時間はあっという間に過ぎ、蒔野と洋子はそのまま打ち上げ会場へと移動した。

そこでも2人の会話は止まらない。

惹かれ合う、とはまさにこのこと。

蒔野と洋子はまるで20年来の親友同士であるかのようにお互いの考えを理解できたし、お互いに対して強い尊敬と憧れの感情を抱いた。

そうして蒔野と洋子の語りあいは、お開きになる深夜2時30分まで続いた。

店から出る。

タクシーに乗りこむ洋子を、蒔野が見送る。

2人はそれぞれ「朝まで一緒にいたい」と言い出すかを迷って、ついにそれを口にしないまま別れた。

……洋子にはアメリカ人の婚約者がいる。


第2章 静寂と喧騒

2007年2月。

蒔野は音楽活動に心底うんざりしていた。

俗にいうスランプ状態なのかもしれない。

その兆しは、誰もが喝采を送ったサントリーホールでの公演のときにはすでに存在していた。

誰もが感動した名演。

しかし、蒔野だけは「未来がない」と感じていた。

本当に高みに登れているのか?

ちゃんと成長できているのか?

それは10代で鮮やかにデビューし、天才の呼び声をほしいままにしてきた蒔野にとって初めての迷い。

その不安は孤独となり、誰にも理解されないことへの苦しみを蒔野の内側にもたらした。

……今、洋子はどうしているのだろうか?

洋子は現在、ジャーナリストとしてイラク・バグダッドの地にいるという。

連日のように流れるテロのニュース。

洋子が働くオフィスのあるビルも、先日自爆テロの標的になったと報道されていた。

その日から、洋子からはメールの返事がない。

第3章 《ヴェニスに死す》症候群

自爆テロが実行されたとき、洋子はロビーから上階行きのエレベーターに乗り込んだばかりだった。

ロビーは爆破されたが、幸いにもエレベーター内は無事。

間一髪のところで、洋子はテロに巻き込まれずに助かった。

……少なくても、肉体的には。

あと数十秒ロビーに留まっていたら、洋子の命はなかった。

その体験は洋子の心に深刻な傷を刻んだ。

自宅のあるパリに戻ったあと、洋子はPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されることになる。

それでも洋子はジャーナリストとしての使命感から、任期が終わるまではバグダッドで優れた仕事をした。

心身を壊しかけながら仕事を続ける洋子の頭に浮かんだのは、父の言葉。

《ヴェニスに死す》症候群。

ソリッチ監督の造語であるその言葉の定義は『中高年になって突然、現実社会への適応に嫌気が差して、本来の自分へと立ち返るべく、破滅的な行動に出ること』

自分がバグダッドに訪れたのは、記者としての使命感からか?それとも破滅願望によるものだったのか?

……自分に問いかけてみても、答えは返ってこない。

漠然とした焦燥と不安の日々の中で、洋子の精神を支えたのは蒔野の音楽だった。

蒔野の音楽だけが洋子の心を癒し、辛い体験をひと時のあいだ忘れさせる。

「蒔野に会いたい」と洋子は思った。

しかし、その一方で、蒔野からのメールには返信しなかった。

(今、返信を出したら、きっと制御不能になってしまう)

帰国後は婚約者のリチャードと結婚する予定だ。

子供を産み育てる、新しい人生が待っている。

蒔野への気持ちを許すわけにはいかない。


第4章 再会

洋子からメールが届いた。

蒔野の来仏の予定に合わせてパリで会えないか、という一文に蒔野の胸は躍る。

蒔野は6月3日にスペイン・マドリードのフェスティバルに招待されており、その後、パリの音楽学校でマスタークラスを受け持つことになっていた。

週末の最終日には、行内のホールで学生らを含めた午後の演奏会(マチネ)が催される予定で、年明けのメールでは、それに洋子も招待していた。

蒔野はスケジュールを調整して、往路も経由地のパリに滞在することにした。

もちろん少しでも長く、少しでも早く洋子と会いたかったからだ。

この頃になると、蒔野はすでにはっきりと洋子を愛していることを自覚している。

とはいえ、再会には一抹の不安もあった。

自分は洋子から愛されるに足る男なのか?

婚約者から洋子を奪い取ろうとする身勝手な愛をどうするべきなのか?

音楽家としての不調が、蒔野の苦しみを一層加速させていた。

一方、洋子もまた迷いの霧の中にいた。

問題はリチャードとの婚約について。

そもそも洋子がリチャードと結婚しようと思ったのは、彼が生活をともにできる人間で、またよき父親になれるだろうと考えたからだ。

そこに激しい恋情が介在していたわけではない。

もう40歳なのだ。

若者とはパートナーを判断する基準が違う。

洋子にとってリチャードは決して妥協した相手というわけではなく、肉体的・精神的に不足のないパートナーだった。

本来ならば、そこには何の問題も存在しないはずだった。

……ところが、今、洋子の胸のうちには蒔野への渇望にも似た愛がうず巻いている。

久しく忘れていた激しい恋情。

リチャードへの罪悪感を抱きつつも、洋子は蒔野を想うことを止められなかった。


そうして、ついに再会の日が訪れた。

蒔野がパリに到着した日の夜。

待ち合わせ場所は洋子が予約したレストラン。

会うのはまだ2度目だったが、メールで深いやり取りを交わしていたので距離感は感じない。

蒔野と洋子は、お互いへの愛を抱えている。

それも大きな愛を。

しかし、それを素直に表現することはできない。

なんといっても洋子には婚約者がいるのだ。

自制が、理性が、しがらみが、年齢が、相手への憧れと尊敬の感情が、2人の心の中で壁となり、恋の炎に待ったをかけた。

最初に口火を切ったのは、蒔野の方だった。

「地球のどこかで、洋子さんが死んだって聞いたら、俺も死ぬよ」

それはイラクで心に傷を負った洋子の、PTSDによる突発的な自傷を心配しての言葉だったが、蒔野は言外にたっぷりと「愛している」というメッセージを含ませていた。

当然、洋子もその真意に気づく。

「わたし、結婚するのよ、もうじき」

「だから、止めに来たんだよ」

それは洋子がずっと聞きたいと心待ちにしていた言葉だった。

歓喜の瞬間。

しかし、洋子は同時に葛藤し、煩悶した。

実のところ、洋子は「リチャードの子供を妊娠しているかもしれない」と疑っていたのだ。

(よりにもよって、今、この言葉を聞かなければいけないだなんて!)

もし本当に妊娠しているのなら、リチャードと結婚するより他にない。

しかし、もし妊娠していないのなら、蒔野への感情に素直になりたい、と洋子は考えていた。

いずれにせよ、今、この場では答えは出ない。

「難しいことはわかってる。でも、出会ってしまったから。その事実は、なかったことには出来ない。小峰洋子という一人の人間が、存在しなかった人生というのは、もう非現実なんだよ。洋子さんを愛してしまってるというのが、俺の人生の現実なんだ」

「………」

本来ならばうっとりと聞けたはずの言葉。

今すぐに「私も愛している」と伝えられないもどかしさに、洋子は唇を噛んだ。

そうして、蒔野に告げる。

「マドリードから戻るまで、時間をくれない? それまでには、はっきりさせるから」

妊娠を確かめるための時間稼ぎ。

しかし、蒔野の耳にはいくらか否定的な言葉であるように聞こえた。

「強引すぎたね。……伝えたかったことは伝えたけど、もっとうまく言える気がしてた」

自嘲気味に笑う蒔野。

洋子は何度も首を横に振りながら、蒔野の心を遠ざけてしまったと絶望した。

「うれしかった。本当に。わたしがよくないの。ごめんなさい……」

蒔野は、しかし、このやりとり自体に耐えられなくなったかのように、ただ「行こうか」と言って立ち上がった。


第5章 洋子の決断

スペイン・マドリードでの蒔野の演奏は精彩を欠いていた。

パッとしなかったと言ってもいい。

蒔野の胸には、洋子がどのような決断を下すのかという不安と、音楽に対する手ごたえのなさが去来していた。

(洋子が隣にいてくれたら、きっと何もかも解決するのに…)

そう思ってみても、切なくなるだけだった。

1週間後、パリの音楽学校での演奏会。

マチネは全体的には蒔野の集大成とすらいえる最高の完成度を誇ったが、最後の一曲だけは例外だった。

音楽が手からこぼれ落ちていく感覚。

代名詞ともいえる得意曲の途中で、蒔野は突如として演奏する手を止めた。

いや、正確には「演奏することができなくなった」という表現の方が正しい。

楽器の問題でも、身体的な問題でもない。

蒔野はすっかり音楽を失ってしまっていた。

予想外の事態に最も戸惑っていたのは蒔野自身だ。

蒔野は何が起きたのか分からずしばし呆然とし、音楽が戻ってこないと悟ると、一礼して舞台から降りた。

コンサートは失敗。

この後、蒔野聡史はしばらく表舞台から姿を消すことになる。

数年間に及ぶ活動休止期間の始まりだった。

マチネの客席には最初から最後まで、招待したはずの洋子の姿はなかった。

その代わり、蒔野が楽屋に戻ると、携帯電話に洋子からのメッセージが届いていた。

彼女は「理由を説明するためにも、今晩、うちに来てほしい」という。

蒔野はとっさに悪い想像をした。

つまり、洋子の部屋には例の婚約者もいて、自分はこれから求愛を断られるのだ、と。


その日の夜、蒔野は洋子のアパルトマンを訪ねた。

想像通り、洋子の他にも人の気配がする。

しかし、その人物の正体は、蒔野が予想だにしていないものだった。

洋子の部屋にいた女性の名前はジャリーラ

イラクで洋子の同僚として働いていた、現地のスタッフだ。

ジャリーラは身の危険を感じてイラクから亡命しようとしたが、経由地であるフランスで捕まった。

洋子が演奏会に来られなかったのは、ジャリーラを保護するため空港に出向いていたからだった。

蒔野と洋子、そしてジャリーラの3人で夕食を囲む。

気落ちしているジャリーラのために、蒔野は食後にギターを弾いてみせた。

演奏会のときとは違って、自然に指が動く。

リラックスした時間の中で、蒔野は久々に演奏することを「楽しい」と感じた。

食後の小さなコンサートの締めくくりは、洋子がイラクで毎日聞いていたという『幸福の硬貨』のテーマ曲。

映画のラストシーンを再現するように、蒔野は洋子による詩の朗読に合わせてギターを奏でた。

ふと見やると、ジャリーラは声もなく泣いていた。

ジャリーラを寝かしつけると、リビングには蒔野と洋子の2人きり。

いよいよ保留にしていた『答え』を、蒔野に告げる時間。

「蒔野さんがマドリードにいた間に、彼と話したの」

「………」

他に好きな人ができたから、婚約を解消させてほしいって、そう伝えた。その人と一緒に生きていきたいからって。その報告をしたかったの、今日は」

蒔野は息を呑んで、微動だにしなかった。

覚悟していたものとは、真逆の宣告。

蒔野は婚約解消という重荷を洋子に背負わせてしまったことに心を痛めながらも、愛が叶った幸福のままに彼女を抱擁した。

2人は唇を重ね、身も心も一つになりたいと強く感じたが、隣室で眠るジャリーラに配慮して一線は越えなかった。


第6章 消失点

蒔野は幸福の絶頂の中、日本へと帰国した。

寝ても覚めても洋子のことを考え続ける日々。

愛を中心にした蒔野の新世界は、それまでの日常とは比べ物にならないほど輝いていた。

しかし、光が強くなるほどに影もまた濃くなる。

至上の幸福を手に入れたからこそ、蒔野はギタリストとしての停滞に耐えられなくなっていった。

音楽は蒔野にとって『生』の一部であり、『愛』によって代替できるものではなかったのだ。

「このままでは、いずれ洋子との愛の生活さえ享受しえなくなる」という確信にも似た予感。

蒔野は大きな不安にとりつかれていたが、音楽家としての不調を洋子には打ち明けなかった。

スランプは自分にしか克服できないものだと考えたからだった。

一方、洋子もまた問題を抱えていた。

リチャードが婚約破棄を断固として拒絶していたのだ。

リチャードは手を変え品を変え洋子の心を取り戻そうとしたし、共通の友人たちやリチャードの家族は「考え直した方がいい」と洋子を説得した。

洋子はときおり情にほだされそうになったし、なりふり構わないリチャードの態度に心を痛めた。

翻意を促す彼らの説得の中で、洋子は「まだ正式なプロポーズを受けたわけじゃないんでしょう?」という言葉に敏感に反応した。

今でこそ洋子は心のままに蒔野を愛しているが、この先どうなるのかという不安は確かにぬぐえない。

なにせ、洋子と蒔野はまだたった3回しか会ったことがないのだ。

しかも、肉体的な関係すらもない。

蒔野との将来について考えるとき、洋子はどうしても不安を取りのぞくことができなかった。

8月29日。

その日は蒔野と洋子が指折り数えて待ち望んだ日だった。

夏季休暇を利用して、洋子が東京に来ることになっていたのだ。

一週間の休暇の中で、蒔野は洋子の実家がある長崎に行く予定になっていて、つまりは母親との顔合わせを兼ねていた。

結婚について具体的に話し合い、新しい生活のための準備を整えるための輝かしい1週間。

なにより恋人たちは、最愛のパートナーとただ一緒にいられるということを楽しみにしていた。


そんな特別な8月29日に、蒔野の恩師である祖父江が脳出血で倒れた。

祖父江の娘の奏から一報が入ったのは、洋子が日本に到着する前のこと。

蒔野は慌てて病院へと駆けつけたが、気が動転していたためタクシーの中に携帯電話を置いてきてしまった。

これでは洋子に連絡することができない。

一方、祖父江の手術は始まったばかりで、おそらく夜までかかるものだと思われた。

病院から離れるわけにもいかない。

困りはてた蒔野は、マネージャーの三谷早苗(30)に連絡し、「申し訳ないけれど」と断って携帯電話を取りに行ってもらうことにした。

三谷早苗は献身的に蒔野を支えるマネージャーであり、蒔野もまたそんな早苗のことを信頼している。

しかし、今回に限っては、そんな2人の信頼関係が裏目に出た。

蒔野は気づいていなかったが、早苗は蒔野に好意を寄せていたのだ。

携帯を受け取った早苗が教えられた暗証番号でロックを解除すると、表示されたのは洋子からのメッセージ。

どうやら洋子は東京に来ているらしい……。

早苗は蒔野が洋子に熱をあげていることを当然知っていたし、そのことについて嫉妬心を燃やしていた。

だから、蒔野がいつになく「悪いけど携帯電話をとってきてほしい」と頼んできた理由が洋子と連絡するためだと知るや否や、早苗の中にはドス黒い感情が沸き上がった。

蒔野と洋子を合わせたくない。

嫉妬に支配された早苗は、無我夢中で勝手にメールを作成した。

『連絡、遅くなってごめんなさい。あなたに謝らなければならないことがあります。

ギリギリまで、ずっと悩んでいたのですが、僕はやっぱり、今回、あなたに会うことはできません。

あなたとの関係が始まってから、僕は自分の音楽を見失ってしまっています。

あなたのことがずっと好きでしたが、この先もそうである自信が持てません。だったら、後戻りができるうちに、ケジメをつけるべきだと思いました。

会ってしまうと、僕はまた自分を偽り、あなたを騙してしまうでしょう。

ただの友達として、また再会できる日を楽しみにしています。でも、しばらく気持ちを整理する時間が必要です。

あなたに会えたことを感謝しています、ありがとう。さようなら。

蒔野聡史』

送信。

早苗はメールを送った後で「なんということをしてしまったんだ」と激しく後悔したが、すべては後の祭り。

苦し紛れに送信履歴からメールを削除したが、結論からいえばその必要はなかった。

気が動転していた早苗は携帯電話を水たまりに落としてしまい、蒔野に届ける前に壊してしまったのだ。

……この点に関しては、故意ではなかった。

早苗は病院に到着するなり、携帯電話を壊してしまったことについて謝罪した。

蒔野はもともと無理を言ったという自覚があったのだろう。

早苗を責めるようなことはしなかった。

蒔野は仕方なく早苗の携帯電話から洋子にメールを送らせてもらうことに。

ところが、早苗はそのメールを送信したと見せかけて削除してしまった。

……この点に関しては、もちろん故意に。

蒔野はまさか自分のメールが削除されたとは思いもせず、それどころか洋子が偽のメールを受け取っていることなど考えつきもしなかった。


一方、その頃、洋子はホテルの一室にいた。

端的に言って、コンディションは最悪。

蒔野から送られてきた「別れのメール」に絶望したのはもちろん、その精神的なショックが引き金となってPTSDが急激に悪化してしまっていた。

もし洋子がいつもどおりの聡明さを発揮できていたならば、あるいはメールの文章の不自然さにはっきりと気づけたかもしれないし、会って話をするために行動をおこせていたかもしれない。

しかし、洋子にはそれができなかった。

自爆テロの記憶が鮮明にフラッシュバックし、恐怖心に心が支配される。

そんな状態で、いったい何ができたというのか?

発作が少しおさまってきた深夜2時30分。

洋子からの返信がないことをいぶかしんだ蒔野からメールが届いた。

『夜送ったメール、読んでくれた?せっかく来てくれたのに、こんなことになってしまって、本当に申し訳ないです。

事情が事情だけに、洋子さんならきっと理解してくれると信じてるんだけど…。

状況的には、前のメールで説明した通りです。

今はホテル? ゆっくりして、落ち着いたら電話くれる?

今後の相談は、またその時に。僕ももう、休みます。

蒔野聡史』

蒔野は謝罪したかったのは「祖父江の件で迎えに行けなかったこと」だったが、洋子の目には「急に別れを切り出したこと」への謝罪に見える。

蒔野が早苗の携帯電話から送った(つもりの)メールの続きとして書いた文章は、なんということか、早苗が送った「別れのメール」の続きとして読んでも違和感がないものだった!

決定的なすれ違いが、ここに成立してしまう。

1通目のかしこまった文章から一転して、普段通りの口調に戻った2通目。

洋子はその変化を「蒔野の中ではもう私たちの関係は終わっているのだ」と解釈し、静かに諦めの心境へと至った。


翌日。

その後も少しだけ続いた2人のメールのやりとりは、ついに誤解を解くことなく洋子が一方的に打ち切った。

そして、洋子は1人で長崎へ。

穴が開いたような心の空白に、とめどもなく寂しさが染み出てくる。

けれども、長崎での穏やかな時間の中で、悲しみは少しずつ薄まり、遠ざかっていく。

そうして洋子はついに「蒔野への想いを吹っ切るべきだ」という結論に至った。

一方、東京の蒔野。

洋子からの音信不通が数日間続いたことで、蒔野もとうとう悟らざるをえなかった。

(洋子から拒絶されている。別れることになるだろう)

しかし、いくら考えてみても洋子の急な心変わりの理由はわからなかった。

蒔野は「せめて最後は穏やかに言葉を交わし、友人としてでも関係を続けていきたい」と思ったが、洋子に連絡する手段はない。

がむしゃらに洋子を探すという考えも浮かんだが、それも洋子の品位を貶めるように思われて気が進まない。

結局、蒔野は洋子からの連絡を待つことに決めた。

それから2週間後、蒔野に洋子からのメールが届いた。

その内容は非常に短く、リチャードというフィアンセとよりを戻し、結婚したとだけ書かれてあった。


第7章 愛という曲芸

2年後。2009年。

洋子はアメリカ・ニューヨークのチェルシーにいた。

リチャードと結婚し、今は語学学校でフランス語を教えつつ、近所のギャラリーでも働いている。

1歳になる長男・ケンドリック(ケン)の育児にも忙しい。

リーマンショック(2008)から1年。

洋子はリチャードが開発に携わった金融商品の是非を巡って、彼と対立。

夫婦関係は時とともに冷え切ったものへと変わっていった。

やがてリチャードはつきあいのある銀行のヘレンと浮気をし、最後には「ヘレンと再婚するから離婚してほしい」と洋子に告げた。

直接的な原因は彼の仕事(金融商品)に対する考え方の違いだったが、その根底には蒔野との『浮気』のことや、リチャードの洋子に対する劣等感などがあったのだろう。

洋子は諦めとともに、もうすぐ夫ではなくなる男の申し入れを受け入れた。

一方、蒔野。

洋子との運命的なすれ違いの後、蒔野は早苗と結婚した。

洋子に抱いた身を焦がすような愛を、蒔野は早苗には抱いていない。

その代わり、献身的に支えようとしてくれることへの感謝にも似た愛を、蒔野は早苗に抱いていた。

蒔野はしばらくギターに触れてさえいなかったが、ようやく復帰を決意する。

旧知のギタリストである武知文昭とのデュオコンサート。

2010年春の演奏会に向けて、蒔野はリハビリを開始した。

1年半のブランクは重かったが、それでも蒔野は特訓を重ね、順調に回復していく。

そして、コンサート初日の朝。

蒔野は早苗が妊娠していることを知る。

新しい人生のために、洋子への未練を断ち切り、コンサートを成功させなければならない、と思った。


第8章 真相

リチャードとの離婚が成立した。

アメリカの通例として、ケンは洋子とリチャードの家を行き来しながら育てられることになる。

洋子はケンといられる時間が半分になってしまったことを悲しみながら、久しぶりの独り暮らしを始めた。

ふとしたきっかけで、洋子はしばらく遠ざけていた蒔野の音楽活動の近況について知る。

デュオコンサートは盛況らしく、追加公演まで決定しているらしい。

蒔野が発表した比較的新しいアルバムを手に取ると、そこには献辞として次のような一文が添えられてあった。

『このアルバムを、親愛なるイラク人の友人ジャリーラと、その心優しい、美しい友人に捧げます』

アルバムの発表時期は、蒔野から別れを告げられた時期の少し前。

……果たして蒔野は、あのとき本当は何を思っていたのだろうか?

2010年夏。

洋子は夏季休暇を利用して、ケンとともに日本を訪れていた。

数日を長崎の実家で過ごした後、東京へ。

ケンを母親に預けると、洋子は意を決してコンサート会場へと足を向けた。

蒔野と武知によるデュオコンサートの追加公演。

チケットを買ったところで、洋子は背中から声をかけられた。

一目で妊婦だとわかる、早苗だった。


どうしても話がしたい、という早苗と一緒にお茶をすることに。

探るような世間話が終わると、早苗は覚悟を決めたような表情で本題を切り出した。

今日のコンサート、洋子さんには来ないでほしいんです。お願いします。チケット代は、お返ししますから」

「ただのファンなのよ、蒔野さんの音楽の。あなたに許可を求めないといけないことなのかしら?」

洋子は柔らかに微笑んだが、内心ではドキリとしていた。

本心では、蒔野との再会に、何らかの期待がなかったとは、おそらく言えなかった。

「会場にいてほしくないんです。洋子さんに気づいたら、蒔野は音楽に集中できなくなります。だから、困るんです」

「大丈夫よ。すごく後ろの席だから。もうずいぶんと、彼とは会ってないんだし…」

「どこに座ってても、洋子さんがいたら、蒔野は絶対に気づきます。絶対に」

早苗の様子はどこか尋常ではなかった。

要するに早苗の主張は「蒔野はようやく音楽的に回復したばかりだから、それを邪魔しないでほしい」というものだったが、その裏には別の感情が見え隠れしている。

……さて、どうするべきか。もしかしたら早苗がいうようにコンサートに行くべきではないのかもしれない。

洋子が長く沈黙していると、早苗はさらに追い打ちをかけるように、次のように言った。

「洋子さんには、何も悪いところはないんです。ただ、洋子さんとの関係が始まってから、蒔野は自分の音楽を見失ってしまったんです」

洋子は、その言葉を耳にするや、顔色を失った。

そして、愕然とした面持ちで早苗を見つめた。

3年前、蒔野から送られてきた「別れのメール」の文章と同じ言い回し!

 

「……あなただったのね?」

 

早苗はようやく自分の失策に気づいた。口元に手をあてがいかけるが、もう遅い。最後は動揺を隠すように唇を噛みしめた。

「あなたが、あのメールを書いたのね?」

何の話か、わからないふりをするのは、もう手遅れだった。

早苗は洋子の眼差しに射すくめられ、あまりにも正直に、すでにその表情で、自らの罪を認めてしまっていた。

誤魔化すことはできないと悟った早苗は、それまで抱えてきた秘密の一切合切を、包み隠さずにしゃべった。

まるで、罪の重さから逃げるように。

そして、最後にこう言った。

「洋子さんを騙してしまったのは…申し訳なかったと思います。でも、洋子さんには、洋子さんの素晴らしい人生があるじゃないですか。私の人生は、蒔野さんを奪われたら。何も残らないんです! とにかく、どんな方法でもいいから、彼のそばに居続けたいと思ってました。たとえそれが、人として間違っているとしても。……だからお願いします。今日はコンサートには来ないでください。もう彼の人生に関わらないでください。今はもう、彼とわたし、それに新しく生まれてくる子供の人生があります」

洋子は、早苗が語り終えるまで、ただの一言も発しなかった。

その胸の内に宿ったのは、憎悪ではなく空虚。

(……いったいなぜ、こうなってしまったのかしら?)

自問自答してみても、答えは出ない。

虚しさに支配された心のまま、洋子は低い声で尋ねた。

「それで、…あなたは今、幸せなの?」

「はい、すごく幸せです」

きっぱりとした答え。

洋子は小さく頷くと、テーブルの上に買ったばかりのチケットを置いた。

早苗は驚き、やがて慌てて財布を取りだそうとしたが、洋子はそれを制した。

「あなたの幸せを大事にしなさい」

早苗を残して店から出る。

ホテルの部屋に戻ると、洋子はベッドに突っ伏して、ようやく、誰はばかることもなく号泣した。

洋子は蒔野に「あの日の真実」を伝えて、誤解を解きたいと思った。

しかし、ふくらんだ早苗のお腹を思い出し、そうするべきではないと思った。

子供には罪はない。

何も知らせずに、蒔野にあの子の父親として幸せに生きてもらうことをこそ願うべきではあるまいか。

洋子はそれを、自分の彼に対する愛の最後の義務だと信じることにした。


一方、蒔野。

武知とのデュオコンサートツアーは、好評のうちにすべての日程が終了。

音楽家としての危機(スランプ)はどうにか脱したと、蒔野は手ごたえを感じていた。

そんな中、突然舞い込んできた武知の訃報。

音楽家としてずっと芽が出ず、才能もないと自認していた武知は、最後は自ら命を絶ったという。

スランプに苦しんでいた蒔野をずっと励ましてくれていた武知の急逝。

それは蒔野だけではなく、早苗にも大きな衝撃を与えた。

善人を絵にかいたような武知が亡くなったことをきっかけに、早苗は自分の罪深さから目を背けられなくなっていく。

そうしてついに、早苗は罪の意識に耐えられなくなった。

「祖父江先生が倒れたときのこと、覚えてる? タクシーの中に携帯を忘れて、わたしが取りに行って。あのときね……」

真実の告白。

このとき蒔野は初めて真相を知り、そしてようやく納得した。

不自然な洋子の心変わり。

その理由は、早苗が送った偽のメールだったのだ。

真実を知った蒔野は、まず早苗に同情した。

自己犠牲といえるほど早苗が甲斐甲斐しく蒔野の面倒を見ていたのは、罪の埋め合わせのためだったのだ。

早苗はいったいどんな気持ちで偽のメールを送り、どんな気持ちで秘密をひとり背負い込んでいたのだろう?

騙されていたはずなのに、蒔野は瞬時に、妻を憎むことができなかった。

二年半。積み重ねてきた夫婦生活。

蒔野はすでに早苗のことを深く愛していた。

そのことに、皮肉にも彼は、このとき改めて気づかされたのだった。

「話は分かったから。……とにかく、今は子供のことを一番に考えて」

蒔野は「早苗が今、罪を告白したのは、子供ができたことでもう捨てられないと思ったからではないか?」と思ったが、結局、もしそうだとしても別れるという選択肢がないことには変わりない。

失ってしまった時間や愛は取り戻せないし、現実として早苗のお腹の中には新しい命があるのだから。

10月14日。

蒔野聡史と早苗の夫婦には、2800グラムの女の子が生まれた。

早苗はそれから2週間考え続けて、娘には「優希」と名づけた。


第9章 マチネの終わりに

2011年。

娘の優希が誕生したことで、蒔野の意識は大きく変わった。

洋子と結婚していたら、この世には生まれてこなかった命。

蒔野はすべてにおいて娘の幸福を最優先するべきだと感じた。

そして、現在が幸せである以上、妻を許すべきだと自分に言い聞かせた。

3.11を機に妻子を早苗の実家がある福岡へと帰らせると、蒔野は復帰後初の単独コンサートに挑み、これを成功させた。

一方、洋子。

洋子は人権に携わる国際的NGOに転職していた。

ジュネーヴ支部とニューヨークの自宅を往復する日々。

最初こそ疲弊したものの、その生活は洋子を充実感で満たしていった。

2012年。

蒔野は新盤を発表。そのアルバムは数多くの賞を受賞し、世界的な大ヒットを見せた。

もはやスランプに苦しんでいた時期の面影はない。

音楽的な感性を取り戻した今、蒔野はふと、洋子ともう一度会って話がしたいと思った。

必ずしも愛を取り戻すためではない。

洋子は蒔野にとって良き理解者であり、その関係が恋人や夫婦でなかったとしても特別な存在には違いないのだ。

5月某日、ニューヨークでのコンサートの日。

蒔野はスランプ以前の「完璧」と評された音楽からさらに進化した、温かみのある豊かな音色で会場の心を一瞬で鷲掴みにした。

蒔野は洋子がジュネーヴで働いていると知っていたので、まさか洋子の自宅がまだニューヨークにあり、しかもコンサート会場の1階後方に彼女が座っていることなど、まったく知らなかった。


一方、洋子。

さらなる高みへと上ったことをありありと感じさせる蒔野の音楽に、洋子は心の底から惹きつけられた。

だからこそ、蒔野に会ってはいけないと洋子は思った。

蒔野にも自分にも愛する子供がいる。

その生活を壊してはならない。

もともと、蒔野への気持ちに区切りをつけるためにコンサートに来たのだから。

……しかし、それでも。

せめて、このコンサートが終わるまでは彼への愛に留まっていたい。

これまでたった3度しか会ったことがなく、しかも、人生で最も深く愛した人。

このときが永遠に終わらなければいい、と洋子は願った。

コンサートが拍手のうちに幕を閉じる。

2度目のアンコールに応えて、再び舞台に登場した蒔野は、この日初めてマイクを手にして、英語で話を始めた。

まずは感謝の気持ち。

次に「このあとはセントラル・パークを散歩するつもりだ」という雑談。

最後に蒔野は、視線を1階席の奥へと向けて、こう言った。

「それでは、今日のこのマチネの終わりに、みなさんのためにもう1曲、特別な曲を演奏します」

洋子は息を呑んだ。

蒔野がこちらを見ている。

聴衆には「みなさんのために(for you)」と聞こえた言葉が、洋子には「あなたのために(for you)」と聞こえた。

蒔野はその解釈を肯定するようにわずかに顎を引くと、椅子に座って、ギターを弾き始める。

ソリッチ監督の映画『幸福の硬貨』のテーマ曲。

イラクで洋子の心を慰めた曲であり、2人の想いが通じたあの思い出の夜に、ジャリーラと一緒に聞いた曲。

その冒頭のアルペジオを聞いた瞬間、洋子の感情は、抑えるすべもなく涙とともにあふれ出した。

終演後。

ニューヨーク・セントラルパーク。

はやる気持ちと不安でそわそわしながら、蒔野は周囲を広く見渡しながら歩いていた。

やがて、視線の先に1つのベンチが見える。

そのベンチに座っていた女性が、ゆっくりとこちらを向く。

蒔野は、彼女を見つめて微笑んだ。

洋子も応じかけたが、今にも崩れそうになる表情をこらえるだけで精一杯だった。

洋子は立ち上がり、改めて彼と向かいあう。

蒔野はすでに、彼女の方に歩き出していた。

その姿が、彼女の瞳の中で大きくなってゆく。

赤らんだ目で、洋子もようやく微笑んだ。

2人が初めて出会い、交わしたあの夜の笑顔から、5年半の歳月が流れていた。

<マチネの終わりに・完>


 

※この話、実話がベースになってるって知ってました?

小説「マチネの終わりに」感想と考察!ストーリーは実話?モデルは誰?平野啓一郎「マチネの終わりに」をたった今、読み終えました。 私はジャンル問わずいろいろな本を読むタイプなのですが、正直、ここ最近で...

まとめ

今回は小説「マチネの終わりに」のあらすじとネタバレをお届けしました!

一般的な「ラブストーリー」とは一味も二味も違う『大人の恋』

いろいろなことを考えすぎてしまうあまり、かえって素直に行動できなくなる様子なんかは、大人なら共感できるものですよね。

そして、特筆すべきはあの結末!

なんというか『人生』を感じるような、味わい深く切ないラストシーンでした。

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POSTED COMMENT

  1. 美人さん より:

    本当にせっなく悲しいラブストーリーでした
    こんなに愛してるにもじゃまがはいるともろいもんだ
    女の嫉妬は怖い

  2. コケモモ より:

    夕べ見てきたのだが筋がよく見えないところがあった。そのくせ完動でなかなか寝付かれなかったが、このネタバレのおかげでよく分かった。感謝です。70代おじさん

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