望月諒子『神の手』を読みました。
失踪した女性小説家の謎を巡る物語なのですが、いくつもの謎が重なり合っていて、読むほどに真相がわからなくなっていきます。
女性小説家とまったく同じように振舞う別人の登場。彼女はどうして失踪した小説家の作品を持っているのか? いったい何者なのか?
これはまだまだ謎の入り口にすぎません。やがて訪れる結末に、あなたはため息をつくでしょう。
今回は小説『神の手』のあらすじがよくわかるネタバレ解説をお届けします。
あらすじ
小説誌の編集長、三村幸造のもとに医師を名乗る男から電話がはいった。
高岡真紀という女性を知っているか、と。
同時に、過去に彼が封印した来生恭子(きすぎきょうこ)の小説が真紀の名前で送りつけられた。
待ち合わせた真紀は、果たして見たこともない女性だった。
それなのに恭子と同じようなしぐさで、10年前に恭子が話したことと全く同じことを話す。
彼女はいったい誰なのか? 目的は? 本格ミステリー長編。
(文庫裏表紙のあらすじより)
来生恭子
物語の渦の中心にいるのが来生恭子、三年前に失踪した作家です。
彼女はデビューしていなかったので、正確には小説家志望とか、小説家の卵と表現するべきなのかもしれません。
しかし、やはり来生恭子は誰よりも作家でした。
三週間で一つの作品を執筆し、脱稿するとすぐに次の作品にとりかかる。小説以外の全てを捨てていた彼女は、七年間で実に一万五千枚もの原稿を書き上げていました。
恐るべき情熱。恐るべき執念。
自分の人生と精神を削って小説を書き上げているかのようなその姿勢は、明治の文豪を連想させます。
小説を書くということについて、かつて恭子は次のように言っていました。
※以下、小説より一部抜粋
…………
ものを書くというのはね、体の中に怪物を一匹飼っているのと同じなの。それは宿ったものの内部を餌にして成長し、いったん成長しはじめたら喰い尽くすまで満足しない。
勝手な思考を許さず、時には人に会うことにも激しい嫌悪をむき出しにして取りついたものを独占し、常に自分を忘れるなとわめき、ねめつけ、踊ってみせる。
わたしは彼とキーボードを結ぶパイプとしてのみ存在するようになり、彼は増長し、わたしは消耗し、神経は軋(きし)んで悲鳴をあげ、それでも彼には自分の存在こそがすべてであり、おそらくわたしが死んだら次の宿主を探すつもりなのだろうと思う。
作家たちが何故自殺していくのか。
――人間としてその怪物を持ちきれなくなったとき、自らの存在を放棄することにより安息を得ようとするのよ。
そこに今、足を踏み入れようとしている。底のない沼と知りながら、抗うことはできない。
失踪当時、恭子は37歳。実年齢よりずっと若く見える美人でした。小説の魔に憑りつかれた彼女は、その末に自殺したのでしょうか?
三村幸造
三村幸造は文芸誌「新文芸」の編集長です。彼は来生恭子の才能を見出していました。
三村は恭子の作品のすべてに目を通していましたし、東京から彼女の住む神戸まで頻繁に通っていました。
物語としてはもう少しあとになって判明することですが、彼は恭子と肉体関係を結んでいます。
とはいえ、ふたりが恋愛関係だったかといわれると、首をかしげざるを得ません。
恭子は本を世に出すために三村を利用しようとしていたでしょうし、三村にしても恭子との関係は不倫でした。欲望のためという一面も確かにあったでしょう。
しかし、三村が恭子の才能を認めていたこともまた事実です。
……前置きが少々長くなりました。
ともかく、恭子は三年前に失踪しています。そして現在、三村の前には彼女の幻影が座っています。
高岡真紀という女性は、外見的には恭子と似ても似つきません。しかし、話す内容、立ち居振る舞い、ちょっとした癖、左足を引きずって歩く姿などは、恭子としか思われません。
それになにより、高岡真紀は短編小説『緑色の猿』を書いていました。
『緑色の猿』は恭子の作品です。その存在を知るのは三村以外にはいません。
それを一字一句たがわず書いたというのですから、ますます恭子本人のようではないですか。
いったい何がどうなっているのか?
医師の話によれば、高岡真紀はある時期を境に様子が変わり「自分は小説家だ」と言い出すようになったのだといいます。
恭子が憑依しているとでも解釈すればいいのでしょうか。確かに言えることは、高岡真紀と来生恭子には何の接点もなかったということです。
高岡真紀は37歳。仕事はスポーツジムの受付。神経症のため病院に通っていました。
木部美智子
木部美智子は週刊誌の記者です。新聞社出身で、社会派の真面目な記事を得意としています。
そんな彼女のもとに、とある事件の情報が舞い込んできました。
新世紀文学賞を受賞した作家の盗作疑惑。
『花の人』と題されたその小説は、男女の心の機微を繊細に描いた恋愛小説でした。作者は本郷素子……ということになっていますが、これはどうにも妙な話です。
ありていに言って、本郷素子は三流作家でした。それこそゴシップ誌に下世話なコラムを書くような人物で、とても純文学たる『花の人』を書く力量などありません。
そのため『花の人』にまつわる盗作疑惑はずっと前からささやかれていました。
さて、本題はここからです。
もし、この盗作騒動に殺人事件が絡んでいるとしたら?
情報提供者は来生恭子のことを知っていました。『花の人』が発表されたのは、恭子が失踪した三か月後のことです。
情報提供者は言います。
「彼女(恭子)は長年のストレスで神経症にかかっていた。彼女が消えて、本郷素子があれを出し、編集者は出世した。自殺か他殺か。いずれにしても彼女の作品を本郷素子が自分の名前で出したことは絶対に事実なのよ」
美智子は懐疑的でした。たかが小説ひとつのために殺人を犯す人間などいません。
ただ、異様なほどに自信を持って語る情報提供者……高岡真紀の話にはどこか引っかかるものを感じました。
そう、三村の前に現れたあの高岡真紀です。
美智子の知る真紀はスポーツジムの受付でもなければ小説家でもなく、ついでに病院に通う必要もまったくない健康体の、記者でした。
真紀の話によれば、彼女は盗作疑惑の情報を掴むため、恭子になりすまして三村に近づいたのだといいます。
つまり、三村が寒気すら覚えた真紀の立ち居振る舞いは、すべて演技だった、と。
しかしながら、疑問は残ります。
高岡真紀と来生恭子の間に接点はありません。だというのに、真紀はどうやって息づかいに至るまで恭子を模倣しえたのでしょうか?
また、彼女が『緑色の猿』の原稿を持っていた理由もわかりません。
美智子の評を借りれば、真紀は頭のいい人間ではありません。下品な記事を週刊誌に売りつける三流記者で、金儲けが大好きな俗人です。おおかた盗作疑惑を追っているのも、最終的に三村を脅して金をせしめるため、といったところでしょう。
なにもかもがちぐはぐでした。真紀の正体が記者だというのなら、「急に小説を書き始めた」という医師の話はなんだったのでしょうか? アリバイをつくるため医師の前でも恭子を演じていた? そこに意味があるとは思えません。
謎は深まっていくばかりです。
<すぐ下のネタバレにつづく>
ネタバレ
真相に踏み込んでいく前に、もう一人、紹介しなければならない人物がいます。
神戸にある正徳病院の内科部長、広瀬医師です。
彼こそは突如として小説を書き始めたという高岡真紀の担当医。物語の冒頭で三村に電話した医師です。
当初、広瀬は一時的に登場する脇役のように思われました。
高岡真紀の正体を探るため神戸に足を運んだ三村に事情を説明する一介の医師。それ以上でもそれ以下でもないように思われました。
しかし、予想に反して彼はいつまでたっても物語から退場しようとしません。
というのも、広瀬は独自に来生恭子のことを調べ上げていました。
恭子の妹である真由美の家を訪ねて、バラバラだった一万五千枚に及ぶ膨大な原稿の海を作品ごとにまとめて整理したというのですから、その入れ込みようには並々ならぬものが感じられます。
なぜ、そんなことを? 広瀬は好奇心だといいます。
恭子は遺作として『自殺する女』という作品を書いていました。あらすじはこうです。
「女が自殺するんですよ、岸壁から飛び下りてね。そして何年後かに、そこを通りかかった女が、自殺した女の怨念に取り憑かれて、自殺した女がこの世に残した思いを代わりに遂げていくという、ホラーです」
物語の舞台は和歌山の白浜でした。そして高岡真紀が豹変したのは和歌山に旅行に行った、その頃からでした。
まさに物語の筋書き通りです。
高岡真紀になにが起こったのか? まさか本当に憑依されたのか?
失踪した来生恭子の身になにがあったのか? 彼女は生きているのか?
広瀬は三村の協力者として真相解明に乗り出します。
広瀬はひょうひょうとしていて、ちょっと変わり者ながら親切な人柄です。42歳。独身。背が高く顔もいいので、院内の女性から人気があるようです。
美しい手の女
木部美智子は『花の人』を読みました。日常のささいな一瞬にさえ恋愛の幸せがあふれている、それは純真な恋の物語でした。
ただし、結末で男女は別れを迎えます。
恋の最後はあっけなく、男が捨てたとも、女が振り切ったとも、そのあたりは一つの時間の渦の中に飲み込まれ、切れている。
美智子の目を奪ったのは、奔放に生きる女性(主人公)の描写です。
美しい手。どことなく目を引く気品。
小説から匂いたつ女の姿は、美智子が追いかけている《もう一つの事件》の関係者を連想させました。
連続幼児誘拐事件。
三年前に神戸で起きたその事件は、いかにも不自然でした。
犯人の名前は高田信治。46歳。彼は幼児を家に連れ込んでは、なにをするでもなく、一週間ほどで親元に帰すという行為を繰り返していました。
従順で大人しい人物です。子どもには一切の危害を加えていません。孤独で寂しい人生をまぎらわせるための連れ去りだったのでしょう。
無害だったとは言えませんが、幼児の親にしてみれば不幸中の幸いだったといえます。
高田はそうした連れ去りを三件、繰り返しました。彼は犯行を認めています。ここまでの経緯に謎はありません。
問題は四件目です。
消えた野原悠太くん(当時3歳)は今も行方がわかっていません。
悠太くんの連れ去りについて、高田は容疑を否認しています。
そして生活範囲のズレといい、人見知りする悠太くんの性格といい、いくつもの根拠が「悠太くんのケースは他の三件と違う」と示していました。
ありていにいって、高田は悠太くんの失踪に関与していないように思われます。
では、本当は悠太くんの身になにが起こったのでしょうか?
美智子は「悠太くんらしき男の子の前にしゃがみこんでいる女性がいた」という目撃証言を思い出します。
美しい手。どことなく目を引く気品。
愚かだと思いつつ、美智子はその姿に『花の人』の女を重ねてしまうのでした。
※以下、小説より一部抜粋
…………
――子供の視線の位置まで腰を下ろして、その女性は人目を引くように綺麗だった。
彼女はにっこり微笑んで何かを話しかけている。その光景は微笑ましくもあったし、俗離れして美しい感じがした。
艶のある茶色い髪をして、長い指をしていた。
(中略)
――後ろは砂場で、小さい子を持つお母さんたちが集まってしゃべっていた。
目撃された二人の位置は母親の集団から十メートルほどしか離れていなかった。車道までは七、八メートル。
すぐそばに母親がいる安堵感から、悠太くんがその綺麗な女性に気を許したとしても無理がないのではないだろうか。もしその女性が車を持っていたならば、そして子供の扱い方を知っていたならば、三歳の子供を自分の車に連れ込むこともできたかもしれない。
白昼堂々と、しかも母親の鼻先で。
美智子は自分が立てた仮説が妄想であるに違いないと思う。
それでも『花の人』の作中の女、狂おしい情熱を持って男が与えようとしていた安定を振り切ったその女が数年後、子供の前に優しげに膝を折り、無垢な残虐さで子供を扉の向こうに封じ込める、その図が頭から離れないのだ。
三村の秘密
神戸から東京に戻った三村を待ち受けていたのは、本郷素子からの伝言でした。
『至急電話を下さい』
三村は苛立ちのままにその伝言を無視しました。しかし、よほど切羽詰まっているのでしょう、二日後にはまた本郷素子から会社に電話がかかってきて、三村は仕方なく応答します。
「なんですか」
電話口の本郷素子はなかばパニックに陥っているようでした。
「男が来たのよ」と彼女は繰り返します。それがなにを意味しているのか、三村には理解できていました。
すなわち、三村が『花の人』の原稿を本郷素子に横流ししたという事実を嗅ぎつけた何者かが、秘密を暴こうとしているのです。
そう、記者の高岡真紀が言ったように『花の人』は来生恭子の原稿でした。恭子が失踪したのち、三村はその原稿を素子に渡しています。
ただし、金で売ったわけではありません。
恭子は不世出の作家でした。三村は彼女の作品をどうしても世に出してやりたかったのです。
本郷素子を選んだ理由は、まさに彼女が三流作家だからでした。
「こんな繊細な作品をあの本郷素子が書いたわけがない」読者が盗作を疑うであろうことなど百も承知です。むしろ、そうして真の作者(恭子)の存在を匂わせてやることこそが三村の狙いでした。
もちろん真実が露見すれば大スキャンダルです。三村はクビになることも、社会的制裁を受けることも覚悟しています。
とはいえ、本郷素子の前にあらわれた《男》の存在が気にならないわけでもありません。
三村には『花の人』の作者が恭子だったという事実について、一切の証拠を残していないという自信があります。
すでに暗黙の了解となりつつある『花の人』の盗作を今さら指摘してみたところで、証拠がなければ取るに足らない噂がひとつ増えるだけです。
だとすれば、逆説的に《男》は確たる根拠を手にしているということにはならないでしょうか。男の持つ証拠とは何か? 三村は何か見落としていたのか?
漠然とした不安が三村の胸をよぎりました。
広瀬の正体
思えば、広瀬には最初から怪しいところがありました。
柔和な物腰のために無害な印象でしたが、考えてみれば一万五千枚の原稿を整理したなんて尋常ではありません。医師として忙しいでしょうに、いったい何日かかったのでしょう。
その執念ともいうべき仕事ぶりからして不可解ですが、もっとわからないのは動機です。
広瀬が赤の他人である高岡真紀、あるいは来生恭子のために身を粉にして働く理由なんて皆目見当もつきません。まさか本当に好奇心のためだったということもないでしょう。
読者が首を傾げつつも読み流したその疑問は、展開が進むにつれて無視できないほどに膨らんでいきます。
どうやら広瀬はなにか企んでいるらしい……。彼には何か《裏》があるという漠然とした予感は、やがて確信へと変わっていきました。
たとえば、本郷素子に盗作の事実を突きつけた《男》とは、広瀬のことです。
広瀬は残された原稿の海の中に『花の人』の一節を発見し、その動かぬ証拠を持って本郷素子に迫りました。
彼の目的は金ではありません。本郷素子に近づいたのは、原稿を流したのが三村だと確認するためです。
いろいろすっ飛ばして、結論から言います。
広瀬はかつて来生恭子の恋人でした。
そして彼は、三村が恭子を殺したのではないかと疑っています。
黒幕の思惑
順を追って説明していきます。
すべての始まり、広瀬が恭子と出会ったのは約15年前のことです。
当時、広瀬は27歳。京都の大学病院に勤めていた彼は魅入られたように恭子に惚れこみました。
大学病院では教授の娘と婚約していたのですが、地位も立場も恋の前では無価値です。そうして広瀬はすべてを捨てて兵庫県医師会に移籍することになります。
恭子は奔放な女性でした。その自由さに広瀬は惹かれたのですが、けれど現実的にはいつか恭子も社会に適応しなければならない日が来るとも思っていました。
ふたりは確かに愛し合っていました。しかし、恭子にとって広瀬の堅実さは窮屈でもありました。
やがて二人が別れたのは、仕方のないことだったのでしょう。
……と、この話、どこかで聞き覚えがありませんか?
そう、『花の人』です。
『花の人』は広瀬との恋愛をモチーフにして、恭子が執筆した小説でした。
広瀬は原稿の海の中から『花の人』の記述を拾い上げたといっていましたが、アレは嘘です。三村の隠ぺい工作は完璧でした。証拠など残っていません。
それでも、広瀬には『花の人』が恭子の作品であるという確信がありました。なにしろ、作中の男女の会話は記憶にあるものばかりだったのですから。
広瀬は出版された『花の人』を写すことで、証拠の原稿をでっちあげました。恭子が使っていた書体で打ち直していたので元の原稿らしく見えましたが、よくみれば校正の入った(オリジナルではない)文章であることがわかります。
さて、話を本筋に戻しましょう。
別れた後も恭子のことが忘れられなかった広瀬は、1996年(※)の恭子の失踪に戸惑いましたし、その三か月後に発表された『花の人』にはもっと戸惑いました。
※伝えそびれていましたが、作中の年代は1999年です。恭子の失踪はそこから3年前。
恭子の原稿を読む機会があったのは編集者の三村だけです。ならば、三村が彼女の原稿を横流ししたに違いありません。
では、なぜ恭子は失踪してしまったのか?
まさか小説ひとつのために三村が恭子を殺したのだとは、広瀬も考えませんでした。
ただ、三村と恭子は肉体関係にありました。広瀬は推測します。三村は恭子との関係を引き延ばすためにわざと彼女をデビューさせなかったのではないか? そのことに恭子も気づいたのではないか?
そうしてなんらかのトラブルが起こり、三村は恭子を殺してしまう……。
判断材料がないため仕方ないのですが、これではどうにもあやふやな想像と言わざるを得ません。
広瀬は真実が知りたいと思いました。三村が恭子を手にかけたその《動機》はなんだったのか?
広瀬は行動を開始します。
彼がまっさきに確保したのは協力者……というより手駒でした。
そう、高岡真紀です。
真紀は健康そのものの記者です。スポーツジムの受付でもなければ病院に通ってもいません。もちろん小説を書き出したりもしてませんし、憑依だなんてもってのほかです。
すべては広瀬のシナリオでした。
微に入り細を穿ち恭子の振る舞いを真紀に叩き込み、三村を揺さぶることで真実を暴こうというのが彼の計画でした。
補足その1
広瀬は以前、雑誌の取材を受けたことがあるのですが、その時の取材担当が真紀でした。広瀬は真紀の弱みを握って、指示に従うよう脅します。
物語の途中で真紀は音信不通になるのですが、それも広瀬の指示に従って隠れていただけです。
補足その2
オリジナルの短編『緑色の猿』が執筆されたのは、まだ広瀬と恭子が交際している時期のことでした。だから広瀬は『緑色の猿』を知っていたのです。
最終局面
広瀬の計画はついに最終段階に至りました。
高岡真紀はゾッとするほど恭子らしい口調で言います。
「あたし、あなたが探している原稿を持っているの。あなたが私を葬った所へ来なさい」
電話を受けた三村は、すぐに移動を始めました。
といっても、脅迫に怯えての行動ではありません。この頃になると三村も、高岡真紀の正体だったり、広瀬が裏で糸を引いていることだったり、そうした事態は承知しています。
だから、そう、三村は罠と知りつつも、この奇妙な茶番を終わらせるためあえて誘いに乗ることにしたのでした。
目的地は和歌山、熊野の山奥。
三村が和歌山行きの飛行機に乗ったことはすぐさま探偵によって広瀬に伝えられ、そして広瀬から木部美智子にも伝えられました。
誰も足を踏み入れることのない、深い深い山の奥。そこがこの物語の決着の舞台です。
熊野の山に分け入っていった三村は、おもむろにつるはしを振り上げると、その切っ先を地中に突き立てました。
時刻は夜。闇の中、懐中電灯の小さな明かりに照らされて、三村は黙々と土を掘り返していきます。近くの木陰でその光景を眺めていた広瀬は、墓荒らしを連想しました。
三村の手が止まったのは、夜が白々と明けかかった頃のことです。
50センチほどの穴の底には、黒いビニール袋に包まれた《なにか》が埋まっていました。
「やっぱりあなただったんですね」
広瀬はついに三村の前に姿を現します。三村の表情には疲労が濃く、驚いている様子はありません。
広瀬は繰り返します。緊張と、そして寂しさがにじんだ声でした。
「やっぱりあなただったんだ――」
※以下、小説より一部抜粋
…………
「あなたが恭子を殺したんだ。そして袋に詰めて、埋めた。それから彼女の部屋に戻って『花の人』を抜き出した。そしてそれを本郷素子に渡した。でもなぜなんですか。……理由がわからないんだなぁ」
降り出した雨がポツリポツリと黒いビニール袋の端に当たって弾けていた。
「彼女が何かをごねた。あなたをゆすった。あなたが彼女と手を切ると言った。あるいは彼女があなたと手を切ると言った。――いろいろ考えたが殺すに足る理由とは考えられなくてね。あのインチキ作家に原稿を渡す、その間に発生した何らかのトラブルかとも思ったが、あなた、あの女流作家に『花の人』を渡して何の得があったんですか。あなたがやったのはわかっていた。でも」と広瀬は心底不思議そうに三村を見た。
「なぜだったんですか」
広瀬は距離を半分にまで詰めていた。そしてなお近づこうとする。
三村は彼を見据えていた。
袋の端が裂けていた。そこから白いものが見えた。ただ袋が――
袋が異様に小さいことに広瀬は気が付いた。
あまりに小さい。それはスーパーの買い物袋ほどの大きさしかないのだ。広瀬の顔に困惑が広がった。
真相
広瀬の疑問に答えるように、それまで身を潜めていた美智子が声をあげます。
「広瀬さん。その死体は来生恭子ではありません。野原悠太くん――1996年の3月に神戸で行方不明になった男児の死体です」
彼女こそはこの物語の探偵役。広瀬がたどり着けなかった真相に、美智子は至っていました。
連続幼児誘拐事件。目撃されていた美しい手の女。
美智子は三村に向かって言います。
「彼女が殺したんですね。そしてあなたが処分して、ここに埋めた」
恭子と悠太くんとの関連は、例の目撃証言だけではありませんでした。
第一に、日付です。
悠太くんが失踪したのは96年の3月12日。同日の夜、三村は一本の電話を受けるやいなや、パーティーを飛び出しています。
そして翌日(3月13日)、恭子は和歌山の白浜にいました。恭子が妹の真由美に渡したお土産のお菓子、そこに記されていた日付が証拠です。
三村を駆り立てた電話の主なんて恭子以外に考えられません。彼女は三村に電話をした。三村は神戸に向かった。その翌日、ふたりは和歌山にいた。
和歌山には三村の妻の実家があります。つまり、三村には土地勘があった。そして、今こうして黒いビニール袋に包まれた死体が掘り起こされたのも同じ和歌山県……。
とはいえ、これらの情報は状況証拠にも満たないものです。
美智子の疑念を確信に変えたのは、男たちが見逃していた恭子のメモでした。
そこにはこう書かれていました。
――わたしはこの子を殺してみようと思う。
※以下、小説より一部抜粋
…………
「来生恭子は子供を殺し、あなたはその子をバラバラにし……」
目の前で黒いビニール袋がパチパチと雨を弾いている。「……おそらくは袋に詰めて」美智子は一瞬言葉を呑み込んだ。
「来生恭子の車で彼女のアパートを出た」
(中略)
「野原悠太を誘い出したのは間違いなく来生恭子なんですよ、広瀬さん。そして殺人の意思を明確にしたメモを書き、これから三村さんに電話すると書き残したのが1996年3月12日7時56分、三村さんが携帯電話で連絡を受けてパーティの会場を抜け出し、いや走り出したのは同日の午後八時です。誰もまだ。家人でさえ事件の認識のなかった時間」
(したがって、恭子は報道を見て小説のネタとしてメモを書いたわけではない)
そして美智子はじっと三村を見つめた。
「三村さん、あなたはなぜ『花の人』を持ち出したんですか。子供の死体の始末までしていやって、それなのになぜ二か月も後になって来生恭子を殺したんですか」
三村は放心したように黙っていた。ただその虚ろな目は、まだ美智子の話を逆転させる糸口を探っているようにも見える。それが美智子には悲しく見えた。
この男もまた来生恭子の影を守ろうとしている。彼女が子供に手をかけたことを闇に葬りたいと思っている。
彼女のことはまだ過去ではない、と言った三村の言葉が鮮明に蘇った。
「……メモに記録が残っていた。わたしはその意味を考えました。広瀬さんの言う通り、彼女はなんでも小説にできる人だった。――彼女は神の手を持っていたのです。その本能があの子を殺した。だとしたら、彼女がそれを書かずにいられただろうか。
(中略)――彼女はそのすべてを書いていたんじゃありませんか。
あなたは5月13日、彼女のフロッピィから『花の人』を抜いた日、本当は殺人の記録が残っていないことを確認していたんじゃありませんか。あなたが反応した『あなたが探している原稿』というのは、『花の人』のオリジナル原稿のことではなく、野原悠太くん殺しの一部始終を書き記した原稿のことだったんじゃないんですか
――そしてそこには最後の死体の処理まで書かれていた」
三村の張りつめていたその気配が急速に収束していくのが感じられた。
神の手
恭子は悠太くんを殺し、そのすべてを小説にしたためました。
なぜと問われたなら、狂っていたからとしか答えようがありません。
小説の魔。彼女は体内の怪物に心を食い破られたのです。そこに至るまでには七年の歳月があり、一万五千枚の原稿があり、デビューできていないという現実がありました。
恭子の精神がいかにして崩壊していったのか、作中でつぶさに描かれていたそのグラデーションをここで長々と語ったりはしません。ただ、その責任の一端は三村や広瀬にもあったのだということだけは強調しておきます。
魅入られた男たち。二人は恭子を理解し、愛したかもしれない。それでも彼女は、彼らが愛したものがそれぞれの中の来生恭子であり、決して生身の来生恭子本人ではないことを知っていた。それが彼女の孤独であり、おそらくは、彼らとて、それを知っているのだ。
ともあれ、恭子は犯罪の記録たる小説を書き上げました。三村が発表できないと言うと、彼女はそれを別の編集者に見せると言いました。
三村には今もわかりません。
――あれは正気だったのだろうか、狂気だったのだろうか。
※以下、小説より一部抜粋
…………
「彼女は狂っていました」美智子は静かにそう言った。そして三村を見つめた。
(中略)
「小説というものは、小説家にとって、親しい人へのメッセージでもあるんです。彼女の作品は日を追うごとに奇矯になっていった。死をあつかい、生を愚弄し、愛情を蔑んだ。それは助けを求めたあなたへの悲鳴でもあったはずなんです。
あなたはそのメッセージを刻々と受け取り続けていながら、何もしようとはしなかった。そこにあったのは、編集者の目でなく、一人の男の独占欲だった。そして彼女はあなたの目の前で、予告された手順で崩れていった。
あなたは野原悠太の死に責任を感じていた。そして彼女も、あなたにその責任を見ていた。そう言えば言い過ぎでしょうか」
三村はじっと袋の端を見つめていた。
――あれは狂気だろうか、正気だろうか。
懐に飛び込むように散っていった。
あの和歌山の断崖で、彼女が連れて行ってくれとせがんでみせたあの断崖の上で、あの時彼女はその背にわたしの指を感じただろうか。
――あの時彼女はわたしに何を残したかったのだろうか。
自分の死の記憶。それとも自分の生の記憶。
彼女は待っていた。わたしがその背を押すその時を。あとにはただ暗い世界があるだけ。彼女はそれを知ってその闇に戻っていこうとしていた。
彼女がその断崖の端から落ちて行ったのは私の指が彼女の背に触れたと思った瞬間だった。
彼女は微笑んで、空の空気を胸いっぱいに吸い込んで、静かに自分の物語を完結させた。
彼女はその時、神に祈っただろうか。それとも神を嘲ったのだろうか。
結末
特ダネに目がくらんだ高岡真紀の手によって、事件は表沙汰になりました。
三村は警察で、自分が幼児を殺したと言いました。そのことに気づかれて来生恭子も崖から突き落としたと、彼は語りました。
「三村さんはどうなりますか」
美智子は知り合いの弁護士に尋ねます。彼の返答はこうです。
「さあ、情況証拠から、おそらく死体損壊、死体遺棄と、もしかしたら自殺幇助くらいでしょう。あの自白は取り上げられないでしょうな」
三村の言い分には明らかな矛盾が含まれています。口封じのために恭子を崖から突き落としたというのなら、本郷素子に『花の人』の原稿を渡すなどという、危険極まりない行為をするはずもありません。
そしてなんといっても、恭子が残した七枚の原稿。遺作である『自殺する女』が決め手となりました。
以下は、美智子の言葉です。
「要するに来生恭子は、子供を殺した彼女自身の身の始末を三村さんにさせたんです。彼に、自分を殺すように仕向けた。殺人の意志も、行為も、三村さんの自発的なものであったかどうかは、当の三村さんにさえ、もはや判然としない。しかしあの残された一節に、彼女は、それが自分の意志であると書き残してた」
※以下、小説より一部抜粋
…………
「あの最後の原稿ですよ。その中で、女は海にそそり立つ絶壁から自ら身を投げる時、ブルーのスカートに白いレースのカーディガンを着ているんです。明確に、その衣装が描かれている。三村さんは、来生恭子を断崖から突き落とした時、彼女がブルーのスカートに白いレースのカーディガンを着ていたと言っています。目の醒めるようなスカイブルーのスカートに真っ白なレースのカーディガン。
5月13日、三村さんは来生恭子に誘われてあの和歌山の絶壁に行っています。三村さんはそうとは言いませんが、あの一節を見せられて、そして彼女がそれと全く同じ衣装で和歌山の岩壁に彼を誘い、そこにまっすぐ立った時、その意志を理解したことでしょう。彼女が自分に何を求めているかを。
彼が本当にその背を押したかったのかどうか。
三村さんは確かに彼女の背中を押した自覚を持っている。しかしその時、あの断崖で、彼女が原稿にあるのと同じ服装をしていたというのなら、あの文章は来生恭子の自殺予告であり、すべては彼女の予告通りに行われたことになる。すなわち卓上に残された七枚の原稿は遺書であり、彼女は突き落とされたのではなく、予告通り飛び込んだのです。
『あらゆる思いから引き離されて、疼く本能を抱えた骨一本となってここに破滅する』
――原稿にある通り、彼女は自分の意志で破滅した。そして彼女は自分の死の一端を三村さんに担わせることで、三村という男の中に自分の生を永遠に刻んだのです」
エピローグ
以下、小説より一部抜粋
美智子は不意に気がついた。三村が、来生恭子に関して殺人の意志を認めている、その理由。
彼は本当に、来生恭子を殺したかったのかもしれない。肯定するべき殺意を、三村は彼女に持っていた。だから自殺であろうとほぼ明確に人が判断してもなお、殺意を認め続けている。
彼は、彼女の神の手を、誰にも裁かせたくなかったのだ。
来生恭子の小説にかけた情熱。自分の中にある恭子のさまざまな記憶、初めて三村の許を訪れた時の、彼女の初々しさ――来生恭子は最後に、言葉が存在すると思うのは錯覚、すなわち相互理解は幻影だと言った。
三村は、そういう彼女が社会規範の中で異端として裁かれていくことを受け入れることができなかった。死人にしなければ、彼女を守ることができなかった。
そこに三村の、殺人の動機があった――。
ならば三村は、野原悠太の殺害の真相を、決して語ることはないだろう。
(中略)
彼女は正気であったような気がする。
そして三村は、それを知っていたような気がする。
真由美の部屋に眠っていた来生恭子の作品は、帝京出版の嶋の後押しで出版が始まった。
<おわり>
望月諒子『神の手』を読みました❗️
失踪した小説家の謎を巡る物語なのですが、読むほどにわけがわからなくなっていきます。消えた作家が憑依したかのような謎の女性。編集者の秘密。ぜひ最後までご覧ください。
この春 #吉岡里帆 #安田顕 さんでドラマ化
⬇️あらすじと結末📃https://t.co/Fe1pEan7Dx— わかたけ@小説読んで紹介 (@wakatake_panda) March 7, 2023
まとめ
今回は望月諒子『神の手』のあらすじネタバレ解説をお届けしました。
記事では道筋をある程度まっすぐに整えましたが、実際の物語はまるで濃い霧の森の中を手探りで進むような、まったく先の見えない迷路じみたものでした。
高岡真紀は本当に憑依されているんじゃないか? いやいや実はまったく別の高岡真紀がもう一人いるんじゃないか? そんなふうに頭をひねらせながら読むのが楽しかったです。
作中最大の謎は「来生恭子はなぜ死んだのか?」という点でした。
事実上、答えは自殺です。しかし、これはたった二文字で済まされる話ではありません。
まさに「神の手」の恩恵のままに希望をもって小説を生み出していた初期。広瀬と別れ、三村との男女関係を結んだ中期。そして愛されながらも孤独であるという痛みによって彼女は終わりへと歩んでいきます。
そのもの悲しさ。その切なさ。確かに恭子は許されないことをしたのですが、その背景を思えば果たして一概に悪人と断じていいものか、複雑なものがあります。
深い謎をたたえるミステリとしてはもちろん、ドラマにも心打たれる作品でした。
※本作は作者のデビュー作にして「木部美智子シリーズ」の一作目でもあります。ここから始まる他の作品も読んでみたいですね。
ドラマ情報
キャスト
- 吉岡里帆
- 安田顕
放送日
2023年5月15日放送 月曜よる8時~9時54分
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ネタバレ、面白かったです。
ありがとうございます。
複雑怪奇なストーリーでしたが、わかり易く
さらっと受けとめられました。
なんか、切ないですね。
崖がロケーションなんて90年代を彷彿とさせて
懐っと感じました。