くわがきあゆ『レモンと殺人鬼』を読みました。
『このミステリーがすごい!』大賞・文庫グランプリ受賞作(2023)
みんな大好き《どんでん返し》がこれでもか!と詰め込まれた作品です。
騙されないぞと警戒しながら読んで、それでもまんまと騙されてしまいました。
今回は小説『レモンと殺人鬼』のあらすじがよくわかるネタバレ解説をお届けします。
あらすじ
十年前、洋食屋を営んでいた父親が通り魔に殺されて以来、母親も失踪、それぞれ別の親戚に引き取られ、不遇をかこつ日々を送っていた小林姉妹。
しかし、妹の妃奈が遺体で発見されたことから、運命の輪は再び回りだす。
被害者であるはずの妃奈に、生前保険金殺人を行なっていたのではないかという疑惑がかけられるなか、妹の潔白を信じる姉の美桜は、その疑いを晴らすべく行動を開始する。
(文庫裏表紙のあらすじより)
妃奈の疑惑
小林妃奈(ひな)の遺体は山中に打ち捨てられていました。
刃物でめった刺しにされていたことから他殺であることは明らかですが、犯人は捕まっていません。
姉の美桜からみて、妃奈は誰かから恨みを買うような人物ではありませんでした。
父を亡くし、母に捨てられた姉妹はそれぞれ預けられた親戚の家で肩身の狭い年月を送りました。
高校を卒業すると家を出て働き始めるのですが、正社員にはなれず、やむなく非正規雇用に甘んじることになります。
暮らしていくのがやっとの貧困のなか、姉妹は懸命に生きていました。
「私達、怠けてるわけじゃない。一応頑張ってる。何か悪いことをしたわけでもない。でも、報われない。仕事はきついし、お金はない。大好きな彼氏もいなくなっちゃったし。世の中って不平等だよね」
当初、若くして亡くなった妃奈に世間は同情的でした。
しかし、週刊誌の記事をきっかけに風向きは大きく変わっていきます。
『めった刺しで殺害された美女の裏の顔』記事は妃奈に保険金殺人の疑いがあると報じていました。
概要はこうです。
1.妃奈にはAさんという恋人がいた。
2.Aさんは登山中に転落死している。
3.妃奈は三千万円の生命保険金を受け取った。
つまり、妃奈がAさんに保険金をかけ、事故に見せかけて殺したのではないかというのです。
いくらが妃奈が保険外交員だったからといって、あんまりな憶測ですよね。
受取人が妃奈になっていたのも、Aさんには身寄りがなかったからですし。
第一、妃奈の生活ぶりは質素そのもので、とても三千万円を騙し取った悪女のそれではありませんでした。遺品整理に訪れた部屋の寒々しさも、妃奈の暮らしの苦しさを物語っていました。
ところが、です。
妃奈への疑惑は《とあるインタビュー動画》によってますます強まってしまいます。
インタビューに答えているのは急成長中の飲食店「筑野バル」の経営者・銅森一星。
彼は保険金詐欺の被害に遭いかけた経験を語っていました。
はい。動画で名指ししていたわけではありませんが、銅森もまた妃奈とつきあっていました。時期的にはAさんの前の恋人にあたります。
銅森によれば、いつのまにか生命保険が契約されていて、二億円の受取人が妃奈になっていたのだといいます。
新たな証言が浮上したことにより、小林妃奈は同情すべき被害者から一転、稀代の悪女として世間から非難されるようになりました。
その余波は姉である美桜にも及びます。
美桜は派遣で大学の事務員をしているのですが、炎上している報道の影響でいつ契約を切られてもおかしくありません。
メディア関係者からはしつこくつきまとわれるようになり、守衛が追い払わなければ大学の敷地に入ることもできなくなってしまいました。
美桜は妹の潔白を証明すべく行動を開始します。
十年前の事件
姉妹の父親・小林恭司が腕を振るう洋食屋「グリル那見」は行列のできる人気店でした。
看板メニューはチキンのレモンソテー。
小屋で絞めたばかりの鶏肉と搾りたてのレモンを使った自慢の一皿です。
十年前、姉妹は小学四年生でした。
レモンを搾るのはお父さんのことが大好きな娘の役割です。父親はそんな娘を温かい目で見守っていて、厨房には幸せが満ちていました。
けれど、小林家の平穏は一夜にして崩壊することになります。
父・恭司が通り魔に殺されてしまうのです。
犯人は十四歳の少年でした。
名前は佐神翔。小林家とはまったく関係のない人物です。
佐神は取調べにおいて
- 人を殺してみたかった
- ゴミっぽい人間を狙った
と語りました。
佐神の部屋からは殺害の様子を記録した「解体ノート」が発見されており、その異常性は疑いようもありません。
その後、小林家は離散。
十年後の現在、妃奈までもが何者かに殺され、美桜は再び被害者遺族となりました。
いったい誰が妃奈を殺したのか?
美桜の心に、一抹の不安がよぎります。
佐神翔は少年院から出所し、消息不明になっていました。
美桜をとりまく人間関係
佐神の行方、妃奈を殺した犯人についても気になるところですが、美桜の目的はあくまで妹にかけられた疑いを晴らすことにあります。
あの妃奈が保険金殺人や保険金詐欺に手を染めていたとはどうしても思われません。
ひょんなことから手を組むことになった協力者とともに、美桜は妃奈の過去に迫っていきます。
渚 丈太郎(なぎさじょうたろう)
貝東大学経営学部四年生。ジャーナリスト志望の大学生です。
世間で話題になっている妃奈の事件に興味を持った彼は、その姉である美桜が大学内にいることを知り、協力を申し込みました。
渚は実地訓練をしたいのだといいます。
実際問題として美桜には取材のノウハウがありません。いいえ、そうでなくとも彼女の控えめな性格は情報収集には不向きでしょう。
渚の恋人のことを思うと気まずくもありましたが、無報酬で力を貸してくれるという彼の申し出はまさに渡りに船であり、美桜は手を組むことにしました。
海野真凛(うみのまりん)
美桜とは中学の同級生にあたります。といっても友人だったわけではありません。
むしろ、その逆です。
“いじめというほどではないのかもしれない。ただ当時、真凛から私は歯並びの醜いことを笑われた”
美桜にとって真凛は関わり合いになりたくない相手でしたが、渚のことだけではなく、サークル活動でも一緒になってしまいます。
「そのあとクラブ」は子どもたちを預かるボランティアサークルです。
学童のあと、夜遅くまで子どもたちを受け入れるから「そのあとクラブ」
美桜はそこの代表である桐宮に声をかけられたのですが……
「ああ、言い忘れていました。社会人の方の場合は有償ボランティアとしてお願いしようと思っています」と桐宮が言い出したので、心が動いた。多くは出せなくて申し訳ないが、と断ってから、彼は時給九百円を提示したのだ。
桐宮が提示した条件は薄給の美桜にとって魅力的なものでした。
妃奈の炎上報道の影響で職を失うかもしれないという危機感もあり、美桜は二つ返事で桐宮の申し出を受けることにしました。
すると、そこには学生ボランティアとして真凛もいて……。
真凛は徹底的に美桜を無視してきました。あいかわらず嫌なやつという印象ですね。
話があっちこっちに飛んでしまいましたが、以上が主だった美桜の人間関係です。
渚にしても桐宮にしても、あまりにも美桜にとって都合のいい提案をしてきた点がちょっと気にかかりますね。
ちなみに桐宮のフルネームは桐宮証平。農学部の院生です。
疑惑の男
妃奈の過去を知るため、美桜たちは銅森に接触しようと試みます。
しかし、銅森のガードは予想以上に固く、会うどころか手紙を渡すことさえ叶いません。
ならばと美桜たちは銅森がタクシーに乗り込む一瞬の隙を狙って突撃してみたのですが、こちらも失敗に終わります。
美桜たちを阻んだのは金田拓也という強面の男でした。金田は銅森の側近であり、荒事担当の用心棒です。
美桜が声をかけたとき、銅森は彼女の存在を初めて知ったような顔をしていました。このことから再三の拒絶は銅森の意思ではなかったことがうかがえます。
では、美桜たちを銅森から遠ざけていたのは誰なのかといえば、もちろん金田です。
突撃に失敗した直後、美桜と渚は暴漢たちに襲われています。これも金田の差し金に違いありません。銅森に近づくなという警告を無視した美桜たちへの報復だったのでしょう。
銅森と金田、どちらがキナ臭いかといえば間違いなく後者でした。
“私は、一連の疑惑の黒幕は彼なのではないかという気がし始めていた”
※以下、小説より一部抜粋
…………
たとえば、金田が銅森の追い落としを狙っている可能性はないだろうか。(中略)その金田の陰謀に妃奈は利用されたのではないか。
おそらく金田が勝手に銅森の生命保険の契約を結んだのだ。
しかし、保険金の受取人にした妃奈が思い通りに動かなかったため、後に彼女を殺したのではないか。
妃奈の真実
手詰まりかと思われた美桜たちの調査は、しかし、《情報提供者》の登場により一気に解決へと向かっていきます。
- 美桜ひとりにのみ情報を提供すること
- 提供した情報は世間に公表しないこと
謎の人物から提示されたふたつの条件を受け入れ、美桜は面会に臨みます。
カラオケボックスの扉を開けると、そこで待っていたのは……あの金田拓也でした。
「えっ」と思わず声が出る。「入れよ」相手は不機嫌そうに私を睨みつけてきた。
とっさに頭に浮かぶ【罠】の一文字。
けれど、そうではありません。
「あんた、妃奈の姉だよな」美桜に確認してから、金田は言います。
「俺の知っていることを全部話す。その代わり、この件から手を引いてくれ。このままだと本当にあんたの身が危ない」
金田の話は長いので、要点だけを整理しますね。
まず、これが一番肝心なことですが、銅森が語った保険金詐欺の話はでたらめでした。
「妃奈が勧めたわけじゃない。一星が妃奈のために進んで入ったんだ。金はないけど、彼女にいいところを見せたかったんだよ。保険金の受取人を妃奈にしたのも一星だ」
妃奈はやはり潔白でした。
では、銅森はなぜそんな嘘をついたのでしょうか?
なんということもありません。金儲けのためです。炎上している妃奈の疑惑に便乗することで、銅森は筑野バルの知名度を上げようとしていました。
もうお察しの通り、銅森はなかなかに腹黒い人間です。彼の生い立ちには同情できるところもあるのですが、それはそれこれはこれ。
このままでは美桜の身が危ない、と金田は言います。
妃奈の潔白を証明するということは、銅森の嘘を暴くということと同義です。となれば、銅森が美桜たちを放っておくはずもありません。
事実、美桜たちは暴漢に襲われています。男たちは金田ではなく銅森の手下でした。
これまで金田が美桜たちの行動を妨害していたのも、銅森から守るためだったのです。
※以下、小説より一部抜粋
…………
「このまま、あんたが調査を諦めずに妃奈の無実を訴え続けたら、次の一星の報復は脅しだけでは済まなくなるだろう。あいつは完全に金に狂って、恩義も道理も忘れ果てている。今の俺の力では止めることができない」
金田はきつい目つきでこちらを見据えたまま、
「そういうわけだから、悪いがあんたに手を引いてほしいんだ。頼む」
急にテーブルに手をついたので、私は驚いた。
金田がこうまで美桜の身を案じるのは、妃奈に恩があったためです。障害のある妹の生活を守るため、金田は銅森の下を離れられません。この忠告が、金田にできる精一杯でした。
美桜の安堵
金田の話にはこんな一節がありました。
銅森が経営不振に苦しんでいた頃、妃奈は生命保険の話を持ち出して彼を励ましたのだといいます。
「――それに、生命保険だって入ったばかりじゃない。うちの会社のは加入して二年以内の自殺は保険金が下りないんだよ。私を喜ばせようと思って入ってくれたんでしょ。だから、あと二年は頑張ってよ」
ちょっと変わった励まし方ですが、事実、銅森は妃奈のこの言葉で奮起し、成功をつかみ取ります。
Aさんの場合も同じだったのではないか、と美桜は想像しました。
Aさんこと川喜多弘はイタリアンの経営者でした。経営難に追いつめられた彼を励ますために、妃奈が同じことをしたのだとしたら?
“――あと二年は頑張って。この実感を伴う励ましを与えるために、妃奈は彼に生命保険の加入を勧めたのではないか。(中略)妃奈は気落ちした川喜多に元気を取り戻してほしかった。銅森の時のように”
美桜の想像は一本の電話によって裏付けられることになります。
「小林美桜さんの携帯電話でしょうか。こちらは風の子育英財団と申します」
妃奈は受け取った三千万円を全額、寄付していました。
※以下、小説より一部抜粋
…………
もう間違いなかった。私の妹は誰かを傷つけ、虐げるような人間ではない。
むしろ、最後まで弱者に寄り添う心の持ち主だった。
自分の体ひとつでは抱えきれないほどの感情が波打ち、込み上げた。思いが溢れて溢れて視界を滲ませる。
「う……」
妹は世間の言うような悪人ではなかった。彼女が虐げる側ではなかったということだ。
よかった。本当によかった。
私ひとりだけ搾取される側になるのは嫌だから。
「うう……ふふ……」
やはり妹も私と同じくらいに惨めな人生を歩んでいたのだ。
「ふふ、ふふふ……」
私の唇からは、糸のような細い笑いが止まらなかった。
人生で何度も僻んだことがある。
なぜ自分が不幸な目に遭わなくてはならないのか。
どう考えても、私の人生は子どもの頃から人と比べて劣っていた。つらいこと、哀しいことが多すぎた。
だがその理不尽な痛みも悔しさも、同類がいればいくらか薄まる。
不幸なのは私だけじゃない。
父親を殺されたのは私だけじゃない。母に捨てられたのは私だけじゃない。妹の妃奈だって同じだ。
なぜだろう、このように考えを落とし込むと、気持ちが落ち着くのだ。
(中略)
だが、妃奈自身が保険金殺人をやっていたとなると話が変わってくる。
いつの間にか妃奈が私を取り残し、虐げる側へ変貌していたことになるからだ。
彼女が密かに人を踏みつけ、それで得た利をひとりで楽しんでいたという事態だけは我慢がならなかった。黙って他人に踏みつけられていた自分があまりに惨めだった。そんなことがあっていいはずがないと思った。
そこで、妃奈の疑惑を晴らそうと私は必死になっていたのだった。
妹を私と同じ哀れな岸辺に引き止めておきたかった。そうしないと、私の心はひとりぼっちになる。
私は目じりを拭った。笑いすぎて涙が出たのだ。
今、私は妹の疑惑の真相を知って、再び心の平安を得た。
やはり、妃奈は私と同じ人間だった。
生前、妃奈が偶然に手に入れた大金を遺児の支援団体に寄付したのも、虐げられる側の人間ならではの発想だった。未だに父を亡くした不幸な過去に囚われていたのだ。
しかも、その美しい行為はほとんど誰にも知られていなかった。私の妹は最期までこちら側に留まり続けたのだ。そして、最大の搾取の結果として、殺された。
「ふふふふふ……」
私は何度も目元を拭った。鈍い電流のような心地よい痺れが、妹の本性を確認できた私の神経を噛んでいた。
幸せだった。
佐神の影
イヤミスなオチもついてなんだかもう終わりそうな雰囲気ですが、実際にはようやく前菜が終わったといったところです。
小説的にはここで第一章が終わり、メインディッシュであるところの第二章に突入していきます。
妃奈への疑惑は晴れました(※)が、いまだ妃奈を殺した犯人は捕まっていません。
※財団が寄付を公表したことにより世間の誤解も解けます。
そんな中、失踪していた母親・寛子の遺体が発見されたことで物語はさらに加速していきます。
母親の死はほとんど妃奈と同じ状況でした。殺人事件であり、犯人は不明。
短期間のうちに家族が二人も殺されるだなんて、偶然とは思われません。
消息不明になっている佐神翔が犯人なのではないか?
だとしたら、佐神は小林家の生き残りである美桜をも狙ってくるのではないか?
美桜の予感は残念ながら的中しています。
小説には佐神視点の場面がときおり挟まれていて、読者には佐神が犯人であるとわかるようになっていました。
ただし、彼はすでに佐神という名字ではありません。
佐神は戸籍を買ってまったく別人の名前になっていました。そのうえ整形をして顔も変えています。
先回りしてネタバレすると、佐神はすでに美桜の近くにいます。
いったい誰が佐神なのか? 美桜はどうなってしまうのか?
『レモンと殺人鬼』第二章の始まりです。
<すぐ下のネタバレにつづく>
ネタバレ
佐神がいくら顔と名前と変えていたとして、性別や年齢までは誤魔化せません。
十四歳で事件を起こした佐神翔はいま、二十四歳になっているはずです。
美桜の周囲にいる人間で二十代の男性といえば、
- 渚丈太郎(大学四年生)
- 桐宮証平(大学院生)
の二人が当てはまります。
さて、どちらが佐神なのか……。核心に迫る前に、もうひとつだけ説明しておきたいことがあります。それは【蓮】の存在についてです。
蓮(れん)は十年前の回想に登場する少年です。
まだ優しい父親が健在だった頃、小学四年生だった少女は蓮に恋をしていました。
蓮は「グリル那見」の前を通りかかる中学生の男の子です。料理人志望だという蓮は、彼女が語る店(父親)の話を興味深そうに聞いてくれました。
実に微笑ましい初恋の思い出といったところですが……雲行きが怪しくなってくるのはここからです。
第一に、【蓮】という名前は少年の本名ではありませんでした。
彼が偽名を使っていたというわけではありません。実は、彼らはお互いに名乗っていなかったのです。
少女は雰囲気の似ているアイドルの名前からとって彼のことを心の中で【蓮】と呼んでいました。ちょっとした叙述トリックですね。
はい。少女の回想に当時中学生だった本名不明の男の子が登場していたということには大きな意味があります。
つまり、蓮は佐神だったのではないか? という話です。
いいえ、もうこの際、疑問符をつけることもなかったかもしれません。以下は、佐神側の回想です
…………
佐神が海に臨むその家を見つけたのは、通っていた中学校から自宅への帰り道だった。
佐神はその古びた建物が気になった。一階が自営業の店舗で、二階はその家族の住む住居となっているようだ。
自転車を止めて眺めていると、中から小学校高学年くらいの少女が出てきた。
その姿を見た瞬間、耳の奥がぐわん、と鳴った気がした。目が離せなくなった。
…………
なにからなにまで一致します。蓮の正体は佐神だとしか思われません。
※少女には姉妹がいたり、父親の仕事を誇りに思っていたりと、状況証拠はこの後も山のように出てきます。
そして、ここが重要なのですが、佐神もまた少女に恋をしていました。
その恋慕たるやすさまじく、それまでの佐神のすべてだった人斬りの欲求を凌駕するほどでした。
ある日、佐神は少女が泣いているところに出くわします。話を聞いてみると、父親に手を上げられたショックで泣いているとのことでした。
彼女の姿を見て、佐神は思います。
“彼女の涙は見たくない。そのためなら自分は何だってする。(中略)佐神は少女を愛し、心から彼女の幸せを望んだ。そうして、きわめて合理的な殺害の方法を思いついた”
あるいは、佐神が小林恭司を殺したのは「少女を泣かせたから」という理由のためだったのではないでしょうか?
だとすれば、佐神が美桜を殺すことはありえないように思われます。
真凛の正体
ここから始まる怒涛の展開は、すべて一夜のうちの出来事です。
美桜はいつものように大学事務室での仕事を終え、そのあとクラブのボランティアに出向いていました。
この日は桐宮が不在で、クラブには美桜と真凛の二人だけ。あいかわらず真凛は美桜の呼びかけを無視し、目も合わそうとしません。クラブにはどことなく険悪な空気が漂い、子どもたちも不安そうです。
このままではいけない。そう思った美桜は、クラブが終わりそそくさと帰ろうとする真凛を呼び止めます。逃げられないように腕を掴むと、真凛は金切り声を上げました。
「許して。殺さないで」
美桜は困惑します。真凛がどうして泣き出しそうな顔をしているのか、まったく意味がわかりません。
よくよく話を聞いてみると、真凛はずっと美桜に怯えていたのだといいます。これまでからかってきた仕返しとして美桜に殺されるのだと、真凛は思い込んでいました。
そのあたりは恋人である渚に説明してもらいましょう。いつしかその場には彼女を守るように渚丈太郎が駆けつけていました。
「小林美桜は、実はあの凶悪な佐神事件の被害者家族で、最近は妹まで殺されたらしい。その妹自身にも保険金殺人の疑惑がある。妹が犯罪者なら、姉の美桜も同じようなことをする人間なのかもしれない。自分はとんでもない人をいじめてしまった、どうしよう――真凛ちゃんは真っ青になって、そんなことを言うんだ。俺がどれだけ大丈夫だと宥めても安心しない」
飛躍した理屈ですが、一応、真凛が怯えている理由はわかりました。
これにより、渚が美桜の調査を手伝ってくれた理由にも説明がつきます。
妃奈が潔白だと証明すれば、真凛の恐怖を取り除けると考えたのでしょう。
まあ、結局、妃奈への疑惑が晴れた今も真凛はこうして怯えたままなのですが……。
渚は言います。
「でも、その心理っておかしいだろ?」
※以下、小説より一部抜粋
…………
渚に問いかけられて、私は頷こうとした。真凛の恐怖は私への誤解からきているのだから。だが、そうする前に、
「真凛ちゃんにとって一番怖いのは俺じゃないとおかしいだろ? 彼氏としても、男としても」
小首を傾げながら、渚は当然のように言った。
「え?」
「怖いって思われることは尊敬されていることなんだから。真凛ちゃんが心から恐れるべき相手は俺ひとりなんだ。それなのに、見当違いの方向へ目を向けている。彼女の目を覚まして、ちゃんと俺が最も尊敬すべき存在だと気づかせてあげないと」
渚の正体
渚丈太郎には裏の顔がありました。
尊敬と恐怖を混同し、真凛から恐れられたいと欲するサイコパスじみた一面です。
わけのわからない理屈ですが、渚はとにかく真凛が美桜に恐怖していることが許せないのだといいます。
「だから、さ。もうあんたを殺すしかないじゃん」
渚の右手にはいつしかナイフが握られていました。
その目はまっすぐに美桜を捉えています。
「あんたは俺がこの大学の学生じゃないことにも気づいてる。渚丈太郎が帰国して、大学の事務室を訪れたらしいな」
すでに情報過多なのは承知の上ですが、実は渚は本人ではありません。
本物の渚は海外留学のため二年間休学していたのですが、つい最近になって帰国しています。
では、これまで美桜が接してきた渚は誰なのか?
まさか佐神か――!? と疑いたくなるところですが、彼は佐神ではありません。
では誰なのかと言われれば「渚丈太郎を自称していた何者か」です。
渚(偽物)は言います。
「大学職員のあんたが上司にチクったら、俺は終わりだ。真凛ちゃんとの関係だけじゃない。ここでの大学生活は終わって、俺は恥を晒すことになる。じゃあやっぱり、あんたを殺すしかないじゃん。ああ、面倒くせえ」
渚の殺気にあてられて、美桜は逃げだすことも、叫ぶことさえできません。
固まってしまっている美桜に、渚はずんずんと近づいていって……
と、そのときです。
「おい、何してるんだ」
美桜を守るように一人の男が立ちふさがります。
そのあとクラブの桐宮でした。
※以下、小説より一部抜粋
…………
「どけよ」
渚が低い声で凄んだ。
「ナイフを下ろせ」
桐宮は冷静に応じた。
「あんた、自分が何してるのかわかってるのか」
「わかってないのはおまえの方だろ」
渚は部外者とは話す気はないというふうに前進した。
「俺はそいつに用があるんだよ」
ナイフごと私達に突っ込んでくる。
桐宮は引かなかった。私の盾になるように両手を広げた。
その背中が、渚にぶつかられた衝撃で揺れた。
私はあっと声を漏らした。
しかし、それはガラスを叩き割ったような凄まじい悲鳴にかき消された。
桐宮は地面に膝をついた。
その向こうで、渚が動きを止めるのが見えた。悲鳴の上がった斜め後方をゆっくりとふりかえる。
そこに座り込んでいたのは真凛だった。彼女の位置からは、渚がナイフをかざして桐宮に襲いかかるのがはっきりと見えたのだろう。悲鳴が止まった後も、白い顔が一度溶けてかたまった蝋燭のように引きつっている。
「真凛ちゃん?」
渚が呼びかけると、真凛の顔はいっそう歪み、ほとんど白目を剝いた状態になった。
「わかってくれたか」
渚が声を弾ませた。
「やっと少しは俺のことをわかってくれたのか」
その横顔は、喜びに輝いていた。これほど生き生きとした彼の顔を私が見たことがなかった。
渚の言葉に、真凛は壊れた人形のようにがくがくと体を戦慄(おのの)かせた。彼の言うとおり、人を傷つけることも厭わない彼氏の本性を実感したのだろう。
「……い」
彼女は急に立ち上がった。
「いやっ」
一声叫ぶと、演習林の中を駆け出した。もはや渚を見ることさえ耐えられなくなったに違いなかった。
すると、渚も踊り上がって私たちの前から踵を返した。
「待てよ、真凛ちゃん」
嬉々として真凛を追いかけていく。
「もっとちゃんと見てくれよ、俺はすごいんだから。これからやるから見てくれよ……」
次第に遠ざかる彼の声には、抑えきれない笑いが滲んでいた。それに応えることなく、真凛の背中は演習林に消える。続いて、恋人を追う渚のそれも見えなくなった。
私と桐宮がその場に残された。
この後、渚と真凛はもう登場しません。なんだったんだ……。
桐宮の正体
桐宮に怪我はありませんでした。幸運なことにスーツの内ポケットに入っていたスマホがナイフを受け止めてくれていたためです。
「かすり傷ひとつありませんよ」
桐宮は命の恩人です。しかし、それにしても彼の行動は無謀だったと言わざるを得ません。
奇跡的に無事だったからよかったものの、一歩間違えば桐宮は命を落としていました。
桐宮はたしかに善人です。そのあとクラブを設立・運営していることからもそれはよくわかります。
ただ、だからといって命を懸けてまで美桜を守ろうとするでしょうか?
桐宮は言います。
「やっと、守れた」
違和感のある言い回しでした。「……やっと?」美桜のつぶやきに桐宮は頷きます。
「ずっと、あなたに会いたいと思っていた」
※以下、小説より一部抜粋
…………
「あなたの方は気づいていなかったでしょうね。僕はずいぶんと前からあなたのことを知っている」
混乱する私を前に、桐宮はヒントを出すように、
「那見」
独特の思い入れを込めて、私の故郷の地名を口にした。父が殺される日まで私が子ども時代を過ごした海のある町。
「僕もそこの出身なんです。子どもの頃、中学の通学路にログハウスの洋食屋がありました」
グリル那見のことだとしか考えられない。私のことを、子ども頃から知っていたのか。それを隠して私に近づき、有償ボランティアに勧誘した。
おそらく、私に定期的に接触できるように。
「その店が、僕は気になって気になって。いや、本当に気になっていたのは……」
私はふいに耳を塞ぎたくなった。
もはや彼の正体は明らかだった。
(中略)
そこまで考えて、はっとした。
初めから佐神に私を殺す気はなかったのではないか。
なぜか。思いあたることはある。
それに、あの頃――事件が起こる少し前から、私は時おり自分を見つめる目を感じていなかったか。だが、気のせいだと思っていた。それで、今まで忘れていた。
私は大きな勘違いをしていたのかもしれない。
と、桐宮と目が合った。彼は頷くように瞬きをした。
「あの時、僕はあなたを救いたかった。あなたの涙を見たくなかった。だから、素性を隠して近づいた。でも、子どもだった僕は未熟で」
彼の声を聞きながら、私は、記憶を引き出した。
地獄
直前の場面に含まれていたかすかな違和感に気づかれたでしょうか?
注目していただきたいのは次の一文です。
それに、あの頃――事件が起こる少し前から、私は時おり自分を見つめる目を感じていなかったか。だが、気のせいだと思っていた。それで、今まで忘れていた。
美桜が察したように、どうやら桐宮の正体は蓮であり佐神です。(桐宮=蓮=佐神)
だとしたら、彼は美桜の初恋の相手ということになります。回想では頻繁におしゃべりしている様子が描かれていました。
うん、やっぱりおかしいですよね。
「私は時おり自分を見つめる目を感じていなかったか」という言いまわしには距離を感じます。
これではまるで桐宮が一方的に美桜を見つめていたかのようです。
というわけで、どんでん返しが始まります。
小説においてはなかなかに衝撃的な展開だったのですが、後も詰まっていることですし、ここではあっさりと開示しちゃいますね。
回想において蓮と話していた、蓮に恋していた少女(=私)の正体は美桜ではありませんでした。
では誰なのかといえば、もちろん妃奈ということになります。
そして、もうひとつ。
蓮が「グリル那見」に通っていたのは、妃奈に会うためではありませんでした。
蓮はずっと少女の姉妹、つまり美桜のことを気にしていていました。
蓮は妃奈に言いました。
「君の家で起こっていることを、正直に話してくれないか。僕は彼女を救いたいんだ」
ちょっと話がややこしくなってきたので、一度整理しておきましょう。
蓮と桐宮は同一人物です。
蓮がいつも話していた相手は妃奈であり、美桜とは話していません。
蓮は美桜を救いたいと思いつつ、中学生の立場ではなにもできず、そのことを後悔していました。
桐宮が美桜を「そのあとクラブ」に誘ったも、渚から守ろうとしたのも、かつての後悔を繰り返さないためだとすれば納得がいきます。
一方で、わからないこともあります。
十年前、美桜の身には何が起こっていたのでしょうか?
優しい父親に愛され、厨房でレモンを搾っていた少女の正体は妃奈でした。
ならば、美桜は?
小学四年生だった美桜の役割は、鶏小屋でニワトリを解体することでした。
桐宮「鳴きながら抵抗してばたつく鶏を、表情ひとつ変えずに押さえつけて殺した後は、その鶏を解体していった。血を抜いて、羽根を毟って、骨を折って、肉を切って。みるみる小屋の中に鶏の血のにおいが充満して、女の子の手は真っ赤になった。それでも、やっぱりその子は無表情だった。僕が見ているのにも気づかずに、次々と鶏を捌いていった」
※以下、小説より一部抜粋
…………
父はなぜ私に鶏の解体を任せるのか、説明をしなかった。ただ、推測はできた。
彼は自身と娘、それぞれが捌いた鶏を食べ比べることによって、チキンのレモンソテーの完成度が違うことに気づいたらしかった。
おそらく私の捌いた方が不思議とおいしくできたのだ。
事実として、私が鶏を絞め始めた頃から、グリル那見のチキンのレモンソテーは評判になった。
店の経営が立て直される見込みが出てきた。家計にも改善の兆しが見え始めた。そのため、母も妃奈も、私が父から頼まれるようになった仕事について、何も言わなかった。
見て見ぬふりをした。
店は弾みがついて繁盛し、休日には行列ができるほどになった。大半の客の目あてはあの看板メニューだ。そうすると、鶏小屋で地道に鶏を育てていては鶏肉の供給が追いつかなくなってきた。
そこで、業者から食べ頃の鶏を十数羽、定期的に仕入れることになった。狭い小屋の中で、もはや鶏達は歩くこともできなかった。ただ、その場でわずかに首を上下させながら、くつくつと鳴いていた。
私は毎日、その中に入っていった。
決して、強制されていたわけではなかった。父に頼まれていただけだ。父の私への口調は常に優しかった。
だから、私はやった。
地獄だった。
学校から帰ってくると、私はひとりで鶏小屋に入る。日に日に捌く鶏の数は増えていく。鶏の叫び声ともがく感触、血のにおいとべたつきが五感に張りついてしまって、涙も出なかった。
それでも、感情がどうしても揺れ動いて止められなかった時があった。
あの小屋の中で鶏と目が合ってしまった時だ。
絶対に見ないようにしていたのに、よりによって絞める瞬間に目を合わせてしまった。瞼のない鶏は、私を見つめたまま絶命した。
私は腕の中の生温かい死骸を放り出して小屋を出た。まだ父に注文された数を捌いていなかったが、限界だった。どうして自分だけがこんな目に遭わなくてはならないのか。
厨房へ駆け込んだ。
厨房は父ひとりだった。包丁を置いて振り返った彼は、ひどい顔と格好の私を見て驚いた。わけを尋ねられたので、私は初めて本音を口にした。
嫌だと。もう鶏小屋に行きたくないと、泣きながら訴えた。
顔面に衝撃を受け、口腔から出血していることに気づいた時には、私は冷蔵庫のそばに転がっていた。
だしぬけに父から拳で殴り飛ばされ、倒れたのだ。
どうして、と混乱した。今まで親に手を上げられたことは一度もなかった。
殴りつけた父自身が、ぎょっとした顔をしていた。取り繕うように私の前にかがみ込み、手を差し伸べようとした。
だが私は、父の心の深淵を覗いてしまった気がした。身を捩って父から逃れ、厨房を出た。
そして、とぼとぼと鶏小屋に戻った。
ほかに帰る場所が見つからなかったのだ。店には父がいる。店の外にはお客さんがいる。私はどうしても、鶏を殺し続けなければならないのだ。
涙と鼻血が止まらない中で、仕事をやり遂げた。最後に、小屋に散らばった鶏の羽根を箒で掃き集めながら、また明日が来るのだと思った。
ちょうどその晩のことだった。
「あなたが不憫でならなかった」
記憶を割って、桐宮の声が入り込んできた。
「僕はあなたを救いたかった」
だから、父を殺したのか。
私は呆然と彼を眺めた。こちらに向けられたそのまなざしは、私の心を温めようとするかのようにやわらかかった。
父を殺した容疑で逮捕された佐神は取り調べで、「ゴミっぽい人間を殺した」と供述したという。
彼はログハウスと鶏小屋を覗き見て、妃奈からさりげなく我が家の事情を探り、そう判断していたのか。
グリル那見の料理人がいなくなれば、私が鶏を処理する必要はなくなる。
美桜には
- 鶏が苦手で食べられない
- 歯並びの悪さがコンプレックス
という記述がありました。前者は言わずもがな、後者は父に殴られたせいで前歯が抜けてしまったためでした。(もともとは美人とされる妃奈と似た顔立ちだった)
殺人鬼
美桜のなかですべてがつながりました。
桐宮は美桜を救うために小林家を皆殺しにしていたのです。妃奈と母親まで手にかけた理由も、いまならわかります。
“父に苦しめられる私を助けなかった母も妹も、彼にとっては父と同罪だったのだ”
手段はともかく、桐宮の犯行動機は美桜への思いやりでした。
では、美桜は彼のことをどう受け止めるべきでしょうか? 答えは決まっています。
「それで私が喜ぶとでも、思っているんですか」
桐宮のおかげで鶏を殺し続ける地獄から解放されたのは事実です。同時に、彼のおかげで小林家内の格差も崩壊しました。ある意味、美桜はたしかに桐宮に救われていました。
しかし、だからといって彼に感謝するはずもありません。
地獄から抜け出した先に待ち受けていたのは、また別の地獄でした。
結局、美桜たちは【虐げる側】である桐宮のエゴに弄ばれたにすぎません。
美桜は桐宮の顔にバッグを投げつけ、走り出します。
「待って」背後からは桐宮の声が迫ってきます。こうなるとバッグを投げつけてしまったのは短慮でした。スマホで通報することができません。
大学内を逃げ回るにも限界がありました。かといって駅を目指したのでは確実に追いつかれてしまうでしょう。
走り回った末に、美桜は守衛室に駆け込みます。
大学の正門では顔見知りの守衛が寝ずの番をしていました。
「警察に通報してください」
緊迫した美桜の要請に、しかし、守衛の反応は鈍いものでした。「はい?」守衛は椅子に座ったままとぼけた顔をしています。
桐宮はもうすぐそこまで迫ってきていました。もうすぐ角を曲がり、こちらにやってきます。時間がありません。
せめて、守衛室にいるところだけは目撃されないようにしなくては。
美桜は守衛室に踏み込み、その奥の休憩室に隠れます。
「匿ってください。お願いします」
「ちょっと、あなた……」ドア越しに守衛の戸惑った声が聞こえたかと思うと、今度は窓口から桐宮の声が聞こえてきました。「すみません」
美桜の所在を尋ねる桐宮に対し、守衛はしらをきってくれているようでした。
しかし、やがて守衛室のドアの開閉音がしたかと思うと、
「この」「あっ」
争う音。どさり、と重いものが倒れる音。守衛室に踏み込んできた桐宮が守衛を倒したようでした。
美桜が隠れていた休憩室のドアが開けられます。ぎらり、と鈍く光る刃物に真っ先に目が吸い寄せられます。
それは日本刀でした。
※以下、小説より一部抜粋
…………
部屋の入り口からでも私を串刺しにできそうなほど長い刀身だった。いつのまに用意したのだろう。
あんなものを躱して逃げきれるはずがない。私の喉から呻き声が漏れた。
「桐宮さ……」
途中で言葉が止まった。
逆光で見えにくかった姿が、だんだん見分けられてきていた。私の前に立つ男はスーツではなく、紺色の制服を着ていた。
目がおかしくなったのだろうかと訝った。
なぜ守衛が私に刃物を突きつけているのか。
よく見ると、彼の背後にはスーツの体が転がっていた。窓口のある部屋で桐宮が倒れているようだ。殴られて気絶したのか、ぴくりとも動かない。
新たな考えが頭をもたげた。
桐宮が佐神だと思ったのは、私の勘違いだったのではないか。
(中略)
彼(桐宮)は私を救いたいとは考えたが、そこにおかしな意味はなかった。
そのためと銘打って父や妃奈や母を殺したのでもない。
なぜなら、桐宮は私に何ら犯行を示唆していない。私を救いたかった、守りたかったと話していただけだ。それを私が早とちりしたのではないか。
逃げ出した私を彼が追いかけてきたのは、純粋に私の身を案じただけだったのかもしれない。私は渚に襲撃された直後だったのだから。
そうだとすると、佐神は別に存在していることになる。
だが。
私の意識は床の桐宮からその手前へと戻った。
日本刀を構えた相手はにこっと目を細め、
「久しぶり」と言った。
毎日、校門で挨拶を交わしている時とは明らかに口調が違った。
この守衛が佐神ということがあるだろうか。
彼はどれだけ若く見積もっても、二十代には見えない。
四十代後半から五十代といったところだろう。現在、行方不明になっている佐神翔とは年齢が合わない。
「誰、ですか」
声が掠れた。
「まあ、わからないよね。実は前に一度会ってるんだけど」
まさか。会っていたとしても、日本刀を突きつけられる覚えはない。
「もう十年は経つなあ。窓ガラス越しとはいえ、私は君の顔を見た」
守衛と目が合った。その目に既視感を覚え、あっと私は声を漏らした。
十年前、父が殺され、佐神が逮捕されて二週間ほどたった頃のことだ。我が家に訪問客があった。母は門前払いしたが、私は窓からその姿を見た。彼は――。
徐々に思い出していく私を眺めながら、彼はちょっとおどけた調子で名乗った。
「私、佐神逸夫と申します」
佐神翔の、父親だ。
真犯人
どんでん返しが頻発する本作には、叙述トリックがいくつも盛り込まれていました。
【蓮】が本名じゃなかったこともそうですし、回想の少女が美桜ではなく実は妃奈だったこともそうですね。
同じように、【佐神の回想】の主は佐神翔ではなく、父親の佐神逸夫でした。
ちょっとわかりにくいと思うので、整理しますね。
第一に、小林家の父・恭司を殺したのは佐神翔です。通り魔的な犯行であり、そこに深い意味はありませんでした。
第二に、佐神(父)が恋をしていた少女というのは妃奈でも美桜でもありません。
佐神が回想していたのは、やがて彼の妻になるまったくの別人のことです。つまり、佐神は蓮ではありません。
この点については注意深く考察していればわかったかもしれませんね。桐宮=蓮は美桜を救おうとしていましたが、恋をしていたわけではありません。佐神の回想と食い違います。
第三に、妃奈と小林家の母親を殺したのは佐神逸夫です。
問題はここです。これまでは佐神翔(=蓮=桐宮)が、美桜のために一家を皆殺しにしていたのだと思われていました。しかし、それはすでに否定されています。
では、なぜ佐神逸夫は美桜の妹と母を手にかけたのでしょうか? しかも、今頃になって。
佐神の犯行動機を解明するためには、彼の半生を振り返る必要があります。
佐神逸夫は幼い頃から狂気に憑りつかれていました。時代劇で見た牛若丸のように、刀で人を《すぱあん》と斬ってみたいと心の底から欲していました。
そうして彼は実の母親を殺します。しかし、生身の肉体を鮮やかに切断することは難しく、彼の理想とはほど遠い不格好な人斬りになってしまいました。
母親殺しは事故として処理されました。そして、彼に運命の瞬間が訪れます。やがて妻になる少女との出会いです。
佐神の内側に芽生えた少女への愛は、人斬りの欲求に勝るものでした。
彼女と一緒にいるため、佐神は人斬りの欲求を封印します。やがて妻が亡くなっても、息子の翔がいる限り封印は続きました。
ところが、です。
ある日、佐神は解放されます。息子の翔が死んだためです。
驚くのはここからです。
佐神翔は、小林妃奈によって殺されていました。
※以下、小説より一部抜粋
…………
「四か月前、小林妃奈さんは私がひとりで暮らしている家に突然やってきたんだ。人目もあるから家に上げると、いきなりスマホで写真を見せてきた。そこに写っていたのは、翔の死体だった」
(中略)
「驚いてさすがに言葉がなかった私を、妃奈さんはにやにやしながら見ていた。復讐だったんだろうね。自分のお父さんを殺した翔が許せなかったばかりでなく、その家族にも仕返ししたかった。翔の父親である私に、理不尽に家族を奪われた人間の気持ちを味わわせてやりたかったんだろう」
優しかった妃奈。銅森や川喜多といったどん底の状態にある恋人達を真摯に励まし続けた妃奈。成功した銅森に捨てられても恨まず、川喜多に先立たれてもその保険金を全額寄付した妃奈。
一方で、殺された父を誰よりも愛していたのも彼女だった。
私と違って、父のお気に入りだった妃奈は鶏の解体を強いられなかった。厨房の父の横でレモンを搾っているだけでよかった。
それは人生の中で最も穏やかで満ち足りた時間だったはずだ。事件さえ起こらなければ、至高の日々は中断されなかった。今の貧困も孤独もなかった。
そう考えると、妃奈はたまらなかったのかもしれない。
彼女の佐神翔への遺恨は私より数段、根深かったのだ。
(中略)
「妃奈さんからいきなり息子の死体を見せられた私の気持ちがわかるだろうか」
佐神の父親の声が降ってきた。
「妻の最期の言葉を守って、私なりにずっと息子を大切に育ててきた。罪を犯そうと成人しようと、一生支えていくつもりだった。その翔が突然、死んでしまった。それを知った時の私の気持ちが、わかるだろうか」
答えようがなかったが、相手も私の答えを求めていないだろう。流れるように彼は続けた。
「自由だと思った」
「……」
「死んだ妻に翔を頼むと言われたから、懸命にやってきた。でもその翔がいなくなったんだ。これからは世話を焼きようがない。私はお役御免で、自由だ」
結末
自由になった佐神は、手始めに妃奈を斬りました。
息子のかたき討ちともとれる構図ですが、佐神にしてみれば「斬りたいから斬った」というだけのことです。
佐神の人生における二度目の殺人は、まだまだ彼の理想には遠いものでした。《すぱあん》と一刀両断、とはいきません。
佐神は言います。
「頭の中でどれだけ計算しても、やっぱり初めはうまくいかないね。刀の切れ味もよくなかった。でも、いい勉強になった」
佐神にしても妃奈を一刀両断できるとは思っていませんでした。一刀のもとに人体を真っ二つにするのがいかに難しいのか、彼は母親を手にかけたときに学んでいます。
だから、妃奈はあくまでも練習台でした。
小林家の母親を斬り、そうして最後の生き残りとなった美桜を斬るときに理想を叶えられればいい。それが佐神の計画でした。
なぜ小林家を狙うのかといえば、きっかけは息子の「解体ノート」です。
「あの子がお父さんを切り刻んだ時の様子が、実に詳細に記録されていたよ」
親子間では骨格も遺伝するといいます。解体ノートに記されていた父親の骨格を参考にすれば、その娘を《すぱあん》と斬れるのではないか、と佐神は考えました。
くり返しになりますが、妃奈は彼にとって練習台でした。
小林家の母親を殺したのも練習のため。佐神は最後の一人こそ本番だと定めていました。
彼が大学の守衛として雇われているのは、もちろん偶然ではありません。
佐神は美桜の近くでずっとチャンスを待っていました。しばらくは妃奈の疑惑などで美桜の周囲が騒がしく、手をこまねいていたのですが……
「君達の方から飛び込んできてくれた。いや、ありがたいよ」
※以下、小説より一部抜粋
…………
「さあ、始めようか。きっと今度こそウシワカみたいにやれるだろう」
彼は左手を日本刀の柄に添え、狙いを定めるように目を細めた。
私は虫けらのように殺されるのだ。
じわっ、と目頭が熱くなった。
両目からマグマのような粒が次々と流れ落ちていく。
「泣くのはやめてほしいな」
興が削がれたように、佐神の父親が少し肩を落とした。
「ウシワカの敵はめそめそしないんだよ」
違う。
めそめそしているんじゃない。哀しいのでも苦しいのでもない。
悔しいのだ。
なんで私ばかりがこんな目に遭うのか。何で最後まで佐神親子に虐げられ続けるのか。なんで一度たりとも向こう側へ回れないのか。
はっとした。私は自分の本心に初めて気づいた。
本当は、なれるものなら私も虐げる側の人間になりたかった。
気に入らなければ相手を打ち破り、自分を守れる人間に憧れていた。自分も彼のように生きられたら、どれだけ気楽に人生を歩めただろう。
十年前、彼が父を殺すもっと前に私に同じことができていたら、鶏小屋での地獄の日々を味わわずに済んだのに、と考えたことすらある。
佐神を許せなかったのは、息詰まるほどの憧憬の裏返しだったのだ。
私は彼がうらやましかったのだ。ずっと。ずっと。
(中略)
ずどん、と頭の中に隕石が落ちた気がした。
そうだ、佐神翔は私の妹が殺したのだった。それも事件が発覚しないように、巧妙なやり口で。
隕石は光りながら私の脳にめり込んでいく。
父を殺した男への復讐は、妃奈にとって楽しい時間だったのではないだろうか。
そして、その時の彼女は、ここ十年ほどで私が見たことのない表情を浮かべていたのではないか。
私の心臓はにわかに駆け足になった。急激に喉が渇いてきた。
父だってそうだ。
彼は少年犯罪の不幸な被害者だが、殺される前は私の心を殺し続けていた。
親の頼みを断れない子どもの心理を悪用して、営利目的で鶏を解体させていた。虐げる者の行為以外の何ものでもない。
私に救いの手を差し伸べなかった母も同類と考えていいだろう。
そして、その猛々しい血は私にも流れている。
子どもの頃、鶏を捌かせられてつらいと思っていた。
だが、鶏小屋に飼われていた無数の鶏の方にしてみれば、私が搾取者だったのだ。虐げる者だったのだ。
(中略)
そのことに気づいた私の心臓は躍動し、全身に熱い血をいき渡らせた。お腹の底からみるみる力が湧いてくる。
日本刀を振りかぶった佐神の父親が迫ってくる。
私はためらわなかった。一度、上体を反らし勢いをつけてから相手に飛び込んだ。
同時に、右手をポケットに入れる。中にはガラス片が入っていた。それを握りしめ、少年のようにきらきら光る目のひとつに突き立てる。
情けない悲鳴が上がり、目の前の紺の制服が大きく跳ねた。ガラスの尖った先がうまく眼球に命中したようだ。がらん、と床の上に長いものが転がった。
佐神の父親の手から日本刀が離れたのだ。それを私は見逃さなかった。
すばやく拾い上げる。すると、佐神の父親は左目を手で覆いながら、こちらに突っ込んできた。
私は冷静に刃物を振るった。
鶏の解体なら数えきれないほどやった。その経験を応用すればいいだけだ。
ざくり、ざくりと、相手の肉に刃先が食い込む感触も、顔に飛んでくる血も、大きな鶏のものだと思えば何ともない。
ほどなくして、どさり、と佐神の父親が前のめりに倒れた。それきり、起き上がる様子はない。
荒い息を吐きながら、私は手にした日本刀を下げた。
勝った。私が勝った。急に縮んだように見える死体を見下ろしながら考える。
この状況から、私には正当防衛が認められるだろう。全面的に認められなかったとしても、重い罪には問われない。有罪判決でも執行猶予がつくはずだ。堂々と外を出歩けるだろう。
父、妃奈、母、佐神、そして、佐神の父親。この五人の死を踏み台にして、私は過去と罪から逃れて自由になる。やっとこれから新しい、本物の人生を歩み出せる。
私は口元に手をやり、ずっとつけていたマスクを剥ぎ取った。
そこに相手の血がべったりとついて、不織布越しに呼吸がしにくかった。何より、直接外の空気を味わいたくなった。
マスクを外すと、ちょうど吹き込んできた夜風で、唇がひんやりとした。その隙間からはみ出した一本だけの前歯にも風が当たった。
この歯並びを治そう、という考えが閃いた。
時間とお金がいくらかかってもいいから、これからきれいに治そう。
新鮮な空気を深く吸い込みながら私は決めた。
<おわり>
小説『レモンと殺人鬼』を読みました📖
どんでん返しが二段構えになっていると嬉しい、そんなあなたに読んでほしい! 物語後半、次々に襲いかかってくる驚きの連続はまさに圧巻の一言。これ、すごいです。
⬇️あらすじと結末🍋https://t.co/9U4u8FTKAD
— わかたけ@小説ネタバレ紹介 (@wakatake_panda) July 2, 2023
まとめ
今回はくわがきあゆ『レモンと殺人鬼』のあらすじネタバレをお届けしました。
二万字。二万字です。最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
これでも短くしようと頑張ったのですが、二転三転と押し寄せるどんでん返しに為す術もなくどんどん記事が長くなっていってしまいました。
それでいて「ここもいい場面なんだけどな……」というエピソードを割愛していたりもするので、いかに内容がみっちみちに詰まっていたのかがうかがえるというものです。
最後まで読んでみれば、主要登場人物のほとんど全員がヤバいやつだったわけですが、なかでも特に狂気が濃いのは美桜だと思います。
虐げる側、虐げられる側、その境界線に彼女はこだわっていました。
はたして彼女の心はいつから壊れていたのでしょうか?
ぞっとするような鶏小屋での仕事で? それとも父親に殴られたときに?
歯並びのせいでいじめられていた中学時代? あるいは貧困から抜けだせない苦しい暮らしがゆっくりと心を蝕んでいたのかもしれません。
どんでん返しのネタはすべて割れてしまっているのですが、美桜が隠し持っていた狂気を想像しながら再読するのもおもしろそうだな、と思いました。
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とてもよくわかりやすい解説で、引用の箇所も的確だと思いました。ありがとうございます!