日本ホラー小説大賞・読者賞受賞!
いかにも怖そうな肩書なのに、小説「記憶屋」はちっとも怖くありません。
じゃあ、どんな小説なのかといえば、これは『切ない』の一言に尽きます。
謎の存在「記憶屋」を巡る物語、としてはミステリーっぽくもあるのですが、あまりに結末が切なすぎて、もはやその印象しか残っていません。
- 「記憶屋」の正体とは?
- 切なすぎる結末とは!?
というわけで今回は、織守きょうや「記憶屋」のあらすじネタバレ(と感想)をお届けします!
あらすじネタバレ
『記憶屋』
それはとても狭い地域で語られている都市伝説。
夕暮れ時、公園の緑色のベンチに座って待っていると『記憶屋』は現れる。
そして、消してしまいたい、どうしても忘れられない記憶を消してくれる。
悲しい記憶を。
痛ましい記憶を。
それがあっては生きていけないような記憶を、きれいさっぱり消してくれるという。
『記憶屋』の正体は、誰も知らない。
第1章 吉森遼一と澤田杏子
遼一が杏子に恋をしたのは、大学に入学してすぐのことだった。
出会いはサークルの飲み会。
遼一は積極的にアプローチして、1学年上の杏子とデートを重ねていった。
友達以上恋人未満の関係。
このまま自然な流れで杏子と正式な恋人同士になれるのだと、遼一は信じていた。
◆
ただひとつだけ、遼一には気になることがあった。
それは杏子の帰宅時間。
杏子はいつも夜8時には家に帰ってしまう。
「門限が厳しいんですか?」
軽い気持ちで口にした質問に、しかし杏子はビクッと震わせた。
「えっと……その……夜道が怖くて」
夜道恐怖症。
遼一が思うよりその症状は深刻だった。
「……こんなの異常だよね。9時以降は怖くて1人じゃ外歩けないし、防犯グッズいくつ持ってても安心できない。1人じゃ電車の中でもバスの中でも、ずっと催涙スプレー握ってなきゃ怖いなんて……握ってても、怖いなんて」
杏子は夜道恐怖症を克服するため、心療内科にまで通っているのだという。
ただ、今のところ成果は出ていないらしい。
「あたし昔、痴漢にあったことがあるの。そのときは通りかかった人がいて助けてくれたんだけど、ほんと怖くて。あたし体力とかも結構自信あったし、気も強い方だったのに、怖くて声も出ないんだよ。今でも思い出すもん。トラウマってやつなのかも」
一度染みついた恐怖は、簡単にはなくならない。
頭では大丈夫だとわかっていても、どうしても怖くなってしまう。
「どうしたらいいのかわかんないんだ」
途方に暮れた様子で、杏子はぽつりとつぶやいた。
遼一は、何と言葉を返していいのかわからなかった。
◆
別れ際、ふいに杏子は言った。
「ねえ、吉森。記憶屋って知ってる?」
遼一の地域では『記憶屋』というマイナーな都市伝説が噂されていた。
曰く、依頼人の願いに応えて、望まない記憶を消してくれる怪人。
杏子の場合、痴漢された記憶が消えたなら、夜道恐怖症が治るのかもしれない。
しかし、都市伝説はあくまで都市伝説。
『記憶屋』なんて存在するはずがない。
◆
やがて杏子は熱心に記憶屋伝説について研究するようになっていった。
(……頼るなら、怪人じゃなくて俺を頼ってくれればいいのに)
すっかり会えなくなった杏子に、遼一は電話をかけた。
「先輩、俺、協力しますから。ちょっとずつ慣らしていけばいいじゃないですか。俺、先輩のことずっと家まで送りますから」
「だめだよ、吉森」
いまにも泣きそうな杏子の声に、遼一は言葉を失った。
「だって、あたし、吉森と一緒にいても怖いんだよ」
ごめん、と空気を震わせる声は、ほとんど泣き声になっている。
「吉森がいい奴だってわかってるけど、わかってるのに、二人でいると変に緊張している。どっかで……警戒してる。ごめんね、吉森。本当にごめん」
言葉が、出なかった。
「でもあたし、吉森とちゃんとつき合えるようになりたい。助けてもらうんじゃなくて、ちゃんと向き合いたい。だから……。ごめん切るね。吉森、ごめん、ありがと」
遼一が何も言えないうちに、電話は一方的に切れた。
杏子の深刻さを何もわかっていなかったことに、遼一は今さらながら気がつく。
(頼られて、助けて……ぜんぶ騎士気取りの自己満足だったんじゃないか)
むしろ、夜道恐怖症を克服させてあげようという遼一の考え方が、杏子を追い詰めていた。
(追い詰めたかったわけじゃないのに……)
遼一は自分の無神経さを恥じた。
◆
それから、杏子への電話はつながらなくなった。
翌日。
遼一は杏子の姿を探して方々を駆けずり回った。
しかし、どこにもいない。
もう帰宅しているのかと家にも行ってみたが、留守だった。
時刻はすでに夜。
杏子が一人では出歩けない時間だ。
あるいは、どこかで立ち往生しているのかもしれない。
遼一はひどく不安になった。
だから、ようやく杏子の後ろ姿を見つけたとき、遼一は違和感よりも先に安心感を覚えた。
「澤田先輩!」
その後ろ姿を呼び止める。
しかし、心のどこかでは気づいていた。
杏子が入っていったのは「怖くてとても通れない」と言っていた、家への近道になる細く暗い脇道だ。
あの杏子が、はたしてそんな道を通るだろうか?
遼一に呼び止められた杏子は振り向いて、怪訝そうな顔をした。
「あの……誰、ですか?」
暗くて顔が見えない、というのではない。
杏子は遼一のことを覚えていなかった。
(いや、今はそれよりも……)
遼一はサークルの後輩だと名乗ると、一番の疑問点を口にした。
「大丈夫なんですか? こんな……暗い道。一人で、もう遅いのに」
「え? ああ、うん。何かあったら大声出せばいいし」
平気だよ、と杏子は明るい笑顔を見せた。
「まあ、そうそう危険なこともないでしょ。あたしそういうとこ運いいし、腕力にも自信あるから、もし痴漢にあっても撃退しちゃうって」
その言葉ではっきりした。
今の杏子は、遼一が知る杏子ではない。
杏子は過去のトラウマを忘れていた。
夜道恐怖症を忘れていた。
そして、遼一のことを忘れていた。
◆
(記憶屋、か?)
頭に浮かんできた可能性を、遼一は即座に否定する。
確かに、杏子は記憶屋と会う方法を探っていた。
痴漢と夜道恐怖症にまつわる記憶の一部として遼一の存在まで消された、と考えればつじつまは合う。
しかし、記憶屋はあくまで都市伝説なのだ。
都市伝説の、はずだ。
自分に言い聞かせながらも、遼一は河合真希のことを思い浮かべる。
河合真希。妹のように思っている幼なじみ。隣の家に住む女子高生。
子どものころ、彼女の記憶が不自然に消えたことを、遼一は今でもはっきりと覚えている。
(記憶屋……実在しているのか? いや、そんな馬鹿な……)
杏子と他人になってから、結局まともに話すこともできず、わだかまりを抱いたまま、遼一は二年生になった。
あの夜、杏子が知らない人間を見る目で自分を見たときの、背筋が冷えるような感覚は、今も忘れられない。
◆
ある日、知らない番号から電話がかかってきた。
『この間は、ありがとう。記憶屋のこと、助かったよ。お礼がしたいから、今度何かご馳走させて。それじゃ、また』
電話の相手は大学OBの高原智秋弁護士だった。
大学の講演会で、遼一は何げなく高原に記憶屋と法律を結びつけた質問をしたことがある。
しかし、それだけだ。
電話番号を教えた覚えはない。
高原に礼を言われることをした覚えもなければ、食事に誘われるほど親しくなった覚えもない。
遼一は愕然とした。
(俺が記憶屋を調べていた? 高原さんにそれを話した?)
覚えていない。それはつまり……
(俺の記憶が、記憶屋に消されている?)
手のひらがじっとりと汗ばむ。
突きつけられた現実に、遅れて恐怖が来た。
真希、杏子、そして自分。
もう認めざるをえない。
記憶屋は、実在する。
第2章 外村篤志と高原智秋
「トノちゃんさ、俺のとこでバイトしない? 家政夫の。今の時給の倍出すからさ」
そんな一言をきっかけに、外村(とのむら)篤志はクラブのボーイから高原法律事務所の家政夫になった。
なぜ外村に声がかけられたのかというと「料理の腕が立つ」という、至極シンプルな理由だった。
「ほら、女性を雇うと変な噂が立つかもしれないからさ」
高原智秋弁護士は笑って言う。
「高原さん、ゲイじゃないですよね?」
外村が恐る恐る確認すると、高原は一拍おいてから爆笑した。
◆
高原の事務所兼自宅の散らかりっぷりときたら、想像を絶するものだった。
外村は「なるほど。家政夫が必要なわけだ」と納得する。
とはいえ、家事に専念するだけでこの時給なら割はいいほうだろう。
つまらないことで絡まれるボーイでいるよりは落ち着いて仕事もできそうだ。
知り合って間もない高原弁護士にも不満はない。
外村は「案外、悪くないな」と思った。
◆
勤め始めて2年が経つ頃には、外村は高原との日々をすっかり楽しんでいた。
高原は仕事外では子どものように笑いはしゃぐ。
そんな高原のわがままに「やれやれ」と息をつきながらつき合うのは、外村にとって決して嫌なことではなかった。
これからもずっと、この日々が続いていくのだと信じていた。
(しかし、どうやらそれは不可能らしい)
外村の人生を劇的に変えた男、高原智秋。
彼はもうすぐ死ぬ。
◆
「治らないんだってさ」
あっけらかんと高原は言った。
その口調とは裏腹に病状は重く、もう長くはもたないということだった。
「これ、トノちゃんが管理しといて。でも、まだ開けちゃだめだよ。くれぐれも紛失しないように」
高原から手渡されたのはぶ厚い茶封筒。
「何ですか、これ」
「ラブレター?」
「……先生」
それはいったい何の冗談なのか。
外村が呆れていると、高原は笑って言った。
「いやいや、ホント。俺が死んだらその時開けてよ」
ある日のこと。
高原は極めてさりげなく、ただ遊びに行くように事務所を出ていった。
しかし、外村はその行き先を知っていた。
高原はこれから『記憶屋』に会うのだ。
◆
外村はこっそりと高原を尾行した。
(あの人が『記憶屋』なのか)
ずいぶん予想とは違う外見だったけれど、そういうものなのだろうと納得する。
2人が別れた後、外村は『記憶屋』に声をかけた。
「治らない病人に、自分がもうすぐ死ぬということを忘れさせることは、できますか」
わかっている。これは高原のためじゃない。
わざと明るく振るまう高原を見ている自分の方が耐えられないのだ。
『記憶屋』は答える。
「できます。でも、この場合は……たぶん、問題があります」
『記憶屋』の視線が外村の肩ごしに後方へ向けられる。
外村が振り向くよりも早く声がした。
「当事者の俺が記憶屋の存在を知っていて、嫌だって言ってるからだよ」
心臓が跳ねる。
振り返ると、予想した通りの人間が立っていた。
先ほど歩き去ったはずの。
「先生……」
「ばれちゃったか。まあしょうがないよね。トノちゃん結構鋭いから」
高原は自分の記憶が消されることを拒否した。
それはつまり、高原もまた自分ではない誰かの記憶を消してほしいと『記憶屋』に依頼したということだ。
「心配しなくても、トノちゃんじゃないよ」
高原の理想は、誰も泣かない葬式なのだという。
しかし、外村は泣くどころか高原の後を追ってしまいそうな人間を、ひとり知っている。
安藤七海。
高原のクライアントの娘で、高原がうっかり救ってしまった女子高生。
かつてリストカットを繰り返していた彼女は、高原の言葉に救われた。
そして今では押しかけアシスタントとして、しょっちゅう事務所に出入りしている。
高原も外村も、七海のことは可愛く思っていた。
もちろんそれは七海が高原に抱いているような恋愛感情ではなかったけれど。
「彼女、ですか」
『記憶屋』に依頼したのは。
「うん、まあね……好かれすぎないようにしてたんだけどね。このままじゃ本当に後追いとかしちゃいそうだったから」
高原はもうすぐ死ぬ。
その事実をまじまじと感じさせる言葉を聞いても、外村は表情を変えない。
変えないように、こらえている。
高原をこれ以上心配させないために。
内心では、もうとっくに泣きたくなっていた。
「ごめんね。でもトノちゃんは覚えてて。七海ちゃんが俺のこと忘れても、俺がいなくなっちゃってもさ」
高原はこんなことまで笑顔で口にする。
「俺が生きてるとこも、死ぬとこも、トノちゃんは見て、忘れないでいてよ」
まただ。涙ぐみそうになる。
この人の前で泣くなんて、絶対にしてはいけないのに。
よほど情けない顔をしていたのか、高原はまた少し笑った。
「自分のこと、泣くほど惜しんでくれる人を作っちゃったのは確かに失敗だけど、それよりもっと重大な失敗は、笑ってバイバイするのが難しいくらい、『俺が』好きな人たちを作っちゃったことかな」
今度こそ視界がにじんで、慌てて唇を噛みしめた。
◆
高原があらゆるあらゆる準備を済ませていたおかげで、彼の死後に混乱はなかった。
ふと思い出して、外村は以前渡されていた茶封筒を紐解く。
中に入っていたのは権利書や遺言状……もろもろの書類と、短い手紙だった。
『ありがとう。あとはよろしく。またね。それまでは生きてください』
高原の声で聞こえた。気がした。
(ああ……今なら、泣いても誰も見ていない)
恐怖をこれぽっちも表に出さず、自分や七海のことまで心配していたお人好しの彼はもういない。
今さらながら、ちゃんと「ありがとうございました」と言っておけばよかったと、外村は思った。
わかってるからいいよ、彼が笑った。
気がした。
第3章 関谷要と佐々操
関谷要は昔から笑わない子どもだった。
小学校に入る前に母親が家を出ていったこと。
無口で仕事熱心な父親が子どもに目を向けなかったこと。
それらが原因なのだろう、と彼と年の近い叔父である関谷正は分析している。
要が笑顔を見せる相手を、正は2人しか知らない。
1人目は自分。
2人目は、幼なじみの佐々操。
無口で大人しい要と、元気で明るい操。
2人の性格は正反対だったけれど、だからこそ馬が合ったのかもしれない。
操と一緒にいるとき、要はとても自然な笑顔を見せた。
◆
最近、要と操の様子がおかしい。
要の無表情にも、操の笑顔にも、ぎこちない硬質さが見てとれる。
きっと何かトラブルがあったのだろう、と正はすぐに思い至った。
とはいえ、要も操も中学生である。
悩みの1つや2つくらいあって当然かと思って、正はそっとしておくことにした。
◆
次に会ったとき、操の笑顔はいつも通りの屈託のないものに戻っていた。
「よかった。元気そうで」
「あはは、何それー、あたしはいつも元気でしょ」
すっかりいつも通りの操だ。
正は心からよかったと思った。
きっとトラブルは解決されたのだろう。
「要はまだ帰ってきてないけど、あがってお茶でも飲んでいく?」
何気なく、そう口にする。
「かなめ? さん?……えっと、あたし、会ったことないよね?」
「……え?」
操は要のことを完全に忘れてしまっていた。
家族から「小さいころからあんなに仲良しだったのに」と言われても、実感がないらしい。
一方、そんな状況に対して、要はいつも以上に無表情を貫いていた。
操の記憶が消えた原因を知っているのか。
操の記憶から消されたことをどう思っているのか。
その本心をうかがい知ることはできなかった。
何も話そうとしない要を見ながら、正は思う。
(要、知ってるのか。操ちゃんはおまえが好きだったんだぞ)
操はきっと、要のことを忘れたくなんかなかったはずなのに。
◆
要が女性や恋愛に対して、一種嫌悪のような感情を抱いていることを正は知っていた。
きっと家を出てすぐに年下の男と暮らし始めた母親のせいなのだろう。
ともかく、要は女子から告白されても断ってばかりだった。
操はそんな要の事情にうすうす気がついていた。
だから、要に告白できなかったのだ。
とはいえ操なら、もしかしたら壁をのりこえて要に近づけるかもしれない、と正は思っていた。
(思ってたのに、な……)
◆
やはりどう考えても要の態度はおかしい。
いきなり操に忘れられたのに、どうしてそんな諦めきった表情ができる?
正が強く問い詰めると、要はようやく口を開いた。
「告白されたんだ、佐々に」
それは要が他の誰かに告白された直後で、佐々を見たときは安心したと要は言う。
「それなのに、まさか佐々にそんなこと言われると思ってなかったから」
裏切られたような気になった。
だから、操をふった。
「おまえ……まさか、それ、操ちゃんには」
「さすがに裏切られたとまでは言ってないよ。……でも、冷たくふった。はっきり……迷惑だって、言ったよ」
まるで、突き放すように。
「どうして……」
操は要にとってかけがえのない存在だったはずだ。
もしふるにしても、どうしてわざわざ傷つける言い方を選んだのか。
「俺は……おまえにとって操ちゃんは特別だと思ってたよ」
それ以上、何も言えない。
要は視線を落とし、ぽつりと言った。
「特別だったよ」
うつむいたまま、要は気持ちを吐きだす。
「特別だった。大事だったよ。正兄さんと佐々といる時だけは安心できたんだ。なくしたくないと、思ってた」
「……要」
「誰に告白されたって、断った後のことなんて考えもしなかった。どう思われようが何と言われようがどうでもよかった。あんな言い方しかできないくらい動揺したのは佐々だったからだ」
正に口を挟ませないくらい、早口に、何かにぶつけるように。
話す要の声は、次第に強くなる。
いつのまにか、冷静で無感動な声ではなくなっていた。
「佐々とだけはずっと、今までと同じ……あのままの関係を、続けられると思ってたんだ。何があっても佐々と正兄さんだけは……あの場所だけはいつも在るからって、大丈夫だって。何の根拠のなく信じてた。僕が勝手に信じてたんだ。でも、佐々は……」
要はぐっと何かを押さえ込むように一度口を閉じた。
顔にかぶさった前髪の間からのぞく顔は、ひどく辛そうだった。
「……やめてくれ、って。やめてくれ頼むから、って……佐々の顔も見ないで、言った。本心だったよ。それしか考えられなかった」
苦しそうに、ひどい痛みをこらえるように顔を歪めて――今のように、こんな風に、要は操にそう言ったのか。
突き放す言葉。冷たい言葉。それだけではなかった。
操ならわかっただろう。
「……傷つけたかったわけじゃないんだ」
やがて、ぽつりと言った。
「でも、傷つけたんだと思う。……忘れてしまいたいと思うくらい」
顔を伏せたまま、力なく。
そう言った要自身も、操と同じように傷ついているように見えた。
大事だった。特別だった。恋愛感情がなかっただけだ。
要が操に恋をしなかったことも、操が要に恋をしたことも、どちらも仕方のないことだ。
誰にもどうしようもないことだった。
「佐々が僕を、友達としてじゃなく好きにならなければ、ずっと一緒にいられたのに……佐々の僕への気持ちが、僕から佐々を奪っていくんだと思った。それで佐々を傷つけたって、元に戻れるわけじゃないのに」
かける言葉が見つからない。
でも、正には言わなければいけないことがあった。
操がもう忘れてしまっているのなら、伝えられるのは自分しかいない。
「要。操ちゃんは、おまえに突き放されたことが悲しくて、記憶を消したんじゃないと思う」
知ったところで、何が変わるわけでもない。
それでも。
「操ちゃんは自分の気持ちがおまえを独りにするって、わかってしまったから、どうしたらおまえに『大事な友達の佐々操』を返してやれるかって、考えたんだと思う」
びくりと、要の肩が動いた。
「操ちゃんが努力して今まで通りに振るまったとしても、今まで通りではいられない。告白をなかったことにしたところで、気まずくなるのは目に見えてる」
ゆっくりと、丁寧に、言葉を選ぶ。
「それに操ちゃんだって、お前への気持ちを完全に捨てて、これからもずっとただの友達として接するのは辛いだろうしな。無理がある。だけどもし、彼女が、おまえをすっかり忘れてしまったら」
一度言葉を切り、息を吸って吐いた。
「そうしたら、恋愛感情も当然、消える。……それしか方法が思いつかなかったんだ」
操が記憶を消したのは、きっと要のためだ。
それが、要と「友達」に戻るための唯一の方法だったから。
「恋愛感情だけじゃない。操ちゃんは、お前が彼女を思っていたのと同じようにおまえを好きだった。友人としてのおまえのことも、ちゃんと好きだったよ。要」
「おまえは、だから、裏切られてなんかいない」
要はわずかに顔をあげ、……それから、またうなだれた。
何かに懺悔するように、しばらくの間、そのままの姿勢でいた。
声を殺していた。
◆
「……忘れられたかった、わけじゃないんだ」
◆
登校中、操がこちらに気がついた。
「あ……おはよう! 早いんだね要くん」
要が振り向くと、前と変わらない笑顔があった。
いつも自分に向けられていた笑顔だ。
しかし、要のことを「カナくん」と呼んでいた彼女はもういない。
この世のどこにも、いない。
切ないような痛みが胸をよぎって、要は唇を歪めた。
「おはよう」
微笑んでみせる。
ぎこちなさを隠しながら。
操は嬉しそうに、笑い返してくれた。
最終章 吉森遼一と記憶屋
遼一は『記憶屋』を追いかけ、高原の死と、操の忘却のことを知った。
知れば知るほどわからなくなる。
『記憶屋』は善なのか、悪なのか。
外村も要も、『記憶屋』のことを憎んではいなかった。
依頼人当人にとっては、それこそ《恩人》のような存在なのかもしれない。
それでも。
それでも遼一は、『記憶屋』のことが許せなかった。
杏子に忘れられたから、というだけではない。
どんなに辛い記憶でも、それはもうその人の一部だ。
つまり、記憶を失うということは、その人がその人じゃなくなるということなのだ。
辛い記憶を失えばハッピーになれる……なんてのはまやかしにすぎない。
記憶を……自分の欠片を失うことは怖いことで、もったいないことで、そして悲しいことなのだから。
そんなこと、許されていいはずがない。
今や遼一は使命感にも似た思いで『記憶屋』を追っていた。
◆
『記憶屋』に会うには、公園の緑色のベンチで待っていればいいという。
それが本当なのかはわからないし、そもそもどの公園のベンチなのかもわからない。
それでも遼一は近所の公園のベンチが緑色だと気づいた日から、その場所を気にするようになった。
『記憶屋』の噂は特に女子高生の間で流行しているらしく、制服姿の女子を見かけることが多かった
ある日、遼一はそのベンチに真希が座っているのを目にする。
もちろん偶然かもしれない。
しかし、もし真希が『記憶屋』に会おうとしているのなら……。
遼一は真希が忘れている子どものころの記憶を伝えることにした。
もう、大切な人に記憶を失ってほしくなかったから。
真希が失った記憶。
それは母親の浮気を知ってしまったこと。
当時、真希はまだ小学校低学年だったから、事情はよくわかっていなかったと思う。
それでも子ども心にただならぬ雰囲気を感じたのだろう。
真希はひどく泣きわめき、遼一が緊急避難的に彼女の祖父の家に送り届けるまで泣きやまなかった。
そして次の日、真希はけろりと前日の記憶を失くしていた。
◆
「……覚えてないけど、知ってるよ」
記憶は消せても、事実は消せない。
真希は中学生のころに、母親がかつて浮気していた事実を再び知ってしまったのだという。
昔と比べて成長しているとはいえ、まだ中学生の真希にはショックな話だった。
そこで真希は再び『記憶屋』を頼ることにした。
「でもね、断られたの」
「断られた……? 『記憶屋』に?」
「うん。その時教えてもらったの。あたし、小さいころ、お母さんの浮気のこと聞いちゃったことがあるんだって。あたしの記憶はその時1度消したんだって。あの時のあたしは子どもだったから、消すしかなかった。でも、もう今は、ちゃんと自分で考えて想像して、理解して、結論を出せるんだからって。そういわれたの。記憶を消すのは取り返しのつかないことだから、軽はずみにしていいことじゃないって。記憶を消すのは最後の手段で、簡単にはやっちゃいけないことなんだって、言ってた」
遼一は衝撃を受けた。
真希が母親の浮気を知っていたこと。
ずっと追い求めていた『記憶屋』について、真希が誰よりも詳しく知っていたこと。
いや、そんなことよりも。
なぜ、真希は『記憶屋』に会ったことを覚えている?
『記憶屋』に会った人間は、例外なくその記憶を消されているはずだ。
しかし、真希は『記憶屋』との会話まで覚えている。
これはいったい……?
「……おまえ、『記憶屋』のことを覚えてるのか?」
「覚えてるよ。大好きだった。……遼ちゃんも、覚えてるでしょ?」
真希は泣き笑いのような表情で遼一を見て言った。
「あたしの、おじいちゃんだよ」
結末
記憶屋の正体は、真希の祖父。
納得はできた。
だからあの時、真希は祖父の家に避難した翌日にはもう記憶を失っていたのだ。
しかし、とすると決定的におかしいことがひとつある。
真希の祖父は、とっくの昔に他界している。
では、現代の『記憶屋』はいったい誰なのか?
……考えるまでもない。
そんなの、1人しかいない。
「俺が探してた『記憶屋』は、」
「……うん。……ごめんね、遼ちゃん」
記憶屋が出現するという緑色のベンチ。
そこに真希がいたのは『記憶屋』を待っていたからではない。
真希自身が『記憶屋』だったのだ。
『記憶屋』から真希を守ろうと思っていた自分が、ひどく滑稽だった。
◆
「どうして……」
「だって、目の前に困っている人がいたら助けるでしょう? あたしだって、記憶が大事なものだってことくらいわかってるよ……」
与えられた力を人のために使おうとして、それでもたくさん悩んで、正体がバレたらどうなるかと思うと怖くて……。
遼一の目の前にいるのは怪人『記憶屋』ではなく、よく知っている妹のような河合真希だった。
とても近い存在だったはずなのに、今はどうしようもなく遠い存在のように感じる。
真希は記憶を消すことで人を救えると信じている。
いくら「記憶を消すなんて、やっちゃいけないことなんだ」と言葉を重ねたところで、簡単に変わるような信念じゃない。
「消したいような記憶でも、もしかしたら何年か後にそれがいい思い出に変わったり、嫌な思い出でもそれがきっかけで変われたりするかもしれない……だろ? 記憶を消すことがその人にとっていいことか悪いことかなんて、その瞬間だけじゃわからないんじゃないか……?」
真希の表情は、変わらなかった。
悲しそうで、何かを諦めたような顔をしていた。
どうしても伝わらないのか。
それとも、伝わってもだめなのか。
真希はふいに早口で、
「ね、遼ちゃん、杏子さんに忘れられて辛かった?」
といった。
「杏子さんのこと忘れたい? 消してあげようか。あたしできるよ。なかったことにしたら楽になるよ」
口元は笑いに似た形に歪めて、しかしうつむいたままで、それまでの遼一の話を聞いていなかったような言葉。
笑顔をつくりきれずに唇が震えている。
それに気づいて、遼一は少し冷静になった。
「俺は、先輩と会ったことまで忘れたいとは思わない」
ゆっくりと、静かな声で言った。
「辛いことは忘れて、出会いとか傷とかもなかったことにして、もう一度やり直したいって人が、いるってことはわかった。そうしないと生きていけない人も、いるのかもしれないってことも。でも、俺はそうしない。記憶を消す道を選ぶのが自由なら、選ばないのも自由だろ?」
真希は先ほどよりはまだ笑顔に近い表情をつくり、顔をあげて遼一を見る。
「……そう言うと、思ってた」
目が潤んでいる。
「記憶を消して、リセットして、白紙からもう一度って」
消えそうな声で、真希が言う。
「みんな何かをやり直すために『記憶屋』を探すけど、やり直しなんて、本当にきくのかなぁ」
記憶屋自身の口から聞けるとは思わなかったその内容に、耳を疑った。
「夜道が怖くなくなった杏子さんは、また危険な目にあって、やっぱり夜道を歩けなくなるかもしれない。操ちゃんは、せっかく忘れた幼なじみの男の子のこと、また好きになっちゃうかもしれない。そうだとしたら、あたしがしたことって、何の意味があったのかなぁ」
自信なんて、いつでもなかった。
そう言って、真希は泣きそうな顔になる。
「でも、でも、もしかしたら、変わるかもしれない。操ちゃんは、今度は違う男の子を好きになって、幼なじみとしてずっと彼と一緒にいられるかもしれないし、幼なじみの男の子のほうが、今度は操ちゃんのこと、好きになるかもしれない……もしかしたら」
喉の奥から搾りだすような「もしかしたら」に、遼一は何も言えない。
「もしかしたら、なんて、なんで思っちゃうんだろう。繰り返し、繰り返し、何度失敗しても、もしかしたらって。馬鹿みたいに。なんであたしだけ、変わらずに」
「……真希?」
「あたしは、記憶屋だから」
『記憶屋』は自分の記憶を消せない。
誰も覚えていない記憶を、ぜんぶぜんぶ覚えていなければならない。
消したい記憶があっても、消すことなんてできない。
『記憶屋』だけは。
「好きな人があたしとの思い出を忘れちゃっても、あたしはその人の前で、いつも通り笑ってなきゃいけないんだよ……その思い出は、もうあたしの中にしか、ないものだから」
遼一の知らないところで、真希が記憶を消した人間はどれだけの数にのぼるのか。
その中には、真希の言う「好きな人」もいたのだろう。
それを経験して、その痛みを知ったうえで、真希が人の記憶を消しているのだとしたら……。
「それがあたしの罰なのかなって、思う」
想像もしていなかった『記憶屋』の苦悩だった。
そして、『真希』の。
「なぁ、……もう、いいんじゃないか? そんな辛いのに続けることない。力があるからって、使わなきゃいけないわけじゃないじゃないか」
自分もほとんど泣きそうになりながら言う。
「俺はさ、馬鹿みたいだけど、お前のこと守ってやらなきゃって思ってたよ。記憶屋から。俺にできること、何もないのか?……おまえこのまま続けていくつもりなのかよ。……そんなカオしてまで、なんで続けなきゃなんねえんだよ。なぁ……真希」
どうしようもなくて、どうしようもないことがわかって、真希を引き寄せた。
「泣くなよ……」
責めるつもりも追い詰めるつもりもなかったのに、今、真希は泣いている。
泣き顔を見ることができなくて、両腕で背と肩を抱きしめた。
小さい体だった。それで、余計に泣きたくなった。
「守ってなんて、くれなくていいよ。そんなのいらない、から」
遼一の肩にあごを乗せるような形で、真希が言う。
「一度だけでいいから……」
「あたしのこと、好きになって」
何を言われたのか、わからなかった。
わからずにいるうちに、視界は白い霧に覆いつくされた。
エピローグ
気がつくと、吉森遼一は近所の公園にいて、腕の中に一人の少女を抱きしめていた。
今まで何をしていたのか。
どうしてここにいるのか。
何も分からない。
腕の中にいるのは、妹のように思っている、年下の幼なじみだった。
「……真希?」
泣き顔などずいぶん久しぶりに見た気がする。
いつも明るい彼女が声もあげずに泣いていることに動揺する。
「真希、どうしたんだよ」
驚いて体を離そうとしたが、真希が泣くのをやめないので、さんざん迷ったあげくに再び背から肩へ腕を回した。
「なぁ、泣くなよ。おまえに泣かれると、どうしていいかわかんなくなる」
困り果てて抱きしめる。
何故だかわからないが、胸が痛かった。
「泣くなよ……」
遼一の肩口に顔をうずめたまま、真希が何か言ったようだった。
ごめんなさいと聞こえた気がしたが、よく聞き取れなかった。
<完>
感想
まあ、切ないよね!
とにかくラストに全部持っていかれました!
正直、『記憶屋』の正体が真希だとわかった段階で「謎は全て解けた!」って感じだったので、その後にさらに衝撃がくるとは思ってなくて、すっかり油断していました。
- 記憶屋の正体は真希
- 真希は遼一のことが好き
この2つのパーツはしっかり伏線として置いてあって、それには何となく気づけていたのですが、そのさらに先、
- 真希は遼一に好きになってもらいたくて、遼一の記憶を消していた
という真実にはまったく気づきませんでした。
だから、あのラストを読んだ時はグサーッ!っと胸を突き刺されたような気がしました。
もう、あまりに切なくて切なくて……。
きっと真希は物語中で明らかになっている以上に、何回も何回も遼一の記憶を消していたんですよね。
でも、遼一は何度繰り返しても真希のことを「妹のような幼なじみ」としか思ってくれないわけで。
それでも真希は1%あるかないかわからない希望にかけて再び遼一の記憶を消すんですけど、それは遼一の中から自分の記憶(=存在)を消す行為にも等しいわけで……。
もしかしたら、誰よりも一番記憶を消したかったのは真希自身なのかもしれません。
何度繰り返しても遼一に異性として見られなかったという記憶なんて呪いそのものです。
でも、真希は『記憶屋』だから、自分の記憶を消すことができません。
あまりにも哀しく、あまりにも切ない結末でした。
まとめ
今回は織守きょうや「記憶屋」のあらすじネタバレ・感想をお届けしました!
では、最後にまとめです。
- 記憶屋の正体は幼なじみの真希。
- ひとりの女の子としての真希は遼一のことが好きだけど、記憶屋のことを知られたら記憶を消さなければならない。
- ラスト。真希は遼一の記憶を消した。
「一度だけでいいから……あたしのこと好きになって」
真希が遼一の記憶を消したのは、このセリフの直後。
気がついた遼一は、当然ながら真希の告白を覚えていません。
記憶を失ったことにすら気づいていない遼一と、記憶を消したことを自分の胸の中にしまっておかなければならない真希。
とても一言では言い表せない複雑で痛切な《切なさ》が心に残る小説でした。
映画化について
さて、そんな「記憶屋」が実写映画化!
気になるキャストは以下の通りです!
- 山田涼介(吉森遼一役)
- 芳根京子(河合真希役)
- 蓮佛美沙子(澤田杏子役)
- 佐々木蔵之介(高原智秋役)
キャスト豪華ですね!
山田涼介さんの遼一ももちろんいいのですが、個人的には佐々木蔵之介さんの高原はハマリ役な気がします!
ちなみに映画版のストーリーはこんな感じ。
大学生の遼一は、年上の恋人・杏子と幸せな日々を送っていたが、プロポーズをした翌日から連絡が取れなくなってしまう。そして、数日後に再会できた杏子は、遼一の記憶だけが無くなっている杏子だった。遼一はにわかには信じることができなかったが、都市伝説的な“記憶屋”のことを知り、大学の先輩で弁護士の高原に相談し、杏子が記憶を失った原因を探すことに。幼馴染の真希や高原の助手・七海らとともに調べていくと、遼一は人々の中にある「忘れたい記憶」やその奥にある想いなどに触れていく。そして、その先には彼らの運命を大きく変える真実があった──。
赤字にした部分は原作小説との相違点です。
原作が連作短編小説っぽいつくりだったので、それを1本にまとめたらこうなったのかな、という印象ですね。
それと、ちょっとラブストーリー成分を濃くしてる感じなのかな。
小説とはまた少し違うみたいなので、どんな構成になっているのか楽しみです。
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