本格ミステリ

『ロスト・ケア』あらすじネタバレ解説|衝撃の犯人と結末【映画原作小説】

葉真中顕『ロスト・ケア』を読みました。

介護問題をテーマにした社会派作品でありながら、本格ミステリとしても完成されている傑作です。

物語終盤、不意にあらわれた《あの仕掛け》には心底驚かされました。

今回はそんな小説『ロスト・ケア』のあらすじがよくわかるネタバレ解説をお届けします!

ぱんだ
ぱんだ
いってみよう!

あらすじ

戦後犯罪史に残る凶悪犯に降された死刑判決。

その報を知ったとき、正義を信じる検察官・大友の耳の奥に響く痛ましい叫び――悔い改めろ!

介護現場に溢れる悲鳴、社会システムがもたらす歪み、善悪の意味……。

現代を生きる誰しもが逃れられないテーマに、圧倒的リアリティと緻密な構成力で迫る!

全選考委員絶賛のもと放たれた、日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作。

(文庫裏表紙のあらすじより)

冒頭

「被告人を、死刑に処す」

法廷で言い渡された死刑宣告に、しかし、犯人は微笑みます。

(後悔はない。全て予定通りだ――)

戦後最大の連続殺人事件。実に43人もの命をその手で奪ってきた犯人は凶悪犯らしからぬ雰囲気をまとっていて、穏やかに微笑む様子はむしろ聖人のようですらありました。

<彼>と表記される犯人はいったい何者なのか?

どのような目的で連続殺人に手を染めたのか?

物語は過去へとさかのぼり、犯人の正体と思惑に迫っていきます。

確信犯

<彼>が殺したのはいずれも手厚い介護が必要な高齢者ばかりでした。

<彼>はそれらの老人と個人的な接点はなく、つまり怨恨による殺人ではありません。

また、<彼>にはそれらの老人を葬ることで得られる利益はありませんでした。犯行動機は金銭でもありません。

では、<彼>はいったいどうして次々に老人を始末していったのでしょうか?

検事の大友は<彼>が精神異常者……サイコパスなのではないかと疑いましたが、それも間違いです。

ぱんだ
ぱんだ
つまり?

↓は<彼>が取り調べの際に口にした犯行動機です。

「殺すことで彼らと彼らの家族を救いました」

一見するとそれこそサイコパスの台詞のようですが、そうではありません。

作中には<彼>によって母親を殺された羽田洋子という人物が登場します。

洋子はシングルマザーであり、幼い息子を育てつつ、家計のために身を粉にして働き、さらには認知症を患う母の介護を負担していました。

有料老人ホームに親を入れるだけの金はなく、特別養護老人ホームは先の見えない順番待ち。頼れる人物はなく、生活保護は断られました。

それでもまだ母に感謝され、奉仕する実感があるうちは耐えられていました。

けれど認知症により母が洋子を娘と認識できなくなってからは、もうダメです。

洋子に向けられる視線は見知らぬ他人へのそれになり、目には怯え、あるいは警戒の色が浮かんでいて……。洋子の心は、とうとうぽっきりと折れてしまいました。

医者の見立てによれば母の身体は健康で、あと10年は長生きできるとのことでした。

金もなく、自由もなく、未来もない。

底なし沼のような絶望の日々。

だから、洋子は《その時》こう思ったのです。

母が死んだ。地獄が終わった。

また、後の事情聴取ではこうも言っています。

「……私、救われたんです。たぶん、母も」

いったい、どこの世界に子どもを苦しめたいと願う親がいるでしょう?

正体不明になり、愛する家族を傷つけてしまうくらいなら、いっそ天に召されてしまいたいと望むのが親の情というものです。

つまり、これは尊厳死の問題でもあります。

<彼>が洋子の母親を殺したのは、その母親を含む家族全員を救うためでした。

そして当事者である洋子も実感として、救われたと認識しています。

<彼>は確かに殺人によって救いをもたらしていました。洋子たちの家族だけでなく、40を超える家庭を同じ方法で救っていました。

正しいことをしていると確信しての殺人。辞書的な意味での「確信犯」です。

<彼>は連続殺人犯であり、死刑を宣告されます。

けれども、<彼>は果たして悪だったのでしょうか?

作中には羽田家の悲惨な日常がこれでもかと描かれていました。読んでいるだけで気分が悪くなるような惨状でした。けれど、大げさというわけではなく、現実に起こっている惨事なのだという説得力がありました。

母の死にどこか安心を覚えた洋子を薄情者とは決して思いません。

犯行方法

物語の主題からは少し離れるのですが、一応ミステリ作品ということで「How done it?(犯行方法)」についても触れておきたいと思います。

といっても、なにも<彼>は天才的なトリックを使っていたわけではありません。

殺害方法は《毒殺》

市販されている煙草からニコチン溶液をつくり、それを注射していました。

遺体には注射痕が残りますし、司法解剖されれば一発で他殺だとバレてしまう単純な手口です。

にもかかわらず、約三年間にわたる<彼>の犯行がずっと露見しなかったのはなぜなのか?

答えは非常にシンプルです。

<彼>の手にかかった老人は誰ひとりとして司法解剖されなかったのです。

ぱんだ
ぱんだ
どうして?

高齢者が亡くなるのは当然の出来事であり、家族はもちろん、検視に立ち会った警察ですら自然死を疑いませんでした。

医者の立ち合いのない状況で亡くなった場合、不審死として司法解剖に回される……というのが一般的な認識かと思います。

しかし、現実的な問題としてすべての不審死を司法解剖する余裕はありません。司法解剖できる数には制限(※)があり、より疑わしい事例を優先して調べています。

※変死体の解剖率は全国平均で約10%

実際に司法解剖されるのは不審死全体の中でも一握りのケースだけ、といってもいいでしょう。

そうなると、寿命で亡くなったと思しき高齢者の遺体はまず間違いなくスルーされます。

かくして毒殺は発見されず、<彼>の犯行はすべて自然死として処理されていたのでした。

なお、注射痕については老人に特有のシミや皴(しわ)に紛れさせて目立たないようにしていました。

家族も警察も寿命だと思い込んで遺体を見るため、小さな小さな注射痕にまでは気づかなかったというわけです。

もし健康な若者が理由もなく亡くなっていたら、どう考えても不自然ですよね。<彼>の手口は対象が(自然に亡くなる)高齢者だったからこそ通用するものでした。

あからさまな犯人候補

作者が犯人を<彼>と表記しているのは、その正体を隠すために他なりません。

言い換えれば、登場人物のなかの誰かが連続殺人犯たる<彼>であるはずです。

  • 検事の大友
  • 介護企業の営業部長である佐久間
  • 現場で働く介護士の斯波(しば)

本作の主要な登場人物はこんな感じですが、いずれも30代前半と若く、総白髪の老人という<彼>の人物像とはかけ離れています。

では、いったい誰が犯人なのか?

読者はすぐに条件に合致する《とある人物》の存在に気づきます。

ぱんだ
ぱんだ
とある人物?

団啓司、59歳。

斯波の所属するケアセンター(事務所)のトップであり、ばっちり白髪です。

ここで一度、「団=犯人」と仮定してみましょう。

そもそも団は介護職の人間なので、《救う》べき標的は顧客の中にいくらでも見つけられます。

要介護者の顧客が一人きりになる時間帯だって把握していますし、預かっている合鍵を使えば家屋への侵入も容易です。

はっきり言って、団は犯人の要件をすっかり満たしていました。

温和でリーダーシップもある現場のまとめ役という人物像も、かえって裏の顔を想像させるようで、もう団が犯人であるとしか思われません。

他にそれらしい白髪の犯人候補もいませんしね。

しかし、だからこそ読者は迷わされます。

「いくらなんでもあからさますぎるだろう」と。

ふつうに考えれば、団はミスリードであり、真犯人は別の誰かだという気がします。

しかし、物語が進むほどに団は犯人らしさを深めていき、一方では第二犯人候補というべき人物はまったく見当たりません。

そこで読者(というかわたしですが)は再度考えさせられます。

「あれ? これマジで団が犯人なんじゃない?」と。

通常のミステリならありえない展開ですが、本作は社会派作品です。

介護制度の歪みや介護現場の悲惨さを訴えるという意味では「Why done it?(犯人の動機=救うための殺人)」こそが肝であり、「Who done it?(誰が犯人か)」に重きが置かれていなかったとしても不思議ではありません。

実際、わたしは「どんでん返しがあるとしたら動機や目的の部分で、犯人はまあ団で確定だろうなぁ」と思っていました。

はたしてラストに待ち構えていたのは超特大のサプライズ!

その正体は団以外の《真犯人》か、それとも驚嘆すべき《真の目的》か……!?

<すぐ下のネタバレに続く>

ネタバレ

物語終盤、ついに決定的な場面が訪れます。

顧客から預かっている合鍵が不正にコピーされていると気づいた斯波が、内部犯を疑って張り込みに乗り出したのです。

鍵は正社員が管理しているため、容疑者は限られます。斯波は直感的に団が怪しいと判断し、団の休暇前夜にあたりをつけました。

ぱんだ
ぱんだ
どきどき

はたして斯波の予感は的中しました。

団があらわれ、合鍵を使って老人宅に忍び込んだのです。

斯波は老人宅から出てきた団に声をかけました。

「団さん、ずっと見ていました。梅田さんの家の鍵をコピーして忍び込んでいましたね?」

団は答えません。ひどく動揺しているようで、息は荒く、表情は凍り付いたようにのっぺりとしていました。

「団さん、梅田さんの家で、何をしていたんですか?」

明らかに様子のおかしい団に、斯波は詰め寄るのですが……

※以下、小説より一部抜粋

…………

続く団の行動は、斯波の想像を超えていた。

暗がりの中、団は右手を大きく振り上げた。地面に落ちたペンライトから漏れる光が、いつの間にかその手に握られていた金槌をぼんやり照らす。

闇のすきま、かすかに見た団の顔には表情はなく、能面のようだった。

ちょうどその時、遠くで<うおん>と何か動物が鳴く声を聞いた気がした。このあたりには野犬でもいるのだろうか、それとも空耳だろうか。

そんなことをゆっくり考える間もなく、鉄の塊が斯波の頭めがけて振り下ろされてきた。

この後、遺体は団の車に積まれて運ばれていきます。<彼>の正体については、もう疑いようもありません。

統計推理

一方その頃、検事の大友秀樹(主人公)は意外なアプローチによって<彼>の存在に迫っていました。

いわゆる探偵の推理パートに該当する場面ですが、物語を動かしたのは凶器の発見でもなければ、目撃者の証言でもありません。

大友は【統計】によって警察すら欺いていた<彼>の大量殺人に気づきます。

ぱんだ
ぱんだ
統計?

経緯は省略しますが、大友は介護企業「フォレスト」から流出した内部データを手に入れていました。

各事業所の職員データ、顧客データ、売上にシフト……第三者から見れば何のおもしろみもない無機質なデータ群です。

しかし、大友はふとそのデータ群に違和感を覚えました。

「この<八賀ケアセンター>だけ、<死亡のため>の契約終了が多い気がするんだ」

そこから先はあっという間でした。大友の検事事務官(補佐役)である椎名は元数学研究者という異色の経歴の持ち主であり、データ分析や統計学はお手のものです。

八賀ケアセンターのデータは次の事実を示していました。

【1】自宅で急死する老人の割合が多い

【2】要介護度の高い老人に偏って急死している

「……つまり、<八賀ケアセンター>には要介護度の高い利用者を変死させる『何か』がある」

さらに分析を進めると、時間帯にも偏りがあることが判明します。

急死の死亡時刻は、老人が家で一人になる時間帯に集中していました。

つまり、導き出される結論は……

「変死体の発生は人為的に引き起こされている。つまり、殺人事件……」

いよいよデータ分析推理も大詰めです。椎名は顧客の死亡時間と従業員のシフト、二つのデータの相関関係を調べました。

※以下、小説より一部抜粋

…………

「一人だけ、期待値と実数の差が際立っている従業員がいます。期待値18に対して、実数4。あまりに少な過ぎます」

「……この従業員が勤務しているときには、ほとんど変死体が出ないということか?」

「そうです。この#13は正社員で週の平均就労時間は六十四時間強です。労働法的に問題がありそうですがそれは措くとして、これは全時間のおよそ三十八パーセントにもなります。それほど大きな枠の中に、四十七回球を投げて四回しか入っていないんです。人為的な操作を疑うべき数字です」

椎名は従業員名簿ファイルを開き、一人の従業員のシートを表示させた。

「これが#13の従業員です」

名簿は履歴書のような書式で、ご丁寧に本人の顔写真の画像も貼り付けてあった。

白髪の男だった。

「やはり、この人物の勤務シフトと変死体の発生にかなり強い相関が見られます。この人物が勤務していないとき、特に休みの日とその前日の夜で、明らかに変死体の発生率が上がります。それがそのまま曜日の相関とも一致します」

大友は椎名が示した事実をゆっくり頭の中で咀嚼する。そして浮かび上がってくる仮説を口にした。

「この人物が、仕事が休みのときに、老人を殺している?」

「それを直接証明する手段はありません。しかし、その仮定に基づいて検算してみると……」

椎名がキーを叩くと、画面に数字が表示された。

1/30

「もしこの人物が三十日に一人のペースで、勤務時間外に要介護度3以上の老人を殺し続けているとすると、<八賀ケアセンター>にまつわるデータの偏りのすべてに説明がつきます」

最後の一人

「ええ、そうですよ。今までに四十二人……いや、四十三人殺しています」

任意の事情聴取。<彼>はあっさりと犯行を認めました。

一切の否定も、抵抗も、言い逃れもありませんでした。それどころか犯行の手口を詳細に語ったり、証拠となる記録の在り処を教えたり、立件に協力的ですらありました。

「僕は限界まで、ばれるまでやる、そしてばれたら全て正直に話すと決めていたんです」

極刑になるとわかっていながら、決して自暴自棄というわけでもなく、<彼>は穏やかに落ち着いています。いいえ、それどころか<彼>はどこか満足そうでもあります。

困惑する大友に、<彼>は言いました。

「殺すことで彼らと彼らの家族を救いました。僕がやっていたことは介護です。喪失の介護、『ロスト・ケア』です」

大友は言葉を失いました。正義感の強い大友には、ましてや父親を二億円の有料老人ホームに入れている大友には、<彼>の言うことが理解できません。

絶句する大友を前に、<彼>は言葉を続けます。

「いや、一人は違うな。そうだ検事さん。八賀市の北にある雲雀丘の奥の雑木林を探してください。トランクに死体の入った車が乗り捨ててあります。昨日、殺してしまいました。僕はこっちがばれたんだと思ったんですけどね」

※以下、小説より一部抜粋

…………

県警はすぐさま<彼>の自宅と雲雀丘の雑木林の捜索を始めた。ほどなくして、供述の通り、雑木林の奥に乗り捨てられた白いセダンが見つかり、そのトランクに死体が隠してあったという報告が入った。

死体の身元は団啓司、五十九歳。

フォレスト八賀ケアセンターのセンター長を務めていた人物だという。

午後四時二十分、これを受けて大友は死体遺棄の容疑で<彼>――斯波宗典に対する最初の逮捕を行った。

「――裁判の前であっても、あなたは弁護人を選任する権利がある。また、被疑事実に対して弁解することができる」

法に定められている通りの権利の告知をしたが、「弁護人はいりません。弁解もありません」と、斯波は笑みを浮かべて放棄した。

髪は白く、目はくぼみ、顔には深い皺(しわ)が刻まれている。見た目はまるで老人だ。

しかし従業員名簿の生年月日の欄には1975年10月の生まれとあった。

満31歳。大友と同学年だ。

酷く老けたこの男は、四十人以上の人を殺し、それを介護だと言っている。

何なんだ、この男は?

 

補足

というわけで<彼>の正体は斯波でした。

斯波は31歳という年齢だけが明かされていて、なんとなく年齢相応の容姿が想像されていました。しかし、今になって思えば外見の描写がないことこそが伏線だったのです。

斯波が白髪でないとも、老人のような顔ではないとも書かれてはいませんでしたからね。

詳しくは後述しますが、斯波は年の離れた父親の介護に疲れ果て、それゆえにどっと老け込んでしまったのでした。

ちなみに、やっぱりミスリードだった団は物取りのために老人宅に侵入していて、斯波の口をふさごうとしたものの返り討ちにされています。

斯波が団を待ち伏せていたのは、同じ『ロスト・ケア』の実行者なのではないかと期待していたためでした。

ぱんだ
ぱんだ
びっくり……

ロスト・ケア

「何度、思い返しても正しいとしか思えません」

斯波が最初に殺したのは実の父親でした。

「元々認知症の気があった父は身体を不自由にしたことで急速に精神を変質させていきました。正体をなくし、わけがわからないことを言うようになり、昼夜を問わず麻痺した半身を引きずって徘徊するようになったんです」

地獄のような日々だった、と斯波は語ります。父親を介護する三年間で、彼は玉手箱を開けたかのように老け込んでしまいました。

「僕が一生懸命世話をしても感謝の言葉もくれず、酷い暴言でなじってくるようなことも度々ありました。それでも、僕を僕だと分かってくれているときはまだましだったんです。認知症が進行するにつれ、父はときどき僕のことを忘れるようになりました。世話しようとする僕を見て『誰だお前は!』って怯えるんです」

斯波には頼れる人がいませんでした。介護と仕事の両立は難しく、時間の融通が利くアルバイトをするしかありませんでしたが、生活を成り立たせるだけの収入は得られませんでした。

「やがて僕は生まれて初めて、まともに三食たべられないという事態に直面しました。飢えるなんてことは、アフリカとか東南アジアとかのどこか遠い国の話だと思っていたのに、笑えるほど簡単にそれは我が身に降りかかってきたんです」

斯波は葛藤の末に生活保護を申請しました。まともに食べられない状況で、背に腹は代えられないと意を決しての決断でした。それなのに、申請はあっさりと却下されました。

「福祉事務所の窓口で『働けるんですよね? 大変かもしれませんが頑張って』と励まされただけでした。だけど僕にはこれ以上、何をどう頑張ればいいのか分かりませんでした。このとき、僕は思い知ったんです。この社会には穴が空いている、って」

社会からはじき出された斯波は貧困と疲労の中、わけもわからず父親を叩くようになったのだと語ります。

「もう自分の意思がどこにあるのか分からない。ただ、自動的に手が動いて父を叩いているんです。この手が。一度は父を支えようと誓ったこの手が、叩いているんです。こんなことが何度も起きるんですよ。これはもう人間の生活じゃない」

斯波は明らかに限界を超えていました。とはいえ、自分が楽になるためだけに父親を手にかけたわけではありません。

ある日のことです。雲の切れ間のような安定期に、斯波の父親は言いました。「もう十分だ、殺してくれ」と。

「僕は『分かった、殺すよ』と答えました。すると父は満足そうに少し笑って言ったのです。『ありがとう。俺は、もうわけが分からなくなってるから……。伝えられるときに伝えておくよ。お前がいてくれて幸せだった。俺の子に生まれてくれて、ありがとう』と。あの言葉はまだ一言一句覚えています」

斯波は決して憎しみや恨みのために父親の命を絶ったわけではありません。お互いにとってそれが救いになるのだと、父子は理解していました。

「僕は気づいたんです。たとえ年老いて身体機能が衰え自立できなくなっても、たとえ認知症で自我が引き裂かれても、人間は人間なのだと。そして、人間ならば、守られるべき尊厳がある。生き長らえるだけで尊厳が損なわれる状態に陥っているなら死を与えるべきだと。殺すことで、父に報い、そして自らも報われるだと思いました」

警察は斯波の父の死を自然死と断定しました。斯波はそれを運命と受け入れ、使命として同じように苦しむ人々を救うことにしたのだと言います。

「介護の仕事に就いて知った現実は、想像以上でした。穴の底で、愛情と負担の狭間で、もがき苦しんでいる人がいくらでもいた。しかも世間はその穴を埋めることもせず、想像力を欠いた良識を振りかざし、そんな人たちを更に追いつめるんです。『ロスト・ケア』は、そんな人たちを救う手段です。僕はかつての自分が誰かにして欲しかったことをしたんです」

大友は怯みました。斯波の言うように、被害者遺族のなかには「救われた」と本音を漏らす者もいたからです。

けれど、大友は斯波の正しさを認めるわけにはいきません。検察官という立場的にも、また大友個人の倫理においても、それでも罪は罪なのだと叫ばずにはいられませんでした。

※以下、小説より一部抜粋

…………

大友は精一杯の言葉を振り絞った。

「死による救いなどまやかしだ! その死は諦めに過ぎない! お前の言う通り、たとえ認知症になっても人間は人間だ。人間なら守られるべき尊厳があるのもその通りだろう。だからこそ、殺すことは間違っている! 救いも尊厳も、生きていてこそのものだ。お前も、お前の父親も、死を望んだんじゃなく命を諦めたんだ! (中略) 死を与えるということは、救いのための選択肢も、尊厳を守るための努力も、全て投げ出し諦めるということだ! まして、お前に他人の命を諦めさせる権利など、あろうはずがない!」

性善説――。

人の性は善だという大友の持論。人は善なるものを求める生き物だ。それはきっと、斯波にも当てはまるはずだ。

だから、精一杯訴えかけた。斯波の魂の奥の善性まで届けと訴えかけた。

斯波は一瞬、驚いたように目を見開いたあと、笑った。

けたたましく、けたたましく、笑った。

「検事さん、なんて素晴らしい模範解答だ! 生きていてこそ? 善性? そんなことを言えるあなたは、やっぱり安全地帯にいるんですよ。豪華客船の上から、寄る辺なく溺れる者に命だ善だと説教しているんですよ。素晴らしい、本当に素晴らしい! 僕もできるならそんな立場になりたかった。

もしも死が救いでなく諦めだとしたら、諦めた方がましだという状況を作っているのは、この世界(あなたたち)だ!

もしも僕が本当は父を殺したくなんかなかったとしたら、殺した方がましだという状況を作ったのは、この世界(あなたたち)だ!」

叫ぶ声は、剣のように容赦なく大友に襲いかかってくる。

とっさに二の句が継げない大友に、斯波は声のトーンを下げて言った。

「それにね、検事さん。あなたがそんなことを言うのは二重に滑稽ですよ。だってあなたは、僕を死刑にするためにこうして取り調べをしているのでしょう?

(中略)

「同じですよ、検事さん。死刑で犯罪者を殺すのは、世のため人のためなのでしょう? だから正しい。だから罪悪感に蓋ができる。僕だって世のため人のために、老人を殺したんです。何も違いません」

(中略)

この日のあとも、大友は幾度も斯波への取り調べを行うが、結局、斯波に罪を背負わせることはできずに終わった。

斯波は人を殺した事実は完全に認めているものの、鳥の羽ほどの罪悪感すら負っていないように思えた。

敗北だ。

無論それは大友のごく私的な敗北であり、地検そのものは一審死刑判決という勝ちに向かって順調に走っていった。

2008年2月、逮捕から半年ちかく経て、大友は斯波宗典を十分に裏付けの取れた12の殺人と1件の傷害致死の容疑で起訴した。これをもって、事件は大友の手を離れた。

しかしやがて大友は気づくことになる。

斯波が老人を殺し続けた動機は、取り調べで語ったことが全てではなく、本当の動機をまだ隠している、と。

全ては斯波の思惑通りだ。人を殺すことだけじゃない。犯行が発覚することも、そして法廷で裁かれることも、更には死刑になることすらも。

大友がその真意に気づいたとき、すでに彼は手の届かない法廷の中にいた。

結末

4年後、東京拘置所。

確定死刑囚である斯波には、本来、肉親か弁護士しか接見が許されません。

しかしその日、斯波の元には検事の大友が訪れていました。

※以下、小説より一部抜粋

…………

お前の本当の目的は、お前の起こした事件が、広く世に知られることだ! 実の親への嘱託殺人から始まる哀しき殺人鬼の物語を、この国の人々に突きつけることだ!

愛情だとか、絆だとか、そんな言葉だけの虚飾を剥ぎ取る物語を。この社会に綺麗事では片づけられない歪みがあり、穴が空いていることを知らしめる物語を。豊かな先進国で暮らしていると思い込んでいる人々の目を覚まさせる物語を。

お前は公開の法廷という場を利用して、そんな物語を語った。いや、語っている。

お前の物語は、お前の死をもって完成する。死刑という強烈な結末が、人々の記憶に、この国の歴史に、お前の物語を深く刻み込む。

お前自身は死んだとしても、お前の物語を目の当たりにして、目を覚ました人々が少しでも良い方向にこの社会を、いやこの世界を変える。それがお前の目的だ!

お前はかつて『この世には罪悪感に蓋をしてでも人を殺すべきときがある』と言った。だが、お前が本当に望んでいるのは、人が人の死を、まして家族の死を願うことのないような世の中だ!

命を諦めなくてもいい世界、お前とお前の父親が落ちたという穴が空いていない世界だ! 違うか!?」

 

一度ならず二度までもこの検事は斯波の真実を発見していた。斯波は突如現れた理解者に感動すら覚え、思わず笑みを浮かべた。

それを肯定と受け取ったのか、検事の形相が険しくなる。ぎりりと歯がみする音が聞こえるようだ。

「何様だ! 殉教者きどりか! 救世主きどりか!」

検事の怒鳴り声は悲鳴にも聞こえた。

「いや」と斯波は首を振って言った。

「もしそうだとして……。ええ、これは仮定の話です。検事さんの言う通り、僕がたくさんの人を犠牲にして、自分の命すら賭してそんな物語を人々に語ったとしても、何も変えることができないかもしれない。もうなるようにしかならないのかもしれない。もしかしたら、今はまだ全然ましで、十年後、二十年後にはもっと酷いことになっているのかもしれない。いや、きっとそうなんだ。ひどく分の悪い、絶望的な戦いですよ」

「……」

検事は何も言わず、こちらを睨み付けている。両の目に光るものがあった。斯波は続けた。

「それでも、せめて一矢。僕と父を追いつめたものに、せめて一矢報いることができるなら。わずかでも未来に何かを残せるなら。戦う価値はあったのかもしれません」

斯波は笑顔を作ったつもりだが、上手く笑えている自信はなかった。

「ふざけるな! そんな理屈で勝手に殺すな! 勝手に背負うな! 勝手に戦うな! 勝手に死ぬな! ここはお前だけの世界じゃないんだ!」

検事の声は熱く、そして濡れて震えていた。

「そうですね。あなたと話ができて良かった」

本心からそう思えた。もう十分だろう。

斯波は沈黙した。

 

補足

大友はなぜ斯波のために涙を流したのでしょうか?

短く説明するのは難しいのですが、端的に言えば大友は斯波の「正しさ」を認めていたのだと思います。

社会的には連続殺人鬼である斯波は裁かれる。けれど、斯波が命を賭してまで《救い》を続けたのは、そもそも社会に問題があったからです。

社会の歪みに圧し潰されようとしていた人々を、斯波は救い、そして社会に抹殺される。その理不尽に大友は我慢ならなかったのではないでしょうか。

また、介護の必要な父親を持つ息子という点において、大友と斯波は同じ立場に立っていた人間だと言えます。

金を持っていたかどうか、その紙一重の立場さえ違っていれば、斯波なっていたのは大友だったのかもしれません。だからこそ、大友は斯波の自己犠牲を他人事とは思えなかったのではないかと思われました。

エピローグ

斯波の行いをどのように評価するべきか、それは誰にもわかりません。

ただ、被害者遺族である羽田洋子は介護から解放されたことで経済的にも精神的にも安定を取り戻しました。再婚も間近で、息子の颯太も健やかに成長しています。

少なくとも斯波のおかげで人生を取り戻せた家族がいることは間違いありません。

とはいえ斯波本人が言っていたように、いかにマスコミに「哀しき殺人鬼の物語」が取り沙汰されようと、それはしょせん焼け石に水です。日本社会の歪みがただちに修復されるなんてことはありません。

社会には依然として穴が空いたままです。

小説のラストシーン。

大友は愛する妻子と歩きながら、これからの社会に思いを馳せます。

※以下、小説より一部抜粋

…………

社会保障・人口問題研究所は四十年後に日本は現役世代一人が高齢者一人を支える「肩車社会」に突入するという予測を発表した。厚生労働省の推計によれば、介護が必要な認知症の高齢者の数は来年にも三百万人を上回る見通しだ。

その一方で介護業界の離職率は相変わらず高く、人手不足は年々深刻化しているという。

穴は塞がるどころか、徐々にその深淵を広げているように思える。

分かっている。黙示されている。

未来に起こりうる災厄もすでに黙示されている。

戦いを挑んだ男は、拘置所で死を待っている。

物語は紡がれつつあるが、もう世界は変わらないのかもしれない。

分かっていた。分かっている。分かっているのに。

人は立ちすくむばかりだ。

(中略)

日没まで、もうさほど時間はない。

それは、あらかじめ分かっている。

もうすぐ、夜が来る。

<完>

感想

「えっ!? 団が犯人じゃないの!? しかも真犯人は斯波!?」

たった数文字ですべてひっくり返されたあの瞬間、まさに衝撃でした。

これまでの読書経験から、ミステリ小説の《お約束》はそれなりにわかっているつもりです。

いかにもミスリードっぽい団のことは、最初から徹底的に疑っていました。

でも、ひとつひとつ事実が積み上げられていくたび「実は団は犯人じゃない」という逃げ道が塞がれていって、気づけば「団が犯人だと認めるしかない」という袋小路に追いつめられていました。

作者の思惑通り誘導されているとも知らず、のんきに「そっかー、団が犯人かー。まあ、社会派作品だし、動機で驚かしてくれるパターンかな?」なんて考えていたわたしが、いったいどれだけギョッとしたことか!

「やられた!」と心の中で叫んだのは、少々の敗北感と、とびきりの喝采のためでした。

これだからミステリはやめられません。

この完成度でデビュー作という事実も少なからず衝撃的でした。

※ドラマ化もされた二作目『絶叫』もすごくよかったです↓

小説「絶叫」のあらすじネタバレと感想!結末では驚きの真犯人が判明!葉真中顕「絶叫」がWOWOWドラマ化! 原作小説は「このミステリーがすごい(2015)」の第11位に選出された話題作ですね。 ...

 

社会派作品として

『ロスト・ケア』は介護問題についてのリテラシーを高めてくれる作品でもありました。

特にわたしがハッとさせられたのは《介護制度そのものの歪み》というテーマについてです。

斯波は「社会には穴が空いている」と言いました。

これまで漠然と抱いていた家庭単位のミクロな視点から一転、福祉制度そのものが十分に整備されていないというマクロな視点は、真犯人の正体よりも強烈な衝撃をわたしにもたらしました。

「やがて我が身にも降りかかる介護問題にどのように立ち向かうのか?」

避けては通れない未来に思いを馳せるとき、わたしは不安にならざるをえません。

金を払って事なきを得た大友。自宅介護で地獄に直面した斯波。

両極端な例としても、わたしがどちらのグループに分類されるかと問われれば……。

日没まで、もうさほど時間はない。それは、あらかじめ分かっている。もうすぐ、夜が来る

小説は日本の未来を暗示するような一文で幕を閉じます。

犯人は逮捕され事件は解決したのに、気持ちは一向に晴れません。

目を背けていたい、けれど決して他人ごとではない切実な問題を突きつけてくる一冊でした。

ぱんだ
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まとめ

今回は葉真中顕『ロスト・ケア』のあらすじネタバレ解説(と感想)をお届けしました!

僕はかつての自分が誰かにして欲しかったことをしたんです。

斯波の犯行動機ともいえるこのセリフは、キリスト教では《黄金律》という教えにあたるそうです。

記事では省略しましたが、大友はキリスト教徒であり、犯罪者のはずの斯波に殉教者(あるいは救世主)のような正しさを見出し、葛藤するという場面もありました。

はたして斯波は善悪、どちらの領域に分類されるべき人間だったのでしょうか?

家庭単位の介護問題、社会全体での介護問題とあわせて、考えさせられる物語でした。

 

映画情報

キャスト

  • 松山ケンイチ
  • 長澤まさみ

公開日

2023年公開

ぱんだ
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